第14話:完璧な候補は、数えられない
王宮の監査室、三日目の朝。私は生まれて初めて、数えられない書類と向き合っていた。
「プリシラ・モウブレー侯爵令嬢。筆頭候補だ」
身上書は、非の打ちどころがなかった。家格、教養、慈善院への寄付、聖堂での奉仕。十六で社交界に出てから醜聞は一つもなく、隣国への留学が二年。箔としても、申し分ない。
「手が止まっているな」
書面越しに、ギデオン様の声がした。
「綻びが、一つも見つからないのです」
「結構なことだろう」
「いいえ。人の経歴は、生きていれば必ずどこかで帳尻が乱れます。習い事を一つ投げ出すとか、夜会で扇を一本忘れるとか。三日かけて乱れが一つもないのは——帳尻を『合わせた』方が、いらっしゃるということです」
「候補の残る二人の身上書には、白鳩会の仲介印があった。だが筆頭のこれには、印がない」
「ええ。印のない一枚だけが、一番きれいに整っている。……私なら、そちらを先に疑います」
それに、と私は文面を指でなぞった。整いすぎた言い回し。どこかで見た、言葉の並び。……あの夜の婚約破棄の口上と、毒の令嬢を運んだ紹介状。あれと同じ、仕立て屋の縫い目だ。
「この身上書、雛形の匂いがします」
「匂いでは監査は通らん。証拠を取りに行くぞ」ギデオン様は立ち上がった。「明日、モウブレー侯爵家の茶会だ。俺の随行として入れ」
廊下で聞いたオクタヴィア夫人の声は、帳面の隅に書きつけて、鍵をかけてある。今は、目の前の監査だ。
*
茶会の庭は、隅々まで手入れが行き届いていた。刈り込みの高さが揃い、砂利の色まで揃っている。整えられた場所ほど、乱れは一つでよく見える。
随行の調査人の定位置は壁際。私は扇の陰から、いつもの数え上げを始める。
招かれた令嬢は十二人。給仕は七人。卓は——
「何を数えている」
背後からギデオン様の声がして、私は数え直した。給仕は、九人だった。
おかしい。給仕は動くけれど、私の数えは、動いたことがないのに。
「……九人です。給仕が」
「最初は七と言いかけただろう」
「言い直しました。訂正が早いのも、調査人の技能のうちです」
「顔色が変だ。悪いなら下がれ」
「お気遣いなく。公務ですので」
「勘違いするな、俺も公務で聞いている。随行に倒れられては、俺の監督不行き届きになる」ギデオン様は庭へ視線を戻した。「……それだけだ」
「では公務のご報告を。筆頭候補の周りだけ、給仕の足が速うございます。粗相を恐れている足です」
「……君は、そういうところは数え間違えないのだな」
そういうところは、とは何のことか。問い返す代わりに、私は扇を一寸だけ上げた。頬のあたりがやけに温いのは、庭の日差しのせいにしておく。手袋の縫い目を数えようとして——やめた。今日は、数が信用できない。
*
プリシラ様は、庭の中央にいらした。
笑みの角度、扇の運び、目上の方への辞儀の深さ。老侯爵夫人には孫娘の顔を、若い令嬢たちには姉の顔を、寸分の狂いなく使い分けていく。完璧な淑女の見本のようで、台本があるのなら一字も間違えていない。遠目にも、それが分かる。
嘘の一つも見つからない。それなのに、真実も一つも見つからない。妙な方だ。
その三歩後ろに、小柄な侍女が控えていた。盆を持ち直した拍子に、袖口が指二本ぶん、ずれる。
プリシラ様が振り返った。
「タンジー、盆が重いでしょう。日陰でお休みなさいな」
「まあ、侍女にまでお優しいこと」と、近くの令嬢たちがさざめく。侍女は深く頭を下げて、下がった。——下がる時、肩が竦んでいた。優しい声に、人の肩は竦まない。
——観察記録。プリシラ様付き侍女、タンジー。平民、小柄、推定十六。左手首に痣。新しいものが一つ、黄いろく褪せたものが二つ。いずれも袖で隠れる位置。主人の呼び声に、竦む肩。以上。
視線を上げると、プリシラ様と目が合った。彼女は私に、完璧な角度で微笑んだ。
*
夜、事務所に戻ると、ジェミマが帳場の机に頬杖をついていた。
「おかえり。……ねえ、あんたさ」
「なに」
「王宮通いが始まってから、たまに腑抜けた顔で帰ってくる。今日のそれ」
「調査で気になることがあっただけよ」
「ふうん」ジェミマはペンを指先でくるっと回した。「あたしの指は嘘つかないけど、あたしの目も嘘は見逃さないの。誰に習ったんだか」
「その口の減らなさは、誰に習ったのかしらね。——それより、明日から下町の口入れ屋を当たってほしいの。モウブレー侯爵家に入った奉公人の、出入りの記録」
「出入り? 出のほう?」
「両方。ただ、勘で言うなら——出のほうが、多いはずよ」
「はいはい、仕事の顔に戻った」ジェミマは伸びをして、にっと笑った。「そっちの顔のあんたは、いいカモの顔じゃなくなるのよね」
*
その夜半。皆が引き上げた事務所で写しを取り終え、帳面を閉じた時——裏口を、小さく叩く音がした。
一度。間を置いて、二度。叩き方まで、遠慮がちに震えている。
表ではなく、裏口。こんな時刻に裏口を選ぶのは、表通りを歩けない事情のある人だ。
閂を外して扉を開けると、外套も持たない小柄な影が、軒下の灯りに立っていた。昼間の侍女——タンジー。袖口から覗く手首に、あの痣。
「……えんだん、ちょうさにん、の……事務所は、こちらですか」
歯の根の合わない声でそれだけ言うと、彼女は敷居に縋るように手をついた。夜道を、どれだけ走ってきたのか。靴は片方、踵が潰れていた。
「ええ、こちらです。まずは中へ。——お話は、火のそばで伺います」
お読みいただきありがとうございます! 完璧すぎる筆頭候補と、袖に隠れた痣。「数えられないもの」が二つ増えた回でした。
次回「監査結果を読み上げよ」。深夜の駆け込みが、監査を一気に動かします。
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