湖底回廊
※活動報告にて物語の舞台となるロワン地方の地図を公開しました。位置関係の参考にどうぞ。
その夜、湖側の遺跡は異様な静けさに包まれていた。
誰も深くは眠らなかった。
兵たちは交代で監視を続け、クヮデューゥの調査員たちも遅くまで地図と石板を広げていた。
だが――
「……出ません」
湖岸監視に立っていた兵が、低く呟く。
いつもなら、日没後には現れるはずだった。
紫の光。
水際を巡回するサンクロルの群れ。
だが今夜は、その姿が一向に見えない。
風だけが、石柱群を静かに吹き抜けていく。
ミリナスが湖側を見つめたまま口を開く。
「初めてです」
クヮデューゥは黙ったまま、湖底遺跡の方向を見ていた。
やがて、小さく言う。
「……内部です」
「何?」
イストハックが眉を寄せる。
「奴らは外を巡回していたのではない」
クヮデューゥの視線は動かない。
「本来守るべき場所へ戻ったのでしょう」
静寂。
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
ゼルナは、沈んだ白壁の奥を見つめていた。
昨夜感じた“脈動”。
あれは気のせいではなかった気がしている。
だが、まだ掴めない。
「夜明けと同時に入ります」
クヮデューゥが静かに告げた。
「今なら、最深部まで導線を辿れる可能性が高い」
夜が明ける頃には、調査隊はすでに入口前へ集まっていた。
湖東から吹く風は冷たい。
だが、タラサの地下へ続く穴から吹き上がってくる空気は、それとは違う冷たさを帯びている。
湿っていた。
まるで、長い間閉ざされていた場所の息のようだった。
調査隊は最小限の人数へ絞られていた。
先頭を進むのはクヮデューゥ。
その後ろにミリナス、キリム、ゼルナ。
ユンタスとイストハックが左右を警戒し、エリムスが後方を見ている。
さらに調査員四名と近衛兵三名。
総勢十四名。
「第三層へ入ります」
クヮデューゥが低く告げた。
崩落した石階段は途中から地下通路へ繋がっていた。
壁面は古い。
だが、不自然なほど崩れていない。
三千五百年。
それだけの時を経た構造物とは思えなかった。
「……妙ですね」
エリムスが壁へ視線を向ける。
「湿気が少なすぎる」
「湖底に近い構造とは思えませんな」
ユンタスも周囲を見回した。
クヮデューゥは頷く。
「排水構造が生きているのでしょう」
「少なくとも、一部は」
イストハックが鼻を鳴らす。
「三千年も前の穴倉が、まだ動いてるってか」
「だからこそ、おかしいのです」
クヮデューゥは即答した。
「普通なら崩落している」
通路は緩やかに下っていた。
途中から石質が変わる。
上層の粗い黄土色ではない。
白に近い滑らかな材質。
灯火を鈍く反射している。
ゼルナの視線が止まった。
――まただ。
説明できない。
だが、どこか落ち着かない。
壁面が妙に静かだった。
ただの石ではない気がする。
だが、触れる気にはなれなかった。
その時だった。
前方を歩いていた調査員が足を止める。
「……水です」
通路の先。
薄く水が張っていた。
湖底側から染み出しているらしい。
だが、その水面は奇妙だった。
ほとんど揺れない。
ミリナスがしゃがみ込む。
指先で水面を軽く触れた。
冷たい。
異様なほど。
「流れていない……?」
「ええ」
クヮデューゥが答える。
「この区画だけ、水流が死んでいます」
キリムが低く問う。
「湖と繋がっているのではないのか」
「繋がってはいるでしょう」
「ですが、この先には何らかの隔壁構造がある」
クヮデューゥの目が細くなる。
「湖底区画にしては、水の浸入が少なすぎます」
その時だった。
遠く。
低い唸り声が響く。
全員の空気が変わる。
紫光。
暗闇の奥で、いくつもの瞳が揺れていた。
サンクロル。
だが、以前のような威嚇ではない。
近い。
ミリナスが静かに剣を抜く。
細身のフルーグリッターが、青白く光を帯びた。
キリムも同時に剣を抜いていた。
二人の動きに、ほとんど無駄がない。
イストハックが口元を歪める。
「今度は来る気らしいな」
だが。
サンクロルたちは飛び込んではこなかった。
通路奥。
ある一線から前へ出ない。
低く唸りながら、こちらを見ている。
クヮデューゥが静かに呟く。
「……やはり」
その瞬間。
一体が、不意に床を蹴った。
紫の閃光。
視界が一瞬だけ大きく揺らぐ。
「っ……!」
近衛兵の一人がよろめく。
だが次の瞬間には、キリムが踏み込んでいた。
「右」
ミリナスの声。
ほぼ同時。
キリムの剣閃が、通路側壁ぎりぎりを走る。
サンクロルが飛び退く。
そこへ、ミリナスの細剣が滑り込んだ。
速い。
ほとんど突きに近い斬撃。
紫光が散る。
サンクロルは低く唸ると、それ以上踏み込まず後退した。
群れ全体が、静かに距離を取る。
追ってこない。
まるで、“それ以上近づくな”と示すだけのように。
静寂。
エリムスが低く呟く。
「本当に……守っているだけなのか」
誰も答えなかった。
その時。
ゼルナの視線が、不意に通路奥で止まる。
暗闇のさらに先。
灯火が届かない場所。
ただの闇ではない、何かの”気配”を確かに感じた。
※物語の舞台となるロワン地方の地図を公開しました。イルージ砦戦の位置や、この先の旅路も分かりやすくなると思います。活動報告よりご覧いただけます。




