第22話:エスメの十七年
「透かしが、一致しました」
卓の上に、二枚の紙。カルヴィンが抱え込んでいた破棄の台本と、ガーランド卿の名で届いた縁談の打診状。ランプに掲げれば、どちらの漉き目にも、同じ白い鳩が浮かぶ。
エスメは二枚を、長いこと灯りに透かしていた。灯りの向こうで、鳩が二羽、重なって見えた。
「……約束の話を、する頃合いだね」
紙を下ろすと、エスメは立ち上がり、自分の手で表の看板を下ろした。
「白鳩の庭に立つ前に——と言ったんだがねえ。あんたはさっさと立って、茶まで飲んじまった。約束ってのは、守れる順番に来ちゃくれないもんだ」
苦笑は、口の端だけだった。
「ジェミマ、戸締まり。灯りはひとつでいい。……あんたもお聞き。うちの子が知らずに済む話じゃ、なくなったからね」
ジェミマは何も言わずに戸口の錠を落とし、卓の端の椅子に、猫のように音もなく収まった。
*
「十七年前。あたしとカサンドラは、二人でこの店をやってた。……で、二人で白鳩会を追ってた」
灯りをひとつに落とした事務所は、昼間より広く聞こえる。エスメは茶を淹れなかった。商いの外の話をする夜、この人は客あしらいをしない。
「縁談の操作さ。壊して、あてがって、借金の首輪。手口は、あんたがこの半年で数えてきたのと寸分違わない。あたしらは三年かけて紙を集めた。雛形の口上の写し、封蝋の紹介状、貸し金の証文。紙は揃ってた。足りないのは、それを人前で読み上げる生きた声、ひとつだけ。……証人も、立った」
「証人」
「白鳩会に婚約を壊されて、家ごと沈められた若い依頼人だよ。名前は言わない。あの子、で通させておくれ。——証言の三日前だった。馬車の事故。道も、御者も、天気も、何もかも綺麗なままで、あの子だけが死んだ。誰も罪に問われなかった。事故だからね」
茶器に伸ばしかけた手を、エスメはそのまま膝に戻した。
「……その子、いくつだったの」
ジェミマが、小さく訊いた。
「あんたより、三つ上」
ジェミマはそれきり、黙った。膝の上で、自分の指を握り込んでいる。王都で一番速いと言い張るあの指が、今夜は何も掠め取らず、ただ話を聞いていた。
「あたしは、手を引いた。カサンドラは、引かなかった。それだけの話さ。守るものがある者は、あの人に勝てないんだよ。あたしには事務所と、拾った娘たちがいた。……そう言い訳して、あたしは十七年、鍵を掛けてきた」
——観察記録。エスメ・ハトリー。声、帳場のまま。背筋、崩れず。手は膝の上で動かず。……いいえ。親指だけが、袖口の糸を繰るように動いている。数え直しているのだ。十七年ぶん、何度目かの。
「あんたの手帳が『依頼十四』から始まってるのは、そういうわけだ。十三件目まではあたしとの仕事。十四件目からは、一人の記録。相棒が降りた年から、あの人は一人で数え続けた。八年、ずっと」
手帳の目次を、私は思い出していた。白鳩、十七件。八年で、十七件。一人になった母は、二人分を数え続けていたことになる。『帰りに林檎』と書き足す、あの同じ筆圧で。
エスメはそこで、初めて言葉を切った。
「そして九年前。同じ馬車の、同じ事故だ。……二度目だよ。あたしは二度、同じ手口で人を持っていかれた。二度とも、止めなかった」
ランプの油が、小さく鳴った。エスメは付け足しも、言い直しもしなかった。帳簿の最後の数字を読み終えた時と、同じ閉じ方だった。
*
私は泣かなかった。泣く代わりに、聞いた話を頭の中で、順番に置き直していた。十七年前の事故が、ひとつ。九年前の事故が、ひとつ。手口は同じ。母はそれを知っていて、知っていてなお、頁を進めた。破り取られた最後の一件まで。
「エスメさん。ひとつだけ、訂正があります」
「……お言い」
「止めなかった、ではありません。止まらなかった、です。それは母の性分です。——私と、同じ」
エスメは私を見た。長いこと、見た。
「証言は、聞き届けました。ですから、続きは私がやります。依頼人は私。記録も私。エスメさんの帳簿に、これ以上の負いが載る話ではありません」
「……カサンドラも、同じ顔でそう言ったよ」
「でしたら、お返事もご存じのはずです」
ふ、と息の音がした。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「ああ、知ってるとも。——けどね、お嬢さん。ひとつだけ、あの人とあんたとで、違うものがある」
エスメは、指を二本立てた。
「あんたたちは二人だ。数える者と、裁く者と。カサンドラに無くて、あんたに有るものだ。あの人は最後まで、数え上げた紙の持ち込み先がなかった。あんたには監査室がある。裁く側の判が、押せる」
数えても、裁けなければ、紙は紙のまま朽ちる。母の八年が、そうだったように。
それから、いつもの商売人の顔で笑った。中身だけが、いつもの倍、重かった。
「なら、勝てる算段じゃないか。この件、うちの帳面にも載せるよ。うちは前金制だ。十七年分の利子、あの庭から取り立てさせてもらう」
*
エスメは階段下の物入れを開け、金庫の、さらに奥へ腕を差し入れた。
出てきたのは、油紙を三重に巻いた古い綴りだった。埃はない。仕舞い込まれた紙ではなく、預かられ続けた紙の顔をしていた。
「十七年前の、調査ぶんだ。あたしの分の帳尻だ。持っておいき」
両手で受け取る。母の手帳より、ひとまわり厚い。
表紙をめくると、一頁目の記録者の欄に、名がふたつ並んでいた。カサンドラ・レインズ。エスメ・ハトリー。
頁を繰れば、几帳面な小さい字と、伸びやかな大きい字が、交互に並んでいる。二人で書いた紙は、二人の声で読めた。
『依頼一。』
そこから、始まっていた。
母の手帳が『依頼十四』から始まっていた理由。欠けていた最初の十三件が、いま私の手の中で、続きに繋がった。
「読み終わったら、灯りをお消し。……ああ、それと」
エスメは帳場の声に戻って、付け加えた。
「今夜の油は、経費で落としていいよ」
お読みいただきありがとうございます! 断罪のない、灯りひとつの夜の回でした。十七年鍵を掛けてきた人が「前金制」の顔で立ち上がる瞬間を、じっくり書きました。
次回「鉱脈の帳尻」。二人の連名で綴られた十七年前の記録が、白鳩会の金の水脈を照らし出します。
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