第18話:あたしの指は、嘘つかない
「……あたしの、元の飼い主」
そう言ったきり、ジェミマは自分の両手を見つめていた。指を折って、震えを数えて止めようとするみたいに。私は手帳を閉じ、続きを待った。
「バージル一味はね、掏摸の上がりじゃ食ってないんだ。本業は『注文仕事』。調べ屋の家に入って、書付を盗る。それでも黙らない相手は——脅す」
「注文主は、どなたです」
「顔は知らない。誰も知らない。ただ、報酬の封筒は覚えてる。白い封蝋。……あたし、あの封筒が届く日が好きだった。飯が、肉になるから」
好きだった、と言った口のまま、ジェミマは唇を噛んだ。六つで掏り方を仕込まれ、「仕事」を見て育ち、十二で逃げた子の指は、まだ震えていた。
「書付を盗られた調べ屋が、そのあとどうなるか。あたし、見たことある。だから逃げたの。……なのに、逃げた先がよりにもよって調べ屋の事務所って、笑うでしょ」
「笑いません。良い巡り合わせだと思うだけです」
「連れ戻しに来るよ、あいつは。逃げた指を、放しておかない」
「来させましょう」
ジェミマが、はじかれたように顔を上げた。
「怯えて待つのと、待ち構えるのとでは、夜の長さが違います。準備は三つ。手帳を写しと差し替え、本物は王宮へ。ギデオン様に伝書を一枚。三つ目は、あなたを安全な場所へ——」
「やだ」即答だった。「あたしも、いる」
*
数日後の夜。灯りを一つに落とした事務所で、私とジェミマは帳面を広げていた。読み書きの稽古——という体の、見張りの夜。四晩目だった。
来るなら、月のない晩。エスメさんが「集金」と称して事務所を空ける晩を、向こうは必ず調べてくる。だから今夜、と踏んでいた。
裏口の蝶番が、音もなく開いた。事前に油を差してきたのだ。手慣れている。
「勉強熱心だなあ、ジェミィ」
男が三人。真ん中の一人だけ、足音がなかった。腰から提げた真鍮の小さな鳥籠が、歩みに合わせて、かたりと鳴る。籠は、空だった。
——観察記録。鳩籠のバージル。五十がらみ。猫背。指、異様に長い。爪の手入れだけ貴族並み。空の籠を鳴らして歩くのは、逃げた鳥への見せしめ。
「レインズの娘だな。死んだ母親と、そっくりの目だ」バージルは笑いもしなかった。「手帳を出しな。そうすりゃ今夜は、誰も痛くない」
「お断りしたら?」
「痛い」
商売の口調だった。値切りも脅しも通らない、定価の声。
「一つだけ伺います。母の手帳から頁を破り取ったのは、あなたですか」
「さあな。俺は注文の品を回収するだけだ。中身は読まねえ。読まねえから、長生きしてる」
手下が引き出しを検め始める。ジェミマが、立ち上がった。
「……手帳の場所なら、あたしが知ってる。案内する。だから、この人に触んな」
「ジェミィ」
長い指が、ジェミマの手首を掴んだ。
「戻れ。指は飼い主のもんだ。餌をやったのは誰だ。掏り方を教えたのは誰だ。その指は一本残らず、うちの商売道具だよ」
「……そうだね。六つからずっと、あんたの籠ん中で覚えた」
ジェミマは逆らわなかった。掴まれたまま、半歩、男の懐へ踏み込んだ。
離れた時——あの子の指先で、油紙の包みが、くるりと回っていた。
バージルの手が、自分の懐を叩く。空だ。籠と同じに。
「あたしの指は嘘つかない。——あんたの飼い方が、嘘だっただけ」
「てめえ——!」
「申し遅れました。手帳は写しです」私は帳面を静かに閉じた。「本物は三日前から、王宮の錠前の中。あなた方はたった今、盗る物のない家に押し入って、逆に盗られてお帰りになるところです」
呼子を、一つ。表と裏で、足音が一斉に立った。
*
「王家縁談監査室の権限で拘束する。——抵抗は勧めない」
戸口のギデオン様は、剣も抜かなかった。抜く必要のない人数を、連れて来ていたからだ。縄を打たれたバージルは、最後にジェミマを一瞥した。
「……籠は、いつでも開けてあるぜ、ジェミィ」
「二度と入らないから、潰れるまで開けときな」
一味が引き立てられていく。ギデオン様は戸口で一度だけ、振り返った。
「伝書一枚で王弟を夜番に使うとは、いい度胸だ」
「監査に関わる証拠の警護は、公務の範疇と伺いましたので」
「……ああ、公務だ。よくやった——二人とも」
「ふん。王弟サマに褒められたって、嬉しくないし」そう言うジェミマの耳は、暗がりでも分かるほど赤かった。
*
足音が消えると、ジェミマの膝から、すとんと力が抜けた。
私は隣に座り、何も言わず、稽古の帳面を開き直した。怖かったですか、とは聞かない。聞けばあの子は「全然」と嘘をつく。嘘をつかない指の持ち主に、口で嘘をつかせることもないでしょう。
あの子の震えが字を書ける程度に収まるまで、私は灯心を一度だけ整えた。
「……あんたさ。あいつに母親のこと言われて、なんで平気なの」
「平気ではありません。数えていました」
「〜〜っ、あんたのそういうとこ」ジェミマは帳面に、ぐりぐりと大きな字を書いた。「あんたが泣かないから、あたしも泣かないの。悪い!?」
書かれていたのは、拙い、けれど堂々とした、自分の名前だった。籠の鳥ではない、一人分の名前。
「悪くありません。……字、上達しましたね」
「当たり前でしょ。教え方が細かいんだから」
ジェミマはふん、と鼻を鳴らして、その隣にもう一つ、もっとへたな字で私の名前を書いた。二つ並んだところで、満足したらしい。
私はその頭を一度だけ撫でた。ジェミマは、払いのけなかった。
*
夜が更けてから、掏り返した油紙を二人で開いた。
中身は一枚。指名手配書でも、脅し文でもない。
『レインズの手帳、回収せよ』
それだけの短い文。宛名はなく、署名もなく——封蝋だけが、白い鳩だった。翼を広げ、輪をくわえた、あの意匠。
「……白い封蝋」ジェミマが低く言った。「あの封筒と、同じやつ」
注文主が、ようやく尻尾を見せた。ならば辿るだけだ。尻尾から、胴体まで。
私は白い鳩を、頭の帳面の一番上に控えた。
お読みいただきありがとうございます! ジェミマ、古巣との決着回でした。掏られて育った指が、今度は自分の意志で掏り返す——あの子の三年分の答えです。
次回「白鳩の庭のお茶会」。尻尾を掴んだ調査人が、善意の微笑みの本拠地へ——招かれて、参ります。
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