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婚約破棄された令嬢、縁談調査人はじめました 〜あなたの婚約者の裏の顔、お調べします〜  作者: 藤宮レイ


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第21話:依頼人は、私

依頼書の「依頼人」の欄は、五文字ぶんの幅しかない。


他人の名なら、何百と書いてきた欄だった。その欄の上で、インクを含んだペン先が止まっている。もう、どれくらいだろう。


「書けないか」


机の向こうで、ギデオン様が書類から顔も上げずに言った。


「いいえ。書きます」


答えながら、指は動かなかった。妙なものだ。断罪の報告書なら、千枚でも書ける手なのに。


他人の嘘なら、いくらでも数えてきた。ロッティ様の涙も、リオネル様の迷いも、王宮の花嫁候補の経歴も、順番に検分してきた。ただ一件——一年前の広間の床、あの夜の自分の件だけを、私は帳面の外に置いてきたのだった。


調査人は、依頼のない件を調べない。そう嘯いて、一年。依頼がなかったのではない。依頼人が、ここに来なかっただけだ。毎朝この欄の前を素通りして、他人の縁談ばかり検分してきた。


「言っておくが」ギデオン様がペン先の音を止めて、続けた。「白鳩会の全件監査には、君の一件も含まれる。君が書かずとも、調べは進む」


「いいえ」私は首を振った。「あれは私の事件です。証拠の一枚目から、私の手で検めます。——他人事の顔で扱われるのは、もう飽きましたので」


調べれば、答えが出る。なぜ捨てられたのか、ではない。誰が、何のために、捨てさせたのか。答えの出る問いに変わったいまなら——書ける。


ペン先を、下ろした。


——観察記録。依頼人、コーデリア・レインズ。案件、同人の婚約破棄に関する調査。着手日、本日。備考、一年遅れ。


「案件名、『コーデリア・レインズの婚約破棄に関する調査』。依頼人は、私です。……前金は、いかがいたしましょう」


「不要だ。監査室の正式案件に併合する」


ギデオン様は依頼書を取り、ひと呼吸ぶんだけ長く、依頼人の欄を見た。それから、監査卿の印を押した。


「受理する。……ようやくだな」


「ええ。お待たせいたしました」


*


その週の茶会は、婚約者(仮)としての社交だった。


回廊で、マーゴット様と行き合った。今日のドレスは若草色。裾を返せば貸し札が縫いつけてある側の、若草色である。


「まあ、コーデリア様。ご立派になられて」扇の内から、いつもの笑いが来た。「殿方って、お可哀想な方がお好きなのねえ」


一年前なら、この声にすかさず扇の壁が三枚は重なった。私は黙って、その数を待った。


——一枚も、重ならなかった。


それどころか、連れの令嬢たちが半歩ずつ、静かにマーゴット様から離れていく。潮の引く音はしない。ただ、彼女の周りの床だけが、広くなっていく。


「マーゴット様」私は丁寧に会釈をした。「お裾の糸が出ておいでですよ。お直しの前に——お返しの日限を、お確かめになっては」


それだけ言って、通り過ぎた。手を下す必要は、どこにもなかった。振り向かなくても、扇の陰の囁きは数えられる。「公爵のご婚約者に、まあ」「あの方、まだあんな」——七つ。今日の風は七つとも、私の側から吹いていた。


*


「証人としての呼び出しなら……応じるしか、ないだろう」


事務所の依頼人用の椅子で、カルヴィンは前に見た時より痩せていた。侯爵家の台所は、聞くまでもなく襟元に出ている。付け替えた釦の糸が、一つだけ色が違った。


階段の中程では、ジェミマが依頼書の控えを勝手に広げていた。


「『依頼人、コーデリア・レインズ』ねえ。……ふうん。あんたも、やっと自分の番ってわけ」


口の端が上がるのを、今日は隠しもしなかった。


「ジェミマ。証人の前です」


「はいはい」


私はカルヴィンに向き直った。


「一年前のあの夜、白鳩会から渡された『言い回しの紙』。——まだ、お持ちですね」


「な……」カルヴィンの目が泳いだ。斜め上ではなく、足元へ。「……捨てた、とは思わないのか」


「あなたは、紙を捨てられない人です。何かあった時、悪いのは自分だけではないと言い張るための紙を、あなたは必ず取っておく」


「……買いかぶりだ」


「いいえ、見立てです。あなたの外套の内隠しは、左だけ縫い目が緩んでいます。畳んだ紙を、何度も出し入れした緩み方です」


カルヴィンは、口を開けて、閉じた。それから、笑うでも怒るでもない顔で、天井を仰いだ。


「……マーゴットは、質屋の帳面を見せても金勘定をやめない。父は、まだ家名で借りられると思っている。沈む船の上で、俺だけが水位を見ている気分だ。……お前の言う通りだよ。俺は、保険を掛けた」


長い沈黙のあと、カルヴィンは懐から四つ折りの紙を出した。折り目が毛羽立つほど、畳み直された紙だった。


「……保険の、つもりだった。何もかもあの連中の指図だったと言える物が、これしか、ない」


「けっこうです。あなたの人生で一番働く紙に、なっていただきましょう」


*


夜の監査室で、私はその紙をランプに掲げた。


広げれば、覚えのある文句が並んでいた。『社交をおろそかに』『真実の愛』『両家合意』。一年前、三分かけて読み上げられた口上が、几帳面な手跡で一枚に収まっている。私の一年は、この一枚から始まったのだ。


思ったより、何も揺れなかった。揺れる代わりに、目が仕事を始めた。


上等な紙だった。使い捨ての台本一枚には過ぎた品——そして、灯りの中に、透かしが浮かんだ。羽を広げた、白い鳩。


「もう一枚だ」


ギデオン様が、卓の書状を差し出した。実家から回させた、例の縁談の打診状。地方の裕福なご老体——ガーランド伯爵家当主、ガーランド卿の名で届いた、あの首輪の寸法書きである。


二枚を重ねて、光にかざす。


一年前の、婚約破棄の台本。先日の、縁談の打診。


透かしが——同じだった。


同じ鳩が、同じ角度で羽を広げ、二枚の紙の中でぴたりと重なった。


「……私を壊した紙と、私を嫁がせる紙が」


「同じ漉き場から出ている。破棄も、次の縁も、初めから同じ帳面の上だ」


壊すのも、繕うのも、同じ手。ならば、数えに行く帳尻は一つしかない。


灯りの中で、二羽の白い鳩は羽を重ねたまま、静かにこちらを見ていた。


お読みいただきありがとうございます! 第一話からずっと書けなかった五文字を、依頼人欄にようやく書かせてあげられました。そして二枚の紙の透かしが重なる音が、第四章の開幕の音です。


次回「エスメの十七年」。白鳩会と因縁を抱えた所長が、ようやく重い口を開きます。


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