第9話 殿方の品位
【リツ視点】
入学して15日目は、学園の休日だった。
その朝、僕は白い馬車に乗っていた。
王都に来たときと同じ、窓に分厚いカーテンの下りた馬車だ。外は見えない。向かいの席には、イルゼさんが剣を膝に置いて座っている。
行き先は殿方館。
昨日の夕方、学園長室に呼ばれて1通の手紙を渡された。
『殿方リツ殿へ。明日、殿方館にお越し願いたい。殿方の品位について、お話ししたいことがある。 殿方館 アルフォンス』
殿方館というのはこの国の男の人たちが暮らす場所だ。殿方の心得にも何度も出てきた。
つまり、僕以外の男の人に会える。
この世界に来てちょうど3週間になる。その間に会った男の人は、0人だった。
「イルゼさん。アルフォンスさんって、どんな人なんですか」
「殿方館の筆頭の殿方です。この国で最も品位ある殿方と言われております」
「すごい。生徒会長みたいな人なんですね」
「……殿方館に、生徒会はございません」
男友達ができるかもしれない。
前世の病室には同い年の男子がいなかった。ネトゲのフレンドには男子もいたけれど、顔を見たことはない。
僕は膝の上で手を握りしめた。
馬車が揺れた。カーテンの隙間から、白い光がちらちら入ってくる。
外の見えない白い馬車に乗せられて、どこかへ運ばれていく。前世で音楽の時間に習った、子牛が市場へ売られていく歌を思い出した。
「なんか、子牛が売られていく歌みたいですね」
「……どこへも売りませんので」
イルゼさんが剣を握る手に少しだけ力を入れた。
「もし売ろうとする者がいたら、斬ります」
冗談のつもりだったのに、本気で返された。
*
殿方館は高い白い壁に囲まれた建物だった。
門が3重になっていて、1つくぐるたびに女の人の衛兵が敬礼をする。ゲームなら、ここで門番が「ここは殿方館です」と教えてくれるところだ。誰も何も言わなかった。3つ目の門の先に、ようやく建物の玄関が見えた。
広い庭があった。
芝生がきれいに刈りそろえられていて、花壇には白い花ばかりが咲いている。噴水もある。走ったら、さぞ気持ちがいいだろう。
でも、誰もいなかった。
イルゼさんは控えの間までしか入れない決まりらしい。そこからは侍女の人に案内されて、長い廊下を歩いた。
廊下は静かだった。
この館には殿方が40人くらい住んでいると聞いた。それなのに、話し声が1つも聞こえない。
途中で扉の開いた部屋の前を通った。中では10人くらいの男の人が、窓際の椅子に並んで座って、刺繍をしていた。全員が同じ角度でうつむいていた。針を動かす音だけがする。
誰も隣の人と話していなかった。
図書室みたいだと思った。図書室よりも、静かだった。
廊下を歩きながら僕は気をつけた。
走らない。
殿方の心得、第88条。館の中で走ってはいけない。ここは殿方館だから、まさにこの条文の場所だ。
僕は律儀の律なので、ちゃんと守る。
*
通されたのは白い壁の小さな部屋だった。
窓際に1人の男の人が座っていた。
背が高くて色が白い。銀色の髪を肩のあたりで切りそろえている。手には白い手袋。襟は首の一番上まで留めてある。
背筋がまっすぐで表情がまったく動かない。
エレオノーラ先輩と、同じ種類の人だ。
「よく来た。殿方館筆頭、アルフォンスだ」
低くて静かな声だった。
「日野律です。律儀の律です。お招きありがとうございます、アルフォンスさん!」
アルフォンスさんの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……座られよ」
僕は向かいの椅子に座った。
侍女の人がお茶を置いて出ていくと、部屋には2人きりになった。
アルフォンスさんは、お茶に手をつけなかった。
「単刀直入に申す。リツ殿の振る舞いについて、殿方館として看過できぬ話が届いている」
「振る舞い、ですか」
「走る。汗をかく。腕を出す。淑女と机を寄せる。遊戯で卓を囲む。淑女の前に立って盾を構える」
アルフォンスさんは指を1本ずつ折っていった。手袋の指が6本目で止まった。片手では足りなかったらしい。
「それ、悪役が自分の罪を数えさせられるやつですね」
「……数えている」
アルフォンスさんは表情を変えずに言った。
「それから、手ずから料理を作り、淑女に分け与えた」
「あ、卵焼きのことですね!」
「……そうだ」
「誰もおいしいって言ってくれなかったんです。甘すぎたのかなって、ちょっと気にしてて」
「そういう問題ではない」
アルフォンスさんの声が、少しだけ大きくなった。
「殿方の手料理が何を意味するか、分かっているのか」
「はい! 殿方の心得の第41条ですよね。生涯を共にするくらいの気持ちで、心を込めて作れって。だから、ちゃんと心を込めて作りました」
アルフォンスさんが黙った。
長い沈黙だった。
「……分かったうえで、か」
「はい。31人分、全部心を込めました」
アルフォンスさんは目を閉じた。
お茶の湯気だけがゆらゆらと上っていた。
*
それから1時間、品位についての話を聞いた。
殿方は走らない。殿方は汗をかかない。殿方は肌を見せない。殿方は自分から淑女に話しかけない。殿方は館を出ない。
アルフォンスさんの話は、1つ1つが短くて正確だった。殿方の心得を、全部覚えているのだと思う。
僕は全部うなずいて聞いた。
ゲームでいうとチュートリアルの説明が1時間続いている感じだ。スキップのボタンはない。でも、こんなに真剣に誰かに何かを教えてもらうのは久しぶりだったので、僕は少しうれしかった。
ただ、1つだけ気になったことがあった。
「あの、アルフォンスさん」
「何だ」
「さっきの庭、すごく広かったですよね。あそこでは走らないんですか」
「殿方は走らぬ」
「もったいないなあ。あんなに広いのに」
アルフォンスさんは窓の外を見た。
窓の下にはさっき通ってきた庭があった。芝生は青くて、日の光がいっぱいに当たっていた。
「……リツ殿は、なぜ走る」
初めてアルフォンスさんのほうから質問された。
「僕、前の……故郷では、体が弱くて。7年くらい、ずっと寝てたんです。走るどころか、廊下を歩くのも許可が要りました」
アルフォンスさんが、こちらを見た。
「だから、今は走れるのがうれしくて。足で地面を蹴ると、体が前に出るじゃないですか。風が顔に当たって、心臓がどくどくして、息が苦しくなって。それが全部、生きてるって感じなんです」
アルフォンスさんは何も言わなかった。
でも、さっきまでと少しだけ、目の感じが違った気がした。
「あの、今度一緒に走りませんか。あの庭で」
「断る」
即答だった。
「殿方の品位に関わる」
「……そうですよね」
フレンド申請、拒否された。
ネトゲなら拒否されてもすぐ次の人に申請できる。でもこの国には、男の人が40人しかいない館が1つあるだけだ。次の人がいない。
僕はたぶん、この国の殿方としては変なやつなのだ。品位のある人からすれば、一緒にいたくない相手なのだと思う。
「今日は、ありがとうございました。品位、気をつけます」
僕は立ち上がって頭を下げた。
「館の中では、ちゃんと走りませんでした。第88条、守りましたよ」
アルフォンスさんが小さくうなずいた。
「……それは、よい心がけだ」
褒められた。
少しだけ救われた気持ちになって、僕は部屋を出た。
*
廊下を静かに歩いて、玄関を出た。
3つの門をくぐる。最後の門を出たところで、僕は大きく息を吸った。
館の外だ。
第88条によれば、館の外なら走っていい。
僕は走り出した。
白い壁に沿って王都の石畳の上を。風が顔に当たる。心臓がどくどく鳴る。息が苦しい。
生きてる。
後ろでイルゼさんが走りながら何か叫んでいた。道を歩いていた女の人たちが次々と立ち止まり、何人かがその場に座りこんだ。
座りこんだ人たちの中で、小さな手が1つだけ、こっちに向かって振られていた。
僕は走りながら手を振り返した。
小さな手は、もっと大きく振られる。僕はもう一度振り返した。
ふと見上げると、殿方館の2階の窓に白い人影が見えた。
アルフォンスさんだった。
手を振ると人影はすぐに窓から消えた。
さっきの小さな手は振り返してくれたのに。
やっぱり、嫌われたのかもしれない。
――――――――――――――――――
【アルフォンス視点】
殿方館筆頭、アルフォンス。17歳。
この館で暮らす40名の殿方のうち、最も品位ある者とされている。
館の侍女たちは私を「白百合の君」と呼ぶ。庭の花壇に白い花しかないのは、私が6歳のときに「白い花が好きだ」と言ったからだそうだ。
本当は何色の花が好きなのか、自分でも覚えていない。
*
館長に呼ばれたのは、3日前だった。
学園に入った野良の殿方が、殿方の品位を著しく損なっている。走る。汗をかく。腕を出す。淑女の盾になる。その話は館の中まで届いていた。
そして昨日、もう1つ届いた。
婚姻院から館に回ってきた写しである。婚姻法第3条。手料理。婚約者19名。
館長の手は震えていた。
「アルフォンス。あなたから、殿方の品位というものを教えておあげなさい」
私は引き受けた。それが筆頭の務めだからだ。
*
現れた殿方は思っていたよりずっと小柄だった。黒い髪に黒い目。手袋をしていない。襟のボタンが1つ外れている。
そして、笑っていた。
「お招きありがとうございます、アルフォンスさん!」
さん。
殿方から名を呼ばれたのは、生まれて初めてだった。この館の殿方は、互いの名を呼ばない。呼ぶ用事がないからだ。
私は品位の話を始めた。
走ること。汗をかくこと。腕を出すこと。指を折って数えた。数えながら、自分でも驚いていた。この国に来てたった3週間で、これだけのことをした殿方は歴史上いない。
6本目を数えたところで、殿方が言った。
「それ、悪役が自分の罪を数えさせられるやつですね」
悪役。
私は品位を説いている。罪を数えているのではない。
……いや、数えている。
数えているのは間違いなく私である。
「……数えている」
それしか言えなかった。
そして手料理。
「殿方の手料理が何を意味するか、分かっているのか」
「はい! 生涯を共にするくらいの気持ちで、心を込めて作れって」
分かっている。
この殿方は分かっていてやったのだ。
「31人分、全部心を込めました」
31人。婚約者の登録は19名と聞いていた。つまり、あと12名は、まだ申請していないだけである。
私は目を閉じた。
この殿方は品位を知らないのではない。品位などというものを、最初から必要としていないのだ。
*
「……リツ殿は、なぜ走る」
聞くつもりはなかった。気がついたら口が動いていた。
「故郷では体が弱くて。7年くらい、ずっと寝てたんです」
7年。
私がこの館の庭を最後に走ったのは、6歳の春だった。
花壇の間をただ走った。理由はない。走りたかったから走った。転んで膝をすりむいた。侍女が泣き、館長が青ざめ、その日のうちに庭には「殿方立ち入りの際は侍女の付き添いを要す」という札が立った。
それから11年、私は一度も走っていない。
庭は毎日窓から見ている。
「風が顔に当たって、心臓がどくどくして、息が苦しくなって。それが全部、生きてるって感じなんです」
生きている。
私は生きているのだろうか。
「あの、今度一緒に走りませんか。あの庭で」
「断る」
即答した。そうしなければ、別の答えが口から出そうだった。
「殿方の品位に関わる」
殿方の顔が少しだけ曇った。
それを見て胸のどこかが痛んだ。理由は分からない。
*
帰り際に殿方は言った。
「館の中では、ちゃんと走りませんでした。第88条、守りましたよ」
私はうなずいた。
少なくとも心得は読んでいる。それだけでも救いだと思った。
「……それは、よい心がけだ」
殿方はうれしそうに頭を下げて出ていった。
*
しばらくして、館の外が騒がしくなった。
窓に近づいて下を見た。
殿方が走っていた。
最後の門を出たところから、白い壁に沿って、王都の石畳の上を。全力で。
後ろから護衛の騎士が走って追いかけている。通りの淑女たちが、次々と座りこんでいる。
私は殿方の心得を取り出して、第88条を開いた。
『殿方は、殿方館の外にて走ることを禁ず』
館の外にて。
殿方は館の中では走らなかった。そして館の外に出てから、走った。
逆だ。
この殿方は312条のうち、よりによってこの1条を完全に逆に覚えている。
叱らなければならない。品位を説く者として、筆頭として。
そう思ったのに、私は窓から目を離せなかった。
通りの淑女たちの中で、小さな子どもが1人、手を振っていた。殿方は走りながら、その子に手を振り返した。
それから殿方が振り返って、こちらに手を振った。
私は窓から一歩下がった。
手を振り返しそうになったからだ。
あの小さな子は振り返した。私は、振り返せなかった。
品位とは何なのだろう。
*
その夜、私は館長への報告書を書いた。
報告書
件名:殿方リツへの品位の指導について
報告者:殿方館筆頭 アルフォンス
1.殿方の品位について、1時間にわたり説いた。
2.殿方は全てにうなずいた。
3.効果:なし。
4.殿方は第88条を逆に覚えている。訂正は、次の機会に行う。
所感:
所感の欄に何を書けばいいのか、分からなかった。
「走るとは、どういう心地なのか」と書きかけて、消した。
結局は空欄のまま提出した。
寝る前に窓を開けた。
夜の庭は暗く、白い花だけがぼんやりと浮かんでいた。
あの殿方が走ったら、どの道を通るだろう。
そんなことを考えながら、私は手袋を片方だけ外して眠った。
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【王都の母親視点】
——同じ日の昼、王都の大通りでは。
娘の手を引いて市場からの帰り道を歩いていた。
娘は8歳になる。最近は何でも自分でやりたがる。買い物かごも自分で持つと言って聞かないので、持たせた。かごは大きくて、半分くらい地面を引きずっていた。
殿方館の白い壁の横を通るのは、いつものことだ。
あの壁の向こうに殿方が40人ほど暮らしておられる。私は生まれてから35年、殿方を遠くからお見かけしたことが2回ある。2回とも、馬車の窓のカーテン越しだった。
この国の淑女はだいたいそんなものだ。
そのとき、壁の角から、誰かが走ってきた。
黒い髪の、小柄な人だった。
詰襟のボタンが外れていた。袖がまくれていた。額に汗が光っていた。
息を切らして、声を出して笑いながら走っていた。
殿方だった。
落ち着け、私。
娘の前だ。母親が取り乱してどうする。
殿方である。走っておられる。汗を。袖が。腕が。鎖骨が。
鎖骨。
落ち着け。鎖骨くらい、私にもある。殿方の鎖骨とは、何が違うのか。何もかも違う。落ち着け。
周りの淑女たちが次々と石畳に座りこんでいった。買い物かごが転がって、林檎が3つ、坂を下っていった。誰も拾わなかった。
私は立っていた。
娘の手を握っていたからだ。母親が座りこめば、娘も一緒に座りこむ。それはいけない。
そう思った次の瞬間、娘が私の手を離した。
そして殿方に向かって、両手をいっぱいに振った。
「とのがたー!」
大きな声だった。
この子は殿方を見たことがない。殿方には声をかけてはいけないことも、まだ知らない。
止めなければ、と思った。
思ったときには殿方がこちらを見ていた。
殿方は走りながら、娘に向かって手を振り返した。
笑って。
娘はもっと大きく手を振った。殿方は、もう一度振り返した。それから白い壁に沿って、あっという間に角の向こうへ走っていった。後ろから、鎧の騎士が必死の顔で追いかけていった。
大通りがしんとした。
娘が振り向いて私に言った。
「おかあさん。とのがた、てをふった」
「……そうね」
「わたしに、てをふった」
「……そうね」
「わたし、あのとのがたと、あそぶ」
8歳の娘はきっぱりと言った。買い物かごを持つと言い張ったときと、同じ顔だった。
殿方と、遊ぶ。
この国の淑女が400年言えなかったことを、8歳の娘が、大通りの真ん中で言った。
私は娘の頭をなでようとした。
そのまま、静かに石畳に座りこんだ。
娘が私を見下ろして、首をかしげた。
「おかあさん、どうしたの」
「……なんでもないの。ちょっと、休んでいるだけ」
林檎がまだ坂を転がっていた。




