第16話:母の手帳
「続きは、資料を見せてからだ」
その言葉のとおり、ギデオン様は散会の廊下をまっすぐ監査室へ向かい、一番奥で足を止めた。
鉄格子の嵌まった資料棚。ここに通いはじめた日に一度だけ目にして、それきり触れることのなかった、施錠の棚だ。内偵資料が納められている、とだけ聞いていた。
彼は懐から鍵を出し、迷いのない手つきで錠を外した。
「先の王妃選定の、監査記録だ」
「先の——」
「兄上と王妃陛下のご成婚。あれも縁談だ。王族の縁談は、すべて監査を通る。……俺が監査卿になる、前の話だが」
取り出された綴りは古く、角が丸くなっていた。指の触れるところだけ、革の色が変わっている。何度も、誰かが開いてきた綴り。
ギデオン様はそれを卓に置き、ある頁で手を止めた。
「見ろ」
監査の体制を記した頁だった。監査官の名。書記官の名。そして——協力調査人の欄。
そこに、母の署名があった。
——観察記録。協力調査人、カサンドラ・レインズ。筆圧は強め、終筆は撥ねずに止める。「R」の肩に、癖のある結び。……私が幼い日に、千回は見た結び。
私は泣かなかった。泣く代わりに、署名を二度読んだ。読み間違いを疑うような字では、なかったのに。
日付の欄も見た。私が七つの年。母が「仕立て屋に行ってくるわ」と言って、一日家を空けることのあった頃と、重なっていた。
「母が王家のお仕事をしていたとは、聞いていました。……これ、だったのですね」
「これも、だ」ギデオン様は静かに言った。「全部では、ない」
「ギデオン様は、この記録の中身をご存じなのですね。先ほどの、お話の続きは」
「俺の話は、もう少し先だ」
拒む声ではなかった。順番を守る声だった。
彼は綴りを棚に戻し、鍵をかけた。格子の向こうへ古い革の背が収まっていくのを、私は目で追った。
錠の落ちる音が、一つ。
西日が、ギデオン様の横顔に当たっていた。氷の監査卿の顔のまま、目だけが、格子よりずっと遠くを見ている。数えられないものを見る目だと、思った。
「今日は帰れ。……君に、見せておきたかった。それだけだ」
*
その夜、事務所に戻ると、エスメが階段下の物入れの前に屈んでいた。
物入れの奥に古い金庫があることは知っていた。開くところを見るのは、初めてだった。
「今日、王宮で母の署名を見ました。先の王妃選定の、監査記録で」
「……だろうね。あの男が動いたなら、そろそろだと思ってたよ」
エスメは金庫の奥から油紙の包みを取り出し、卓の上で紐を解いた。
黒い革の手帳だった。角が丸い。今日見た綴りと、同じ丸さだった。
「カサンドラは、これをあたしに託して逝った。……あんたが『数える側』になった今なら、渡していい頃合いだ」
「……ずっと、ここに?」
「ずっと、ここに。名刺は裁縫箱から勝手に出てきたろうが、こっちは、あたしが預かると決めてた。まだ早い、と思ってるうちに、月日ばかり経っちまった」
なぜ「まだ早い」だったのか。訊きかけて、やめた。エスメの目が、いつもの帳場の目ではなかった。真実は値引きしないと言う人が、今夜は店を開けない目をしていた。
私は両手で受け取った。手帳は、拍子抜けするほど軽かった。
「読むのが怖いなら、明日でもいいんだよ」
「いいえ」首を振ってから、言い直した。「……少しだけ」
「正直なのは、良い調査人の証だ」エスメはもう帳場の顔に戻っていた。「読み終わったら、灯りを消しておくれ。油は経費で落ちないからね、お嬢さん」
*
ランプを引き寄せ、最初の頁を開く。
『依頼十四。子爵家次男。手袋は新品、靴は五年物。帳尻、合わず』
『依頼二十一。伯爵家令嬢。文箱の封蝋は三色。差出人は、一人のはず』
体言止めの短い列挙。日付、相手、見たもの、結論。それだけの頁が、延々と続いていた。
頁の隅に、時折、小さな書き足しがある。『帰りに林檎』『糸、青を切らした』。調査の字と同じ大きさで、同じ筆圧で、夕飯の買い物が書いてある。嘘を数えた手と、私の髪を結った手は、同じ手だった。
私は自分の綴りを鞄から出して、隣に並べた。
同じだった。書く順番も、数字の置き場所も、結論を最後の一行に置く癖も。
母に調査を教わった覚えは、ない。ただ食卓で「今日は、何を見たの」と訊かれ続けただけだ。見たものを、順番に、短く。感想は、最後に一つだけ。
あの遊びの形のまま、私は今も書いている。
「なにそれ。あんたの?」
いつの間にか、ジェミマが横から覗き込んでいた。夜食の林檎を齧りながら、手帳と私の綴りとを見比べる。
「母のよ。今夜、エスメさんから」
「ふうん」齧る音が、一つ止まった。「……あんたの字と、そっくり」
「私が似たの。きっと」
「ね、それ、あたしにも読める?」
「読めるわ。教えた字ばかりよ。母は、難しい字を使わない人だったみたい」
「ふうん。……じゃあ、いい先生の先生ってわけだ」
ジェミマはそれだけ言って、林檎に戻った。齧る音が、さっきより少しだけ、静かだった。
*
頁を繰る手が、最後で止まった。
最終頁だけが、白かった。
日付も、線も、染みひとつない。インクが尽きたのでも、頁が破られたのでもない。ただ、白い。
何頁も定規で引いたように几帳面だった母が、最後の頁だけを白いまま逝った。
私はその白を、しばらく見ていた。それから、頁を頭に戻した。数えられないものは、まだ数えない。
手帳の頭には、目次があった。母は目次を作る人だった。件名の頭書きと、頁の数字。
その目次を、上から順に読んでいく。
指が、止まった。
同じ二文字が、行を変えて、何度も並んでいる。
白鳩。
数えた。
——十七件。
お読みいただきありがとうございます! 断罪のない静かな回でした。母の手帳と白い最終頁、そして母娘でそっくりな「観察記録」——じんわり伝わっていれば嬉しいです。
次回「手帳の中の白い鳩」。母が遺した十七件の記録が、白鳩会への扉を開きます。
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