第20話:公爵の婚約者(仮)
その手紙は、朝一番の便で事務所に届いた。
レインズ家の封蝋。一年ぶりに見る、実家の印だった。
「珍しいね。読まないのかい」
「読みます」
父の字は、事務的だった。時候の挨拶が三行、本題が五行。曰く——白鳩会の仲介で、良い縁談の打診があった。相手は地方の、裕福なご老体の貴族である。醜聞のあった娘には過ぎた話。家のためを思うなら、心得違いをせぬように。
——次の良いご縁は、あなたの番よ、コーデリアさん。
あの茶会の、別れ際の声が重なった。予告は、社交辞令ではなかった。
私は手紙の中の嘘を数えた。「良い縁談」がひとつ。「おまえのためを思えばこそ」がふたつ。……三つ目を数えかけて、指が、一度だけ止まった。
嫁げば、調査人は終わる。監査室も、この帳面も。縁談は、祝いの形をした首輪にもなる——それを私は、この半年でいやというほど数えてきたのだった。他人の首に掛かるのを、いくつも。
自分の首に寸法を合わせられたのは、初めてだった。
「顔色が変わらないねえ、あんたも」エスメは茶器を置いた。「……で、どうすんだい」
「調べます。いつも通りに。ただ——今回は、報告する先を選びます」
私は手紙を畳んで、外套を取った。
「エスメさん。今夜、王宮に上がります」
「ああ。行っといで」
*
夜の監査室は、ランプが二つだけだった。
手紙を読み終えたギデオン様は、それを卓に置き、長くは見なかった。
「雛形どおりだ。断れば醜聞、頷けば首輪。……君を、盤から下ろす気だ」
「わかっています」
「なら、先にこちらの話を済ませる。——続きは資料を見せてからだと、そう言った。資料は見せた。残りは、話だ」
彼は鉄格子の棚を開け、あの古い綴りを卓に置いた。先の王妃選定の、監査記録。
「候補は三人いた。うち一人が、ご成婚の三月前に、出所の知れない醜聞で消えた。繰り上がった方が、今の王妃陛下だ」
短い言葉が、順番に置かれていく。感情の載らない、報告の声で。
「消えた候補の醜聞の段取りは、雛形の口上、封蝋の紹介状、借金の首輪。——白鳩会の型と、同じだった。それを追っていた協力調査人が、カサンドラ・レインズ。彼女は『事故』で死んだ」
「……母が最後に追っていた一件は、これだったのですね」
「破られた頁の中身は、俺も知らん。ずっと、探している」
「陛下は、ご存じなのですか」
「兄上は、いまの王妃陛下を大切にしておられる。それは嘘ではない。だからこそ——その始まりに細工があったなら、知らずに済ませていい話ではない。俺は、そう思っている」
彼は綴りの上に手を置いた。
「以来、俺は縁談というものを信じていない。信じていないから、監査卿を引き受けた。壊される縁を、せめて検分できる場所に、いるために」
氷の監査卿の声は、最後まで温度を変えなかった。変えないまま、置かれる中身だけが重かった。
「君を監査室に入れたことに、母君の名が無関係だったとは言わない」
綴りを閉じて、彼は私を見た。
「だが、いま隣に置きたいのは、カサンドラの娘じゃない。嘘を数える君だ。君の目は、母君のものじゃない。——君のものだ」
返す言葉を、私は三つ用意して、三つとも使えなかった。
「そこで、だ」
ギデオン様は立ち上がり、卓を回って、私の前に手を差し出した。
「白鳩会の縁談から君を守り、なおかつ社交界の奥へ入る名目は、一つしかない。——俺と婚約しろ。……仮に、だ」
「……仮に」
「王族の縁談は、すべて監査を通る。俺の婚約者になれば、白鳩会の仲介は君に指一本届かん。実家も断れん。婚約者であれば、夜会の奥の扉まで入れる。実務の話だ」
実務の話だ、と言った人の「仮に」の前の間が、書類を読む時より半拍長い——気がして、私は確かめるために、差し出された手袋の縫い目を数えようとした。
——観察記録。ギデオン・ヴェルクレア公爵。手袋の縫い目、数えられず。以下、記録不能。
数えられなかった。観察者、失格である。
「返事を急がせるのは、良い縁談の作法に反する」ギデオン様は手を差し出したまま、言った。「だが、白鳩会は待たん。……三日やる、と言いたいところだが」
「三日は、要りません」
私はその手に、自分の手を載せた。
「お受けします。ただし、調査は前金制ですので。対価は——白鳩会の帳尻で、いただきます」
「高くつくな」
「ええ。王都で一番」
彼の口元が、かすかに動いた気がした。それから監査卿の顔に戻り、窓の外の王都へ向けて、宣告した。
「王命の名の下に。白鳩会の仲介する縁談の全件を、明日より監査室の正式な調査対象とする。——仲人の善意の、帳尻を検める」
宣戦布告だった。白い鳩の庭の、その主に向けての。
*
「はあ!? 仮って何よ、仮って!」
翌朝の事務所で、ジェミマは椅子ごと立ち上がった。
「婚約なら婚約でしょ! 仮ってことは何、終わったら返品すんの? あんた、それでいいわけ?」
「実務ですから」
「じ、つ、む〜?」ジェミマは思い切り顔をしかめて——それから、にやけるのを隠すのに失敗した。「……ま、いいけど。あんたを地方のじじいにくれてやるより、百倍いいけど」
「ジェミマ」
「なによ」
「お祝い金は出ませんよ」
「ちぇっ」
舌を出して、それでもその日一日、ジェミマの鼻歌は止まらなかった。エスメは帳簿を繰りながら一言、「王弟殿下相手じゃ、詫び金の桁が変わるねえ」と笑った。
*
後日。王宮の大夜会。
「ヴェルクレア公爵殿下、ならびに——ご婚約者、コーデリア・レインズ嬢」
先触れの声が、大階段の下の広間へ落ちた。ざわめきが、波になって返ってくる。
一年前、私はあの広間の床の上で、婚約破棄の口上を数えていた。口上三分、嘘三つ。あの夜の私に教えてやりたい。あなたはいずれ、この階段の上に立つ、と。
見上げる顔、顔、顔。扇の陰の囁き。「あの、レインズ家の」「破棄された方でしょう」「まさか殿下が」——聞こえる分だけで、十二。
「怖いか」
腕の主が、前を向いたまま訊いた。
「いいえ」
扇を、胸の高さに開く。
「数えるものが多くて、うれしいくらいです」
ざわめきの中の嘘と、悪意と、好奇と。今夜はまだ、数えきれないほどある。
——けれど私はもう、知っている。数えきれないものは、二人で数えればいい。
お読みいただきありがとうございます! 第三章はここまで。「仮に、だ」の半拍の間に、実務と実務でないものが半分ずつ入っています。数えられない観察記録、初めて書きました。
次回から第四章。次の調査対象は、私自身の婚約破棄。依頼人は——私です。
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