第13話:王宮の縁談監査室と、善意の仲人
王宮というところは、床が鳴らない。
絨毯が厚いせいではない。歩き方を、試されているのだ。回廊を渡る間に私は都合十四人とすれ違い、そのうち十一人の視線が、私の襟元と靴を順に検分していった。
——観察記録。王宮の回廊。すれ違った官吏と女官、十四人。うち十一人が、まず靴を見た。値踏みの相場は、どうやら足元から。
「婚約破棄された方でしょう」「今は平民の事務所勤めですって」——扇の陰の声は、扇の陰に収まるほどの音量で、それでいてきちんと私に届くように作られていた。ご丁寧なこと。
案内役の書記官は、私を三度「ええと、そちらの方」と呼んだ。名簿に私の名はあるはずだ。読む気がないだけで。
案内の先で、両開きの扉が開いた。
そこは、紙の砦だった。
天井まで届く書架の谷に、綴りの塔が幾つも積み上がり、高窓の光が紙の粉を金色に浮かべている。百年分の縁談が、百年分の埃をまとって、静かに積もっている部屋。長机には真白な手袋が人数分きちんと畳まれ、砦の主は、その真ん中で腕を組んでいた。
「王家縁談監査室へようこそ、と言うべきか」ギデオン様は塔の一つを顎で示した。「歴代の王族の縁談は、すべてこの紙の中で裁かれてきた。埃を吸いたくなければ、手袋を」
「壮観です。帳簿の砦のようで、少し安心いたしました」
「君の安心の基準は、相変わらず妙だな」
部屋の奥、書架の陰に一つだけ、鉄の帯と錠前のかかった棚があった。札には「内偵」の二文字。ギデオン様の鍵の束は、その棚の前だけを素通りした。……覚えておきましょう。
「候補は三人だ」長机に、三通の身上書が置かれた。「筆頭はプリシラ・モウブレー侯爵令嬢。残る二人は、東部の伯爵令嬢と、大蔵卿の姪御にあたる方だ」
「筆頭の根拠は」
「経歴だ。語学は三カ国、慈善事業の主催が六件、醜聞は皆無。推薦状は十二通、全部褒め言葉の順番まで揃っている。……完璧すぎて、読み飽きた」
「醜聞のない令嬢は、二種類おります。本当に清らかな方と、お掃除の上手な方と」
「だから君を雇った」氷の監査卿は、口の端だけで笑った。「宮廷の連中は俺の顔色を読む。君は紙の顔色を読む。——好きに疑え」
「疑いは無料で差し上げます。真実の分だけ、いただきますので」
「その勘定の付け方だけは、宮廷の誰より信用している」
氷の監査卿は言い捨てて、自分の机に戻っていった。褒め言葉の出し方が、つくづく下手な方だと思う。
*
白手袋をはめて、三通を検分する。紙の質、綴じ紙、署名、封蝋——。
指が、止まった。
二通目の綴じ紙の裏に、白い鳩をかたどった封蝋。仲介人の印だ。翼を広げた鳩が、輪をくわえている。ロザモンド嬢の紹介状で見たものと、寸分違わない。三通目にも、同じ意匠が押されていた。
「ギデオン様。お二人の身上書に、仲介が入っています。白い鳩の封蝋——白鳩会です」
「……王族の名簿にまで、か」ギデオン様は封蝋を検め、低く言った。「宮廷書記が検分を終えた綴りだぞ。誰も、何も言わなかった」
「印はどちらも、綴じ紙の裏です。表しか検めない方の目には、入りません」
「半日だな」彼は綴りを卓に戻した。「宮廷が三年見なかったものを、君は半日で見つけた。雇い賃の元は、初日で取れたらしい」
王宮の紙も、嘘のつき方は下町と同じ。帳尻はいつも、綴じ目の裏に隠れる。ここでも私の目は、使い物になる。
*
昼下がり、通用門にジェミマが来た。事務所からの下調べの束を抱え、門衛を相手に一歩も引いていない。
「あんた、出世したもんね。門の鎧、ぴっかぴかじゃない」
「通用門で騒がないの。……モウブレー家の下調べは」
「はい、これ。出入りの商人と、洗濯屋と、辞めた使用人が三人。三人とも口が固かった。固すぎた」ジェミマは紙の束を指先でくるりと回して寄越した。「あたしの指は嘘つかない。——固すぎる口には、後から鍵をかけた誰かがいるってことよ」
「上出来。読み書きの宿題も、それくらい上出来なら言うことないのだけれど」
「げっ。……あんた、王宮に上がっても細かいのは治んないのね」
そう言いながら、束の一番上には清書の頁が載っていた。文字は不揃いで、誤りは三つだけ。先月は、九つだった。
*
夕刻、退出の回廊で、初老の貴婦人と行き合った。
鳩羽色の絹に、柔らかな微笑み。すれ違う官吏や女官が、次々と深く頭を下げていく。その貴婦人は、私の前で足を止めた。
「まあ……あなたが、噂の調査人さん? まあ、まあ、可哀想に。あんな破談がおありだったのに、こうして立派にお勤めして。偉いこと」
「……恐れ入ります。ですが、可哀想と言われる覚えは」
「あら、ごめんなさいね。年寄りは、若い方のご縁の話になると、つい涙もろくて」
名乗っていない。私はこの方に、まだ名乗っていない。噂の調査人、までなら分かる。だが。
「わたくし、オクタヴィアと申しますの。ささやかな仲人の集まりを預かっておりますのよ。壊れたご縁を繕うのが、何より好きで」
微笑みは、一度も揺れなかった。声の高さも、手の位置も、瞬きの数さえも。観察のとっかかりが、どこにもない。嘘の帳尻どころか、縫い目そのものが見えない人。
「ご縁があれば、いつでもいらしてね。——コーデリア・レインズ様」
貴婦人はすれ違いざま、歌うように付け足した。
「あなたのお母様にも、お会いしとうございましたわ」
振り向いた時には、鳩羽色の背は、女官たちの礼の波の向こうにあった。
床の鳴らない回廊で、私の数え上げだけが、勝手に始まっていた。——母を、知っている。
お読みいただきありがとうございます! 王宮編、開幕です。そしてついに「あの方」が顔を出しました——善意の微笑みほど、読めないものはありません。
次回「完璧な候補は、数えられない」。醜聞皆無の筆頭候補プリシラ様、その完璧な紙の顔色をコーデリアが読み始めます。
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