第15話:監査結果を読み上げよ
深夜の事務所の扉を叩いたのは、雨に濡れた侍女だった。
「た、助けてください……いえ、違うんです、私はいいんです。妹が——」
タンジーはそう言って、崩れるように座り込んだ。私は毛布と白湯を出し、それから帳面を開いた。
「ゆっくりで結構です。日付と、場所と、あった事だけを」
袖をまくると、手首の痣は七つあった。新しいものが三つ、古いものが四つ。針箱の角、扉の縁、湯のたらい。すべて「うっかり」で説明のつく形をしていた。うっかりは、七度は続かない。
「お嬢様は……お優しいんです、人前では。ただ、留学の頃のことをうかがった日から……逃げれば、妹の勤め先も潰すと」
「潰させません」
私は痣の位置と形を写し取り、証言に日付を入れ、最後に一行を書き加えた。保護、要。
「あなたはもう、一人で数えなくていい。数えるのは、私の仕事です」
タンジーは初めて、声を立てずに泣いた。私は扇を出さなかった。今夜は、もらい泣きを隠す夜ではなく、覚えておく夜だった。
*
数日、走り回った。ジェミマは下町の質屋を三軒回り、台帳の写しを抱えて戻ってきた。
「モウブレーの家紋入り、燭台に銀食器に額縁。あたしの指は嘘つかない。——ほら、裏は取れた。あとはあんたの口の仕事」
「上出来。読み書きの月謝は今月分、免除にします」
「やった。……ちょっと待って、それあたしが子供扱いされてない?」
*
そして、御前監査の日が来た。
王宮の白い広間。玉座は空だが、王家の紋章の下に監査卿の席が置かれ、居並ぶのは重臣と候補の家門。夜会でも、一族会議でもない。国そのものが縁談を検分する場だった。
監査卿の席のギデオン様は、いつもの氷の顔だった。私には一瞥もくれない。それでいい。今日の私は彼の部下ではなく、王命の調査人なのだから。
プリシラ・モウブレー侯爵令嬢は、今日も完璧だった。立礼の角度、扇の高さ、微笑の深さ。減点はどこにもない。
——観察記録。プリシラ・モウブレー侯爵令嬢。完璧が過ぎる。人は、隠す物がある時ほど、表を磨く。
私が報告の席へ進み出ると、侯爵家の席から声が立った。
「恐れながら。その者は婚約破棄をされた身の上、今は平民勤めの調査人風情と聞き及ぶ。左様な者の言に、証言の資格やいかに」
ざわめきが、さざ波のように広間を渡った。破棄された。平民勤め。風情。言葉は三つとも、狙って選ばれていた。
事実はひとつ、悪意はふたつ。私は胸の内で仕分けだけを済ませて、顔には何も載せなかった。
私は帳面を持つ手に、力を入れなかった。入れれば、震えとして伝わる。
その時、椅子の鳴る音がした。
監査卿の席から、ギデオン様が立った。段を降り、広間を横切り——私の前に、立った。居並ぶ視線と私との間に、彼の背があった。
広間が、水を打ったように静まった。王弟殿下が、一介の調査人を背に庇っている。その意味を量れない者は、この場にひとりもいなかった。
「この者は王命により、余の縁談を監査する。その資格を疑うことは、王命を疑うことと知れ」
そして彼は振り返らず、静かに言った。
「——監査結果を、読み上げよ」
私は綴りを開いた。
「調査報告を申し上げます。対象、プリシラ・モウブレー侯爵令嬢。案件、王弟殿下の縁談監査」
「一つ。経歴について。対象の経歴にある『隣国留学の二年』——留学先の学院に、在籍の記録がございません。一方、同じ二年の間、王都の白鳩会の会館に、対象の出入りの記録が残っています。回数、四十七回。留学ではなく、『花嫁養成』と呼ばれる指導を受けておられた」
ざわめきが、質を変えた。
「二つ。侍女への折檻について。侍女の手首に痣、七箇所。新旧あり。位置と形の記録、ならびに本人の証言がこちら。なお当該の侍女は、既に監査室の保護下にあります。妹御の勤め先も、同様に。——脅しは、もう届きません」
プリシラ嬢の扇が、半拍、止まった。
「三つ。持参金について。目録に記載の品のうち、燭台、銀食器、額縁を含む十一点は、下町の質屋三軒に質入れ済み。台帳の写しと家紋の照合がこちら。目録は、実在しない財で水増しされています」
私は綴りを閉じた。
「以上が調査の全てです。……最後に一つだけ、私の言葉を。——私は、嘘を見逃しません」
*
プリシラ嬢は、微笑んでいた。
微笑んだまま、扇が音を立てて折れた。握り込んだ、指の中で。
「……おかしいわ」声だけが、微笑と別の生き物だった。「完璧だった。歩幅も、角度も、お茶の温度も。二年かけて、全部。……あなた、何様のおつもり? 破棄された傷物の分際で、わたくしの、わたくしの二年を」
「モウブレー侯爵令嬢」ギデオン様の声は、氷だった。「候補より除外する。沙汰は追って家門へ」
「わたくしは夫人の一番弟子ですのよ」
貼り付いた微笑のまま、彼女は笑った。折れた扇を、それでも優雅に構えて。
「わたくしが落ちても、代わりは、いくらでも」
衛士に導かれて退がる立礼は、最後まで完璧だった。完璧な人形の、作り手の名を、彼女は最後まで口にしなかった。する必要が、なかったからだ。
白鳩の庭。オクタヴィア夫人の影が、王宮の白い床にまで伸びている。
私は帳面の最後の頁に、短く書き足した。一番弟子。代わりは、いくらでも。——ならば、摘むのではなく、根を断つほかにない。
*
散会の後の監査室は、静かだった。
ギデオン様は窓辺に立ち、暮れていく王都を見ていた。私は報告書の写しを揃え、封蝋の数を——今日は、数え間違えた。三度も。
「……君は訊かないのだな」窓の外を見たまま、彼は言った。「なぜ俺が、縁談というものを信じないか」
「訊けば、話してくださいますか」
沈黙があった。長い沈黙の間に、彼の指が窓枠を二度、叩いた。
観察記録を、私はつけられなかった。暮れ方の光の中の横顔の、どこを数えればいいのか、分からなかったからだ。
「……続きは、資料を見せてからだ」
お読みいただきありがとうございます! 御前監査での断罪、そしてギデオン様が初めて公の場でコーデリアを庇いました。「監査結果を、読み上げよ」——書いていて一番気持ちのいい一行でした。
次回「母の手帳」。ギデオン様が見せる「資料」とは——そこに、コーデリアの母の名前があります。
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