軍団長
※活動報告にて物語の舞台となるロワン地方の地図を公開しました。位置関係の参考にどうぞ。
翌朝。
夜明け前から、砦の内側には鎧の音が響いていた。
八千八百の将兵。
整列した軍勢は、城壁の内側を埋め尽くしている。
その前方。
高く掲げられたイルージの旗が、冷たい風を受けて揺れていた。
キリムは大型哺乳獣ミュルの傍らに立ち、軍勢を見渡していた。
先頭には重装兵。
その後ろに長槍隊。
左右には哺乳獣へ跨がった機動兵が並ぶ。
一切の乱れがない。
これが。
エステラーザが長い年月をかけて鍛え上げた、北方国境軍。
イストハックが小さく口笛を吹いた。
「相変わらず堅ぇ軍だな」
「お前が突っ込んでも、崩れんぞ」
隣に立つエステラーザが言う。
イストハックが笑った。
「そりゃ一度、試してみてぇな」
「やめておけ」
キリムが短く返した。
エステラーザは二人を一瞥し、前へ出る。
青い外套が、風を受けて大きく翻った。
それだけで。
八千八百の兵が静まり返る。
「聞け」
低く。
だが、砦の隅々まで届く声だった。
「我らはこれより、クグルスへ向かう」
兵たちの視線が、一斉にエステラーザへ集まる。
「南部連合エピナスの諸国と合流し」
「タリデューサ山脈北側の脅威に備える」
エステラーザはそこで言葉を止めた。
そして。
隣に立つキリムへ視線を向ける。
「ここから先」
「イルージ軍の総指揮は、キリムが執る」
軍勢の中に。
僅かなざわめきが走った。
驚き。
戸惑い。
そして。
期待。
国境軍の多くは、キリムの名を知っている。
だが。
剣士として知ることと。
八千八百の命を預けることは違う。
エステラーザは、兵たちの反応を止めなかった。
黙らせることもない。
ただ。
全てを受け止めるように立っていた。
やがて。
一人の将校が前へ出た。
左頬には、古い刀傷が走っている。
「エステラーザ将軍」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「言え」
「キリム殿の剣について、疑う者はおりません」
将校はキリムへ目を向けた。
「ですが」
「軍を率いることと、剣を振るうことは異なります」
空気が張る。
イストハックの表情から、笑みが消えた。
ミリナスも黙って成り行きを見守っている。
ゼルナは、僅かに目を細めた。
エステラーザは答えなかった。
代わりに。
キリムが前へ出る。
八千八百の視線が、その一歩へ集まった。
「その通りだ」
静かな声だった。
「俺は、お前たちと共に戦ったことがない」
「お前たちの強さも」
「弱さも」
「まだ知らない」
将校の眉が僅かに動く。
キリムは続けた。
「だから」
「知らないまま命令するつもりはない」
「行軍中に全ての隊を見る」
「隊長の名を覚える」
「武器を知る」
「足の速さを知る」
「何を恐れ」
「何なら耐えられるのかを知る」
風が吹いた。
イルージの旗が、大きく鳴る。
「その上で」
「俺が先頭へ立つ」
キリムの声は変わらない。
「退くべき時は、俺が退けと命じる」
「進むべき時は、俺が最初に進む」
「それでも任せられないと思う者は」
「今、前へ出てくれ」
誰も動かない。
八千八百の視線だけが、
キリムへ注がれていた。
やがて。
先ほどの将校が、ゆっくりと片膝をつく。
「承知しました」
「我ら北方国境軍」
「キリム軍団長の指揮に従います」
一人。
また一人。
兵たちが武器の柄を胸へ当てる。
やがて。
八千八百の将兵が、同じ姿勢を取った。
地を震わせる声が響く。
「キリム軍団長に従う!」
城壁が。
見張り櫓が。
砦全体が震えた。
キリムは、その声を黙って受け止める。
その隣で。
エステラーザが僅かに口元を緩めた。
「これで決まりだな」
キリムは頷く。
「ああ」
「副将エステラーザ」
「頼むぞ」
一瞬。
エステラーザは目を見開いた。
そして。
豪快に笑う。
「任せろ、軍団長」
再び。
八千八百の声が、朝の空へ轟いた。
イルージ北方国境軍。
総勢八千八百。
その軍勢はこの日。
キリムという新たな軍団長を得た。
※物語の舞台となるロワン地方の地図を公開しました。イルージ砦戦の位置や、この先の旅路も分かりやすくなると思います。活動報告よりご覧いただけます。




