第10話 GG
【リツ視点】
殿方館から2通目の手紙が届いたのは、最初の訪問から4日後だった。
『殿方リツ殿へ。第88条の件で、伝えねばならぬことがある。次の休日に来館されたし。なお、号外で読んだ「まーじゃん」なる遊戯の道具を持参されたし。 アルフォンス』
まーじゃん。
アルフォンスさんが、麻雀に興味を持ってくれた。
嫌われたと思っていた。でも、嫌いな相手に遊びの道具を持ってこいとは言わないと思う。たぶん。
僕は手紙を3回読んだ。それから厚紙の牌を1枚ずつ数えて、箱に詰めた。136枚。九筒の丸は、今でも少し四角い。
*
入学して22日目。2回目の休日。
僕はまた白い馬車に揺られて、殿方館の3つの門をくぐった。イルゼさんは今日も控えの間で待つことになった。
通された部屋はこの前と同じ白い部屋だった。
アルフォンスさんは窓際に立っていた。今日も手袋をしている。ただ、右手だけだった。
「来たか」
「はい! 麻雀、持ってきました」
「それは後だ。まず、第88条だ」
アルフォンスさんは殿方の心得を開いて、僕の前に置いた。
「読まれよ」
僕は読んだ。
『殿方は、殿方館の外にて走ることを禁ず』
「はい。館の中では走っちゃいけないってことですよね」
「違う」
アルフォンスさんの声は静かだった。
「館の外にて、走ることを禁ず。外で走ってはならぬ、と書いてある」
僕はもう一度読んだ。
館の、外にて。
外にて、走ることを、禁ず。
「……逆だ」
「逆だ」
アルフォンスさんが同じ言葉を繰り返した。
僕の頭の中でこの4週間の記憶がいっせいに再生された。砦の中庭を走った。学園の敷地を走った。この前は館の門を出たところから、王都の大通りを全力で走った。
全部、館の外だ。
「僕、律儀の律なのに……一番大事な条文を、真逆に……」
顔が熱くなった。
「すみません。律儀の律、返上します」
「……返上されても、困る」
「じゃあ、やっぱりやめます」
返上は、5秒で撤回した。
「それに僕、学園でも毎日走ってました。朝、敷地を5周……」
アルフォンスさんは少し考えてから、聞いた。
「そなたの住まう館は、どこだ」
「館、ですか。学園の寮です」
「学園の寮は、学園の敷地の中にあるな」
「はい」
「ならば、学園の敷地は、そなたの館の中だ」
アルフォンスさんは、表情を変えずに言った。
「心得は、殿方館に住まう殿方のために書かれている。そなたは殿方館に住んでおらぬ。そなたの館は学園だ。館の中で走ることは、禁じられておらぬ」
「……それ、ありなんですか」
「条文には、そう書いてある」
それから窓の外を見た。
「ただ、そう読めると気づいたのは、そなたのおかげだ」
「僕の、ですか」
「第88条が禁じているのは、館の外で走ることだけだ」
アルフォンスさんは窓を開けた。
下にはあの広い庭が見えた。白い花壇と青い芝生と噴水。
「館の中で走ることを禁じる条文は、312条のどこにもない」
僕はアルフォンスさんの横顔を見た。
「書く必要がなかったのだろう。館の殿方は、館の中でも走らぬから。だが書いていない以上、禁じられてはいない」
「それって」
「庭は、館の中だ」
アルフォンスさんが、右手の手袋を外した。
白くて細い手だった。
「この前の誘いは、まだ有効か」
僕は、たぶん、生まれて一番大きな声で返事をした。
「はい!」
*
庭に出ると、侍女の人たちが青い顔で駆け寄ってきた。
「アルフォンス様、お庭には付き添いが……」
「心得のどこにも、付き添いを要すとは書いておらぬ。あれは館長の札だ」
アルフォンスさんは庭の入り口の札を見もせずに通り過ぎた。
かっこいい。エレオノーラ先輩と同じ種類の人だと思っていたけれど、たぶん、もっと強い。
芝生の端に2人で並んだ。
「どこまで走るのだ」
「噴水を1周して、戻ってくるのはどうですか」
「……よかろう」
「じゃあ、よーい」
アルフォンスさんが、少しだけ前かがみになった。走る前の姿勢を、体が覚えていたみたいだった。
「どん!」
走り出した。
芝生が柔らかい。風が顔に当たる。隣で、アルフォンスさんの銀色の髪が跳ねている。
アルフォンスさんは、最初の10歩でつまずきかけた。それでも止まらなかった。噴水の角を曲がるときに少しよろけて、僕の肩に手をついた。素手だった。
「すまぬ」
「大丈夫です!」
噴水の水しぶきが顔にかかった。
戻ってきたとき、2人とも息が上がっていた。アルフォンスさんは芝生に両手をついて、肩で息をしていた。額に汗が光っている。
しばらくして、アルフォンスさんが顔を上げた。
「……心臓が、うるさい」
「ですよね!」
「息が、苦しい」
「ですよね!」
「……これが、生きている、ということか」
アルフォンスさんは、芝生の上に仰向けに倒れた。
それから、小さな声で笑った。
初めて聞いた。この世界に来て初めて、誰かが僕の前で声を出して笑った。
僕も隣に倒れて一緒に笑った。
空が青かった。病室の天井よりずっと高かった。
*
部屋に戻って麻雀を広げた。
問題は人数だった。
「麻雀は4人でやるんです。あと2人いれば」
気がつくと、扉の隙間から2つの顔がのぞいていた。
僕と同じくらいか、少し年下に見える男の子が2人。1人は小柄で、もう1人は少し背が高い。2人とも白い手袋をはめて高い襟の服を着ている。
「エミールとノルベルトだ。13歳と15歳。窓から、庭を見ていたのだろう」
アルフォンスさんが言うと、2人はびくっとして扉の陰に隠れた。
でも、すぐにまた顔を出した。
エミールとノルベルトが、仲間になりたそうにこちらを見ている。
頭の中に勝手にそういう文字が浮かんだ。前世のゲームで、倒したモンスターが起き上がってこっちをじっと見てくるときの文字だ。
背の高いほうの子、ノルベルトくんが、小さな声で言った。
「……学園は、走れるのか」
「走れます! 毎朝走ってます」
「外の馬車が、赤いって本当か」
「赤いのは見たことあります。商会の早馬車。3倍速いんです」
「さんばい……」
ノルベルトくんの目が、きらきらした。
小柄なほうの子、エミールくんは、ノルベルトくんの袖をつかんだまま「うわ」と言った。
「一緒にやりませんか! ルールは教えます!」
2人は顔を見合わせた。
それから、おそるおそる部屋に入ってきた。
*
殿方4人で卓を囲んだ。
ルールはやりながら覚えてもらうことにした。説明書を全部読んでから始めるより1回やってみたほうが早い。ゲームはだいたいそうだ。
最初の1局で僕は気がついた。
みんな、しゃべる。
「これ、何の絵ですか? 丸がいっぱい」
「九筒っていうんです。ちょっと丸が四角いけど」
「ほんとだ、四角い!」
ノルベルトくんが笑った。エミールくんは牌を引くたびに「うわ」「あっ」と小さな声を出した。アルフォンスさんは黙って牌を見ていたけれど、上がりそこねたときには「むう」とうなった。
声がある。
反応がある。
前世のネット麻雀の卓と同じだった。いや、違う。今は顔が見える。声が聞こえる。
淑女の人たちはたぶん何かの決まりで反応を表に出せないのだと思う。でも殿方同士には、その決まりがないらしい。
僕はうれしくて何度も笑った。
*
4局目。
アルフォンスさんは、エミールくんの捨てた牌を見て、静かに手牌を倒した。
「ロン」
それから、少しだけ間を置いて言った。
「……御無礼」
僕は思わず吹き出した。
「アルフォンスさん、それ!」
「号外に書いてあった。上がるときは、そう言うのだろう」
「はい、そうです! そうなんです!」
初めて通じた。
この世界で初めて御無礼が通じた。
エミールくんは「うわ」と言ってから、なぜかアルフォンスさんに頭を下げていた。
最後の局が終わって、僕は牌を崩しながら言った。
「GG!」
3人がこちらを見た。
「じーじー、とは」
「グッドゲーム。いい勝負でした、っていう意味です。故郷の遊びで、終わったあとにみんなで言うんです」
アルフォンスさんは、しばらく黙っていた。
それから小さく言った。
「……GG」
「GG!」
「じーじー!」
エミールくんとノルベルトくんも、声をそろえた。
僕は笑いながら、ずっと言いたかったことを言った。
「アルフォンスさん。僕と、友達になってください」
アルフォンスさんの手が、牌の上で止まった。
「……友の契りは、殿方が淑女に申し出るものだ。殿方同士の友の契りに、前例はない」
「じゃあ、僕たちが最初ですね」
アルフォンスさんは、僕を見た。
長い沈黙のあとで、さっき手袋を外した右手を差し出した。
「……よかろう」
僕はその手を握った。
細くて、まだ少し汗ばんでいた。
頭の中に、前世で何千回も見た文字が浮かんだ。
フレンド申請が、承認されました。
前世で18年。この世界で4週間。
初めて、友達ができた。
――――――――――――――――――
【イルゼ視点】
殿方館の控えの間は、静かな部屋である。
侍女たちが交代で茶を運んでくる。この館の侍女は、淑女の平静の達人ぞろいだと聞いていた。
その侍女たちが、今日は1人残らず平静を失っていた。
*
最初は庭だった。
控えの間の窓から庭が見える。その芝生の上を殿方が2人、走っていた。
リツ様と、アルフォンス殿。
侍女たちが「白百合の君」と呼ぶ殿方が、走っていた。
落ち着け、イルゼ。
殿方が走っている。リツ様が走るのは毎朝見ている。慣れている。慣れているはずだ。
だが、2人である。
古い恋歌に走る殿方は1人しか出てこない。2人並んで走る殿方は、どの歌にもいない。歌にいないものが、窓の外にいる。
侍女長が持っていた茶器を落とした。若い侍女が2人、窓辺で抱き合って震えている。館長は廊下で柱につかまったまま動かない。
私は剣の柄を握りしめて、自分の平静を保った。
握りしめすぎて手袋の革がぎしりと鳴った。侍女が1人その音で振り向いた。私は窓の外を見たまま、何もなかった顔をした。
保てていた、と思う。手袋の革以外は。
*
次は声だった。
殿方の部屋から笑い声が聞こえてきた。
殿方の笑い声である。それも4人分。
殿方館の侍女長は勤めて30年になるという。その侍女長が、震える声で私に言った。
「この館で殿方の笑い声を聞いたのは、初めてでございます」
気がつくと私も侍女たちについて廊下の奥まで来ていた。控えの間で待つという決まりを、私は今日破った。侍女たちも全員、持ち場を離れていた。侍女たちは扉の前に並んで、耳を澄ませていた。誰も止めなかった。私も止めなかった。
「ロン。……御無礼」
アルフォンス殿の声だった。
扉の前の侍女が3人、膝から崩れた。
「じーじー!」
殿方たちの声が重なった。
意味は分からない。ただ、楽しそうだった。
そして最後に、リツ様の声がした。
「僕と、友達になってください」
扉の前が静まり返った。
殿方が、殿方に、友の契りを。
落ち着け。落ち着いて考えろ、イルゼ。
婚姻院の申請書には、殿方の欄が1つしかない。申請するのは淑女である。では殿方同士の場合は、どちらが申請書を書くのだ。
いや、誰も書かない。書かないはずだ。
書かないはずなのに、私の頭の中で、申請書の殿方の欄に2人の名前が並んで書かれていく。消しても消しても書かれていく。
手袋の革が、もう一度鳴った。
しばらくして、アルフォンス殿の声が聞こえた。
「……よかろう」
館長が廊下の柱から手を離して、その場に座りこんだ。
*
その日のうちに話は王都じゅうに広まった。
どこから漏れたのかは分からない。殿方館の侍女は口が堅いはずだから、たぶん全員が少しずつ話したのだと思う。
翌朝、学園には号外が出ていた。
セレスタ学園新聞 号外 第4号
見出し:殿方同士、友の契り
殿方リツ殿と、殿方館筆頭アルフォンス殿が、友の契りを交わされた。
殿方同士の友の契りは、記録に残る限り前例がない。
両殿方は、契りに先立ち、館の庭を走られたとのこと。
なお、赤い馬車の続報は次号に回す。
号外第4号は配り始めて30分でなくなった。生徒会長殿が回収した20部を含めて。
*
話を戻す。殿方館から帰った日の夜、私は報告書を書いた。
報告書(第4報)
件名:殿方館への2度目の来訪について
報告者:専属護衛官 イルゼ
1.殿方リツ殿、第88条の正しい意味を知る。
2.殿方館の庭にて、アルフォンス殿と走る。館の中のため、心得には反しない(アルフォンス殿の解釈による)。
3.同解釈により、殿方の住まう学園の敷地は、殿方の館の中とみなされる。学園長に照会。回答「異議なし」。
4.殿方4名にて、まーじゃんを行う。
5.アルフォンス殿と、友の契りを交わす。
備考1:本人は「りちぎのりつ」を自称。(※自称)(※本人談)(※本日、本人より返上の申し出あり)(※同日中に撤回)
備考2:婚姻院より通知。友の契りの申請、新たに4件受理。婚約者は計23名となった。
備考3:控えの間および廊下にて、当職の手袋の革が2度鳴った。業務に支障なし。
備考3は書く必要がなかった。
消そうとしてやめた。報告書に嘘は書けない。
*
報告書を書き終えて、私は寮の廊下に出た。
剣の手入れの道具を持って、リツ様の部屋の前に座った。今夜の見張りは、ここでする。
布で刃を拭きはじめたとき、扉の向こうから声が聞こえた。
「友達、1人できた」
しばらくして、もう一度。
「友達が、1人」
それから、もう一度。
「……1人かあ」
うれしそうな声だった。
私は布を動かす手を止めて、静かに座っていた。
婚約者は、23名である。
友達は、1名である。
どちらも本当のことだ。ただ、リツ様がご存じなのは友達のほうだけである。そしてリツ様にとっては、そちらのほうがずっと大事なのだと思う。
扉の向こうでもう一度声がした。
「……GG」
誰に言ったのかは分からなかった。
私は扉に向かって小さく頭を下げた。
それから剣の手入れを続けた。今夜の刃は、いつもより少しだけよく光った。




