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妖国伝エルソラーナス ― 剣と石の叙事詩 ―  作者: 美刀 尊志


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砦の朝

※活動報告にてロワン地方の地図を公開しました。位置関係の参考にどうぞ。

夜明けとともに、砦は静けさを取り戻し始めていた。


だが、その静けさは、疲れ切った者たちがようやく口を閉ざしただけのものだった。


外門の前には、昨夜の戦いの痕がまだ色濃く残っている。


踏み荒らされた砂地。砕けた武具。焼け焦げた柵。戦いの跡を洗い流した石畳。


安堵する間もなく、兵たちは言葉少なに動いていた。




若い兵の一人が、折れた槍を抱えたまま立ち尽くしていた。


その視線の先には、担架で運ばれていく年長の兵がいる。


昨夜まで笑っていた男だった。



「手を止めるな」


声をかけたのはユンタスだった。



若い兵は肩を震わせ、慌てて頭を下げる。


「……申し訳ありません」



「謝るな。次に備えろ」


厳しい声だった。


だが、担架が角を曲がって見えなくなるまで、ユンタス自身もその場を離れなかった。




指令室では、サーメルがケレルに手を添えたまま、各所から上がる報告を聞いていた。


「死者なし。負傷者六。うち重傷二」


「砦の損傷、軽微です」


「敵影、周辺には確認できません」




サーメルは目を閉じ、短く息を吐いた。


「……六人も、ですか」


その声には責める響きも、嘆く響きもなかった。


それが、かえって重かった。




キリムは黙って立っていた。


昨夜、門前で刃を交えた気配を思い返している。


速く、迷いがなく、引き際まで揃っていた。


あれほど統制された者たちが、名も残さず闇に消える。


胸の奥に、小さな不快が残っていた。




「侵入した者たちは」


キリムが問う。



「内部の二名は、自ら命を絶ちました」


ユンタスが答える。


「門前の者も、生きて捕らえられた者はおりません」




イストハックがいれば舌打ちしていただろう。


サーメルは静かに言った。


「口を割らぬ覚悟で来ていた、ということですか」



「それだけではありません」


キリムが低く返す。


「正面で引きつけ、侵入後は二手に分かれ、司令室前まで迫った」


「退くと決めた瞬間、全体が迷わず退いた」


視線が冷たくなる。


「……訓練された兵です」




賞金目当ての刃ではない。


血に酔ったならず者でもない。


誰かの命令で動き、誰かのために死ぬ者たちだった。


それが何より不気味だった。




エリムスが深く頭を下げた。


「……私のために、皆様を危険に晒しました」


声が震えていた。


「また、です」


誰も動かなかった。


「私がいる場所では、いつも誰かが傷つく」




その言葉に、サーメルは即座に首を振った。


「違います」


強く、迷いなく。


「昨夜、あの者たちが狙ったのは人ひとりではない」


「この砦の守り、そしてイルージそのものです」




ユンタスも続ける。


「貴殿一人を奪うだけなら、もっと静かにやれたはずだ」




キリムはエリムスを見る。


まだ会ったばかりの男だ。


だが、その肩に積もった自責だけは見て取れた。


「貴殿を狙ったのは事実でしょう」


「ですが、昨夜の者たちは、貴殿ひとりの命だけを取りに来た動きではありませんでした」


「どうか、ご自身だけの責とは思われぬよう」




エリムスは顔を上げた。


何か言おうとして、言葉にならず、ただ深く頭を下げ直した。




その時、扉が勢いよく開いた。


「おい!」


イストハックだった。


肩に朝日を浴び、土埃まみれのまま立っている。


「クリルの腹に刃が刺さってたぞ。浅かったがな」


舌打ち混じりに吐き捨てる。


「あいつら、只者じゃねえ」


室内の空気が、わずかに張り直す。



「クリルは無事か」


ユンタスが問う。



「当然だ。俺様の相棒だぞ」


そう言って水差しを掴み、そのまま一息に飲み干した。


張りつめていた兵たちの口元が、わずかに緩む。




サーメルが卓上の地図へ手を置く。


「今後のことです」


皆の視線が集まる。


「エリムス殿のためのイエロネスの“ストーン”がエティルーダの塔から届くまで、ここを動くのは危険です」


「一日。遅くとも二日」


「その間に砦を整え、警戒線を引き直します」



「妥当でしょう」


キリムがうなずく。




「モナ・サーメル、今後、ここはどうされるおつもりか? 我々は二日後には発ちますぞ」


ユンタスが問う。



「敵の侵入を許してしまいました……」


サーメルは一瞬、苦い表情を浮かべる。


「モナ・ゼフリと諮って、イルージの北の守りであるこの地の増強を考えています」


サーメルはそう答えると、ケレルの横に置かれた地図へ視線を落とした。


指先が、北西の一点を静かになぞる。


クグルス。


だが、その前。


タラサにいるケレスの調査隊。


「クグルスに向かう前に、ケレスの調査隊に是非会っていただきたい」


「昨夜の襲撃があった以上、知らせておくべきでしょう」



誰も異を唱えなかった。


この夜を越えた者には分かる。


世界は、昨夜からもう以前と同じではなかった。




窓辺では、ゼルナが外を見ていた。


朝日がその横顔にやわらかな光を落としている。


何も語らない。


だが、紫がかった青い瞳だけが、誰より遠くを見ていた。


その静けさに、エリムスはわずかに救われる思いがした。




「面倒だな」


イストハックが腕を組む。


「二日も待つのか」



「二日の間、砦を壊さずに過ごせるか?」


ユンタスが淡々と返す。



イストハックの眉が跳ねた。


「なんだと?」



張りつめていた兵たちの口元が、わずかに緩む。


やがて、室内に小さな笑いが満ちた。


短く、深い笑いだった。


張りつめた夜を越えた者たちの笑いだった。




キリムだけは笑わなかった。


昨夜、闇へ消えた二つの影。


次は、守りの利く場所ばかりとは限らない。


クグルスへの道は、すでに静かではなくなっていた。




砦の朝は穏やかだった。


だが、その穏やかさが長く続くとは、誰も思っていなかった。

※ロワン地方の地図を公開しました。イルージ砦戦の位置や、この先の旅路も分かりやすくなると思います。活動報告よりご覧いただけます。

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