第17話:手帳の中の白い鳩
事務所の夜は、灯りが一つに減る。看板を下ろすと、通りの音も一緒に遠ざかる。
エスメは奥の机で帳簿を繰り、私とジェミマは卓の上に、母の手帳を広げていた。革の表紙は角が丸くなるまで使い込まれ、頁は八年ぶん、几帳面な小さい字で埋まっている。
「あんた、ほんとにこれ読めんの? あたしにはミミズの行列に見えるけど」
「読めます。……私の書き方と、同じですから」
日付、場所、相手、着衣、そして嘘の数。並べる順番まで同じだった。教わった覚えはない。ただ、母の膝の上で夜会のお客を数えていた、あの頃のままの型が、私の手に残っていただけ。
「ふうん。じゃ、あたしは絵合わせね」ジェミマは手帳の頁の横に、事務所にある写しの束を並べた。「字は読めなくても、形は覚えられんの。この鳥の判子——ほら、こっちの紹介状と、羽の欠け方がおんなじ」
「……本当だ」
封蝋の白鳩。左の羽の先が、わずかに潰れている。同じ判で捺された紹介状が、十七年前にもあった、ということだ。
「あんたが字で追って、あたしが形で追う。ほら、二人分でしょ」
「ええ。二人分です」
ジェミマは得意げに鼻を鳴らして、次の頁へ指を滑らせた。
「読めない字があったら言いなさいよね。形なら任せて」
「では、これは」
「え、それは字でしょ。……鳥の絵に、見えるけど」
「『鳩』という字です。よく見えています」
「……ふん。字なんて、絵の親戚じゃない」
読み書きはまだ拙い。けれどこの子の目は、私が三度見てようやく気づく歪みを、一度で拾う。卓の隅には、夕刻に監査室から届いた伝書が置いたままになっていた。『花嫁候補の名簿、三件目まで照合済み。続きは登庁後に。夜更かしはするな』——最後の一行だけ、監査卿の公務らしくなかった。
今夜だけは、と私は手帳に戻る。王宮の名簿より先に、数えておくべきものがある。
*
目次に「白鳩」の綴りは、十七件。
母は八年をかけて、十七件の縁談を追っていた。内訳は、壊された婚約が九つ、作られた縁組が八つ。手口は、私がいま追っているものと寸分違わない。雛形の口上で婚約を壊す。封蝋の紹介状で次の相手を運ぶ。借金で首輪をつけて、家ごと操る。
「首輪って、なに。犬じゃあるまいし」
「お金を貸して、返せなくして、言うことを聞かせるのです。人ではなく、家ごと」
「……下町の取り立てと、おんなじやり口じゃん。着てるものが上等なだけで」
「ええ。着ているものが、上等なだけです」
九件目の頁の隅に、母の観察記録があった。
——観察記録。白鳩、九件目。口上の型、一件目と同じ。封蝋、同じ。変わったのは家名だけ。……仲人の善意ばかりが、年々値上がりする。
「十七年前から、同じ帳尻」
私は声に出して、数え直した。カルヴィンに渡された破棄の台本。ロザモンド嬢を運んだ紹介状。依頼人たちの家に巻かれた借金。私がこの半年で数えたものは全部、この手帳の中に、先に書いてあった。
「ねえ」ジェミマの声が、少し低くなった。「あんたの母さん、ここまで調べてて——なんで、やめたの」
やめたのではない。
母は九年前、私が十二の年に死んだ。馬車の事故。そう聞かされて、私はそう覚えて、そのまま蓋をしてきた。
けれど、頁をめくる指が、止まった。
事故の日付の三日前まで、記録は続いていた。字は最後まで乱れていない。それどころか、終わりへ近づくほど行間が詰まり、たった一件のために頁が費やされていく。これは、獲物を追い詰めている者の字だ。逃げ支度の字ではない。
そして——その最後の一件の頁が、ない。
綴じ目に、破り取られた紙の根元だけが、櫛の歯のように残っていた。
最終頁の空白とは、別だ。空白は「まだ書いていない」。これは「誰かが、破いた」。書いた本人か。それとも、書かれた側か。
灯りの中で、その欠けた綴じ目だけが、暗く見えた。
「……エスメさん」
奥で、帳簿の手が止まっていた。いつから止まっていたのかは、分からない。
「母は、事故で死んだのですか」
エスメは長いこと、帳簿の同じ行を見つめていた。それから、老眼鏡を外した。
「……あの人を止めなかったのは、私だ」
それだけだった。
「エスメさん」
「その話は、あんたが白鳩の庭に立つ前にする。今夜じゃないよ、お嬢さん」老眼鏡をかけ直す手つきは、いつも通りだった。声だけが、いつも通りではなかった。「今夜は、破られなかった頁をお読み。それが、あの人の遺言代わりだ」
私は頷いた。取り乱しはしなかった。
「……あんた、平気なの」ジェミマが横から、私の顔を覗き込んだ。
「平気ではありません。ですから、数えています」
泣く代わりに数えるのは、母から受け継いだ型だ。破られた頁、一枚。数えるべきものが、一つ増えただけ。
*
破り方は乱暴だった。急いでいたのだろう。綴じ目に近い側だけ、指の幅ほどの紙が残っている。
そこに、字が半分だけ生きていた。母の小さな字で、かろうじて読める。
『鳩籠の——バージル』
「鳩籠の、バージル」
読み上げた瞬間、部屋の空気が、一度で変わった。
エスメではない。エスメは、動かなかった。
ジェミマだった。
写しの束を押さえていた指が——掏摸あがりの、王都で一番速いと本人が言い張る、あの生意気な野良猫の指が——初めて、震えていた。
「ジェミマ?」
「…………」
「知っているのですか。この名前を」
ジェミマは自分の指を見下ろして、それから笑おうとして、失敗した。いつもの生意気な笑い方の、形にならなかった。
「……あたしの、元の飼い主」
お読みいただきありがとうございます! 八年ぶんの手帳と、破り取られた一頁。コーデリアは今夜も、泣く代わりに数えています。
次回「あたしの指は、嘘つかない」。震えた指の理由を、ジェミマが自分の言葉で語ります。
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