第7話 僕がタンクやります
【リツ視点】
入学して10日目は野外実習の日だった。
場所は学園の裏にある演習林だ。学園の敷地の中なので、門の外に出なくても行ける。1年A組と2年生の1クラスの合同で、魔物の出る森を班ごとに歩く。
魔物。
本物の魔物だ。
前世では画面の中でしか見たことがない。スライムとかゴブリンとか、イノシシみたいなやつとか。ネトゲで何千匹も狩ってきた。
朝、寮を出るときから、僕はずっとそわそわしていた。
「イルゼさん。魔物って、倒すと何か落とすんですか」
「落とす、とは」
「お金とか、アイテムとか」
「……肉は落とします。倒した場所に」
それはそうだ。
「殿方は見学です」
演習林の入り口で、実技担当のグンヒルト教官が僕の前ではっきり言った。
大柄な女の人で、腕が僕の太ももくらいある。声も大きい。この学園で初めて会った、声の大きい人だ。
「殿方は魔法の実技を受けません。班の最後尾を歩き、何があっても前に出ないこと。よろしいですね」
「はい」
「何が、あっても、です」
「はい。何があっても」
教官は僕の目を3秒見てから、小さくうなずいた。なぜか、あまり信用されていない気がする。
見学でも十分うれしい。森の中を歩けるだけで遠足みたいなものだ。前世の病室からは、遠足のしおりを見ることしかできなかった。
*
班は5人だった。僕とロジーナさんとコルネリアさんと、2年生が2人。そのうち1人がエレオノーラ先輩だった。先輩は班長の腕章をつけていた。
もう1人の2年生は、背の高い無口な人だった。名前はヘルガさん。先輩の隣に立って、ひと言もしゃべらない。
「ヘルガさん、よろしくお願いします」
ヘルガさんは僕を見て、1回だけうなずいた。
それだけだった。
でも、うなずいてくれた。この学園では大きな進歩だと思う。
出発の前に、班の荷物が配られた。水筒、薬草の袋、地図、木の盾が1枚。
「あの。荷物、僕が持ちます」
見学なら、それくらいはしたい。ゲームでも、戦えないキャラは荷物持ちをするものだ。
班の4人が同時に固まった。
「……殿方に荷物を持たせた班は、記録に残ります」
コルネリアさんが帳面を開いたまま言った。
「よくない意味で、ですわ」
「そうなんですか」
「殿方の手に重い物を持たせた、と。わたくしの家の取引にまで響きますわ」
結局、僕は何も持たせてもらえなかった。手ぶらの荷物持ちだ。ゲームなら完全に役立たずの枠である。
イルゼさんは班の外側を少し離れてついてくる。実習中の護衛は、班の外から見守る決まりらしい。
僕は言われたとおり一番後ろを歩いた。
*
森の中は思っていたより明るかった。
木漏れ日がまだらに地面に落ちている。鳥の声がする。土と葉っぱの匂いがする。
病室の窓から見えた木は、1本だけだった。冬になると葉が全部落ちて、春になるとまた生えた。
ここには、数えきれないくらい木がある。
前を歩くエレオノーラ先輩は背筋を伸ばしたまま、一度も振り返らなかった。ロジーナさんは何度か振り返りかけて、そのたびにコルネリアさんに袖を引っぱられていた。
30分ほど歩いたところで、茂みががさりと揺れた。
出てきたのは大きなイノシシだった。
ただのイノシシじゃない。額からねじれた角が1本生えている。体は大型犬くらいある。鼻息が荒い。
「ツノイノシシ……演習林の、一番弱い魔物です」
ヘルガさんが小さく言った。初めて声を聞いた。
一番弱い魔物。
つまりチュートリアルのモンスターだ。
僕の頭の中で、前世のネトゲの記憶がいっせいに起動した。パーティ戦闘の基本。敵が出たら、まずタンクが前に出て攻撃を引きつける。その間に後衛が魔法で削る。
このパーティにはタンクがいない。
全員が魔法を使う後衛だ。前に出る人がいなければ、ツノイノシシは一番弱そうな人に突っこんでくる。
一番弱そうな人。
ロジーナさんが真っ青な顔で杖を握りしめていた。
気がついたら、僕は最後尾から走り出していた。
途中で、班の荷物の木の盾を拾う。
エレオノーラ先輩の横を抜けて、一番前に出た。
「僕がタンクやります! みんなは後ろから魔法で!」
森が、静まり返った。
鳥の声まで止まった気がした。
振り返ると、4人とも固まっていた。杖を構えたまま誰も動かない。
詠唱の準備をしているのだと思う。魔法は集中が大事だ。
僕は盾を構えて、ツノイノシシに向かって叫んだ。
「こっちだ!」
ネトゲで言う挑発だ。敵の注意を自分に向ける。
ツノイノシシが僕を見た。
前足で地面をかいた。
来る。
そのとき頭の中に、もう1つ別の記憶がよみがえった。前世で読んだ漫画やラノベで、何十回も見た場面。
「ここは僕に任せて、みんなは先に!」
言ってから気づいた。
これ、死亡フラグだ。
ツノイノシシが突っこんできた。
盾で受けた。
ものすごく重かった。腕がしびれて、足が地面から浮いて、僕は後ろに転がった。盾が手から飛んでいく。
ゲームでは、タンクは盾を構えたら動かないものだった。現実のタンクは、普通に吹っ飛ぶらしい。
防御力という数字が、この世界には表示されない。表示されたら、たぶん1桁だと思う。
仰向けに倒れた僕の上に、ツノイノシシの影が落ちた。
その瞬間、空気が冷たくなった。
ぱきん、と乾いた音。
目を開けると、ツノイノシシが氷の塊になっていた。角の先まできれいに凍りついている。鼻息の形まで白く固まっていた。
その向こうに、エレオノーラ先輩が杖を突き出して立っていた。
ほとんど同時に、イルゼさんが茂みを突き破って飛びこんできた。剣を抜いている。でももう斬るものはなかった。
僕は起き上がって、思わず叫んでいた。
「ナイスです、先輩!」
エレオノーラ先輩の杖の先が、かすかに揺れた。
「タンクが引きつけて、アタッカーが決める。完璧な連携でした!」
先輩は何も言わなかった。いつもの無表情で、凍ったツノイノシシを見下ろしていた。
かっこいい。一撃だった。レベルアップの音は、どこからも鳴らなかったけれど。
ただ、タンクとしての僕は全然だめだった。
「タンクとしては、全然だめでした」
思わず声に出た。盾で受けて1秒で吹っ飛んだ。前世のネトゲなら、パーティから外されるレベルだ。
「……リツ様」
イルゼさんが剣を鞘に戻しながら言った。声が低かった。
「二度と、前に出ないでください」
「はい。すみません」
怒られた。当然だ。何があっても前に出ないと約束したのに、前に出た。約束してから、たぶん30分くらいしかたっていない。
頬がひりひりした。転んだときに擦りむいたらしい。
気がつくと、エレオノーラ先輩が目の前に立っていた。手に白いハンカチを持っている。
「……お使いください」
「え、いいんですか。ありがとうございます、先輩」
第12条を守って、ハンカチは毎日持ち歩いている。ただ、実習用の服にはポケットがなかった。
僕はハンカチを受け取って、頬の擦り傷と、ついでに額の汗を拭いた。森の中を走ったので汗だくだった。自分の汗は自分で拭く。第12条も守れている。
「洗って返しますね」
「いえ」
先輩は、ものすごい速さで僕の手からハンカチを取り返した。
「そのままで、結構です」
洗わなくていいなんて、先輩はやっぱり優しい。
ロジーナさんがなぜか杖を2つに折っていた。コルネリアさんは帳面に何かを書きかけて、ペン先をずっと紙に当てたままだった。インクの染みがどんどん大きくなっていく。
ヘルガさんだけは、凍ったツノイノシシを持ち上げて、黙って運び始めた。
この班で一番頼りになるのは、たぶんヘルガさんだ。
魔物は、本当に肉を落とした。
――――――――――――――――――
【エレオノーラ視点】
ブランシュ公爵家の長女、エレオノーラ。
本日、私は生まれて初めて殿方の背中に守られかけた。
*
野外実習の班分けは、生徒会長である私が組んだ。
殿方と同じ班になったのは偶然である。
班長として殿方の安全に責任を持つためには、同じ班にいるのが最も効率的だ。生徒会室で3時間かけてその理屈を組み立てたので、偶然ではないかもしれない。
ヘルガを同じ班に入れたのは、私が倒れたときに運ばせるためである。さすが私である。備えは万全だ。
出発の前に、殿方が「荷物、僕が持ちます」とおっしゃった。
落ち着きなさい、エレオノーラ。荷物である。ただの荷物の話である。
殿方が淑女の荷物を持つ。それは恋歌の第3章で、殿方が恋人の籠を持って市場を歩く場面と同じではないか。いや違う。違わない。落ち着きなさい。
商会の娘が「記録に残ります」と止めてくれた。助かった。あの娘は、ときどき役に立つ。
*
森の中で、私は一度も振り返らなかった。
振り返れば殿方が見える。見れば平静が乱れる。殿方は今日、実習用の動きやすい服を着ておられた。袖が短い。手首が出ている。
手首である。
ただの手首である。
ただの手首が、なぜ森の木漏れ日の中であんなに白いのか。説明を求めたい。誰に求めればいいのか分からない。
振り返らない。それが班長の務めである。後頭部で感じるだけにする。
*
ツノイノシシが出たとき、私は安堵した。
演習林で最も弱い魔物だ。1年生でも3人がかりで凍らせれば済む。班長として落ち着いて指示を出せばいい。さすが私である。
指示を出そうとして、口を開いた。
その横を、殿方が走り抜けていった。
「僕がタンクやります! みんなは後ろから魔法で!」
たんく。
意味は分からなかった。ただ、殿方が何をなさろうとしているのかは、見れば分かった。
殿方が、淑女の前に立った。
盾を構えて。
淑女たちを、背にかばって。
この国では、守るのは淑女の役目である。殿方は守られるもの。殿方館の奥で、何重もの扉と護衛に囲まれて暮らすもの。それがこの国の何百年も続く形だ。
殿方が淑女の盾になった記録は、どの歴史書にもない。
ただ1つ、古い恋歌にだけある。
戦に出る恋人の前に立ちはだかり、「行かせない、私が盾になる」と言った殿方の歌。この国の淑女なら誰でも一度は寝る前に読んでいる。私は13歳の冬に、78回読んだ。そして淑女はみな、そんな殿方はこの世にいないと知って大人になる。
その殿方が、今、私の目の前にいた。
いた。
本当にいた。
78回読んだ殿方が、木の盾を持って、私の前にいた。
杖を構えたまま、私は動けなかった。隣のロジーナもコルネリアも、ヘルガも。4人とも詠唱の1文字目すら出てこなかった。
殿方は、さらにおっしゃった。
「ここは僕に任せて、みんなは先に!」
任せて。
先に。
それは恋歌の最後の一節とほぼ同じだった。歌の殿方はそう言って恋人を逃がし、帰ってこなかった。
帰ってこなかった。
その1行を思い出した瞬間、凍っていた私の体が動いた。
*
殿方が吹き飛ばされたのが見えた。
仰向けに倒れた殿方の上に、ツノイノシシの影が落ちるのが見えた。
気がつくと、私は杖を突き出していた。詠唱をした記憶がない。
ツノイノシシは角の先まで凍りついていた。
演習林の魔物に使うには、明らかに強すぎる魔法だった。後でグンヒルト教官に「森の気温が2度下がった」と言われた。近くの班の水筒が3本凍ったらしい。
殿方は起き上がって私を見て、叫ばれた。
「ナイスです、先輩!」
ないす。
「タンクが引きつけて、アタッカーが決める。完璧な連携でした!」
れんけい。
殿方が前に立ち、私が後ろから討つ。それを殿方は「連携」と呼ばれた。
2人で、1つのことを成し遂げた、と。
2人で。
私と、殿方の、2人で。
私は凍ったツノイノシシを見下ろしていた。殿方のほうは見られなかった。見たら終わる。
ブランシュ家の歴代当主の肖像画を、1代目から順に思い浮かべる。初代様。2代目様。3代目様。13代目のお祖母様まで来ても、まだ足りなかった。14代目の母の顔まで動員した。母は肖像画の中で、なぜか少しだけ笑っている気がした。気のせいである。
*
殿方の頬に、擦り傷ができていた。
考えるより先に、私はハンカチを差し出していた。
「……お使いください」
「え、いいんですか。ありがとうございます、先輩」
殿方はハンカチを受け取り、頬の傷を拭かれた。
それから額の汗を拭かれた。
殿方の心得、第12条。殿方の汗は、妻となる者のみが拭うべし。
拭ったのは私ではない。殿方ご自身である。ただし、布は私のものである。
この場合、どうなるのか。
淑女の心得にも、殿方の心得にも、どこにも書いていない。
書いていないなら、生徒会長の判断になる。私の判断。つまり私が決める。何を決めるのか。落ち着きなさい、エレオノーラ。
「洗って返しますね」
洗う。
洗う?
私は自分でも見たことのない速さで手を伸ばし、ハンカチを取り返していた。
「そのままで、結構です」
声がわずかに裏返った気がする。殿方は気づかれなかったようだ。
隣でロジーナが杖を折った。商会の娘は帳面にインクの染みを作り続けていた。2人とも平静の修行が足りない。
ヘルガは、ツノイノシシを担いで先に行ってしまった。私が倒れたときのための人員である。私は倒れていないのだから、正しい判断である。少し寂しい。
私の平静は完璧である。
ハンカチを握った右手が、なぜか開かなくなっていることを除けば。
*
演習林の出口で、班の4人は誰も口をきかなかった。
殿方だけが少し肩を落として、イルゼ殿のすぐ前を歩いておられた。「タンクとしては全然だめでした」とつぶやいておられた。
だめではない。
あの瞬間、この国の淑女が何百年も夢に見てきたものを、あなたはたった1人で、木の盾1枚でやってのけた。
そう言えたら、どれほどよかっただろう。
淑女は殿方の前で、そんなことを口にしない。
だから私は、寮に帰る前に生徒会室へ寄った。引き出しの鍵を開ける。号外が40部入っている。その一番上に、白いハンカチをたたんで置いた。
右手は、生徒会室に着いたところでようやく開いた。
洗っていない。
洗うつもりも、ない。
――――――――――――――――――
【イルゼ視点】
報告書(第3報)
件名:野外実習中の事故について
報告者:専属護衛官 イルゼ
1.演習林にて、ツノイノシシ1頭と遭遇。
2.当該殿方が班の最後尾から最前列に移動。「たんくをやる」と宣言し、木の盾にて突進を受ける。
3.当該殿方は後方に転倒。軽い擦り傷のみ。
4.生徒会長エレオノーラ殿の氷結魔法により、魔物は無力化。周辺の気温が2度下がった。近隣の班の水筒3本が凍結。
5.護衛官の到着は、魔物の無力化から1秒遅れた。弁明の余地はない。
備考1:本人は「りちぎのりつ」を自称。(※自称)(※本人談)
備考2:教官の「何があっても前に出ないこと」に「はい」と答えてから、前に出るまで約30分。
備考3:同班の淑女4名、帰寮後も口をきかず。うち1名は杖を折損、1名は帳面1冊をインクで損耗、1名は右手が開かなくなった。
備考4:残る1名(2年ヘルガ)は、凍ったツノイノシシを1人で厨房まで運んだ。夕食に出た。
*
報告書を書き終えて、私は剣の手入れを始めた。
1秒。
生徒会長殿の魔法より、1秒遅かった。
殿方の前に立つのは私の役目である。それを殿方ご本人に取られかけ、生徒会長殿に取られた。
落ち着け、イルゼ。お前は王国騎士だ。
落ち着いて考えれば、殿方は「みんなは先に」とおっしゃった。みんなの中に、私は入っていたのだろうか。
入っていなかった気がする。私は班の外にいた。
つまり殿方は、私を先に逃がすつもりもなかった。私のことは、そもそも計算に入っていなかった。
……それは、それで、少しだけ悔しい。
剣を磨く手に、力が入りすぎた。
明日から、朝の素振りを倍にする。
それから、殿方の3歩後ろではなく、2歩後ろを歩くことにする。
1歩近ければ、1秒速い。騎士学校で習った計算ではない。今、私が決めた計算である。




