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前世で友達0人だった僕、男女比1:100の異世界で友達を作ろうとしたら婚約者が100人を超えていた ~淑女たちはクール(※内心は絶叫)~  作者: 中原九尾
第二部 フレンド212人の向こうへ

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第56話 ここは、ぼくの館だ

【ノルベルト視点】


 1年A組、ノルベルト。16歳。


 学園に来て今日で9日目になる。


 まだ1回も走っていない。


 *


 朝、寮の廊下に出ると隣の扉も開いた。


「おはよう、ノルベルトくん。部室に寄っていきましょう」


 リツ殿の部屋は、ぼくの部屋の隣だ。リツ殿の2歩後ろに護衛のイルゼ殿、ぼくの3歩後ろに護衛のエルナ。4人並ぶと廊下はいっぱいになる。


 部室の壁には、リツ殿の「やりたい遊び」のリストが2枚貼ってある。2枚目の丸はまだいちばん上の1つだけだ。リツ殿は鉛筆を出して2行目の椅子取りゲームに丸をつけた。


「つけ忘れてました。入部試験の日は、いろいろあったので」


 その下の行は缶けりだ。


「缶って、何」


「故郷の金属の入れ物です。この国では見かけないですね」


 リツ殿は、ぼくの抱えている木箱を見た。


「放課後は缶けりにしましょう」


 ぼくは自分の箱を少しだけ背中のほうへ回した。


 *


 1年A組の教室で、ぼくの席は真ん中にある。


 前の机も後ろの机も空いている。右も左もその向こうも空いている。殿方の3m以内に淑女は近づけないからだ。3mの丸の中で人が座っている机は、ぼくの1つだけだ。


 食堂では1年生がぼくのまわりに3mの輪を作る。数えたら59人だった。1年生の淑女は60人いるはずだ。


 足りないのは、干した小魚をかじっている子だ。港町から来たユッタという子で、あの子だけは輪に入らない。3mの線を平気でまたいでぼくの横を通り、いちばん先に食べ終わって出ていく。


 ぼくは輪の真ん中で1人で食べる。


 殿方館では40人で食べていた。誰もしゃべらなかったけれど、1人ではなかった。


 *


 学則は入学の前に3回読んだ。走ってはいけないとは、どこにも書いていない。


 でも、殿方の心得には第88条がある。殿方は殿方館の外にて走ることを禁ず。


 学園は殿方館の外だ。だから8日間、早歩きだった。


 一昨日、アルフォンス様に手紙を書いた。殿方館を出て縁組みをした先輩の殿方だ。返事は今朝、寮に届いている。


『ノルベルトへ。心得は、殿方館に住まう殿方のために書かれている。そなたは今、どこに住まっておる。答えが分かったなら、走ってよい。 アルフォンス』


 ぼくは寮に住んでいる。寮は学園の中にある。


 3回読んで、分かった。


 *


 昼休み、中庭の芝生の端に立った。エルナが3歩後ろに立つ。


「ここは、ぼくの館だ」


 誰に言ったのでもない。声に出してみたら、本当になった気がした。


 走った。


 芝生を蹴る。風が顔に当たる。殿方館の庭を毎朝5周していたころと同じだ。ちがうのは、どこを見ても鍵のかかる扉がないことだ。


 1周して振り返ると、エルナがいた。


 ぴったり3歩後ろだ。ぼくが速くなると速くなり、曲がると同じところで曲がる。1歩も増えないし、減らない。


 2周目、1年A組の窓が目に入った。端から端まで、顔がガラスに張りついている。殿方が走るのを見るのはみんな初めてなのだと思う。


 1人だけ顔に全部出ている子がいた。ブランシュ家のヴィオラだ。口が開いて目が丸くなって、息でガラスがくもっている。


 3周目の途中で、上の階の窓が開いた。


「ノルベルトくーん!」


 リツ殿が窓から消えて、渡り廊下を走ってきた。2歩後ろをイルゼ殿が走ってくる。


「先輩として、走り方を教えようと思って! 腕は、こう——」


「もう3周した」


「……そうですね」


 リツ殿は腕を振りかけた形のまま止まった。


 4周目はリツ殿と並んで走った。


 殿方が2人、横に並んで走る。殿方館の庭でもしたことがない。


 1年A組の窓から、ごん、と音がした。誰かがガラスにおでこをぶつけたらしい。それから窓の顔が端から1つずつ下へ消えていった。最後まで残っていたヴィオラの顔も、すうっと沈んだ。


「みんな、授業の準備かな」


 リツ殿が言った。ちがうと思う。


 *


 芝生に座ると、エルナはぼくの3歩横に移った。座るときは横だそうだ。


 リツ殿は息を整えて、1年A組の窓を見上げた。


「僕も最初は、ああでした。休み時間は、ずっと1人で」


 ぼくは少し考えた。


「リツ殿は、学園で1人だった」


「はい」


「ぼくは、1人じゃない。リツ殿がいる」


 リツ殿は何か言いかけて口を閉じ、もう一度開いた。


「……先輩として、いいことを言おうと思ってたんですけど」


「うん」


「先に言われちゃいました」


 2歩後ろで、イルゼ殿の手袋の革がきゅっと鳴った。


 *


 放課後の中庭に遊戯部の9人がそろった。渡り廊下には見学員がずらりと座っている。


 リツ殿の隣にはユッタが座っていた。おととい、リツ殿の友達になったので隣に座っていいのだそうだ。座ってから干し魚が袋から1匹ずつ消えていく。


 リツ殿が決まりを説明した。鬼が10数えるあいだにみんなは隠れる。鬼は人を見つけたら缶を踏んで名前を言う。言われた人は捕まって缶の横で待つ。まだ捕まっていない人が缶を蹴れば、みんな逃げていい。


「まだ名前を呼べない人は、別の言い方で呼びます」


 リツ殿は新入生の名前を友達になるまで呼ばないことにしている。


 問題は缶だった。リツ殿がぼくの箱を見ている。


「故郷の球蹴りの漫画に、『ぼーるは友達』っていう言葉があって。蹴るものとは仲よくするんです」


 殿方館から持ってきた、いちばんいい箱だ。


「じゃあ、箱は友達だ」


 芝生の真ん中に箱を置いた。


「貸す。友達だから、強く蹴らないで」


 淑女が誰も箱に近づかなくなった。


 殿方の友達を蹴るのだ。蹴れるわけがない、という顔を全員がしている。1年B組のハンネローレが規則集をめくって白い付箋を貼った。


「殿方の友を蹴ってよいとする条文は、ございません」


「缶けりなので、蹴っていいんです!」


 *


 最初の鬼はリツ殿だった。先輩なので、だそうだ。


 ぼくは植え込みの陰にしゃがんだ。エルナはしゃがまずに3歩横に立った。


「……10!」


 振り返ったリツ殿はまっすぐ植え込みのほうを見た。その横に騎士が1人、まっすぐ立っている。


「ノルベルトくん、みーつけた!」


 節がついていた。故郷の子ども向けの番組の言い方だそうだ。


 リツ殿は缶まで走ってぼくの友達を踏んだ。


 ぼくが1番に捕まった。


 そのあとが困った。


 缶の横にぼくがいると、淑女は誰も缶に近づけない。ぼくの友達の淑女はまだ1人もいないからだ。ウルリケは「さあさあ!」と走ってきて3mの手前でぴたりと止まった。缶とぼくを何回か見比べて、自分から捕まりに来た。


 1回目は、全員が捕まって終わった。


「次の鬼はノルベルト殿ですが、その場合も淑女は缶に近づけません」


 ハンネローレが言った。


「じゃあ、鬼はずっと僕がやります」


 *


 2回目は物置の空き箱に入った。暗くて木の匂いがして、落ち着く。


 しばらくすると、外で足音が止まった。かりかりと何かをかじる音がする。


「この箱、隠れやすいね」


 箱に寄りかかられた。


「……箱の人?」


「ちがうよ。箱だよ」


 かじる音が止まった。


「箱がしゃべった」


 箱の隙間から、細くて硬いものが差しこまれた。つまんで鼻に近づける。


 知らない匂いだった。しょっぱくて少し生ぐさくて、遠くの匂いがする。


「これ、何の匂い」


「海だよ。ユッタの港は、ずっとこの匂いさ」


「海は、見たことない」


 隙間の向こうがしばらく黙って、もう1匹差しこまれた。


 かじると、しょっぱい。殿方館の庭にはこんな匂いのするものは1つもなかった。


「ノルベルトくんと、ユッタさん、見つけました!」


 箱の3歩横に、エルナが立っていた。


 *


 ハンネローレは、柱の陰で規則集を読んでいるところを見つかった。


 リツ殿は缶まで走ってそこで止まった。


「えっと……規則集の人!」


「ハンネローレです」


 リツ殿が口を押さえた。


「今の、僕が呼んだことになりますか」


「なりません。私が名乗っただけと解します。……捕まったことには、なると解します」


 ハンネローレは自分の名前で捕まった。


「最後の1回です」


 リツ殿が缶の横で目をふさいだ。


 ぼくは考えた。


 どこに隠れても、エルナが立つ。エルナが立っていても目立たないところはどこか。鬼がいて、捕まった人が待っていて、人が立っているのが当たり前のところ。


 缶の横だ。


 箱を守るなら、箱の中がいい。


 リツ殿が「1、2」と数えている。その足元でぼくは自分の箱のふたをそっと持ち上げた。中に入って膝を抱えて、ふたを閉める。


 友達の中は、やっぱり落ち着いた。


「……10! あれ、エルナさん、見学ですか?」


「……3歩横で、ございます」


「そうですか」


 足音が遠ざかっていった。


 *


 箱の中では、外の音だけが聞こえる。


 リツ殿の「ヴィオラさん、見つけました!」が聞こえて、箱が踏まれた。ぼくの頭の上だ。「ウルリケさん」でもう1回踏まれた。


 しばらくしてリツ殿の声が困った声になった。


「こちら、リツ。ノルベルトくんを見失いました。どうぞ」


「……こちら、イルゼ。2歩後ろにおります。どうぞ」


 ぼくは膝を抱えたまま声を出さずに笑った。


 リツ殿は中庭を3周して、見学員にもぼくのことを聞いて回ったらしい。見学員は全員まっすぐ前を見たまま、首を横に振ったそうだ。


 そのとき、足音が1つ聞こえた。


 まっすぐこっちへ来る。ほかの足音はみんな3mの手前で止まるのに、この足音だけは止まらない。


 どん、と箱が鳴った。


 箱が傾いて、ぼくは箱ごと芝生に転がった。ふたが開く。空が見えた。


 その空の手前に、小魚をくわえた顔があった。


 ぼくは立ち上がって決めていた台詞を言った。


「……待たせたな」


 渡り廊下の見学員が端から順番に座りこんだ。缶の横で待っていたヴィオラは、顔に全部出したまま、左手をぎゅっと閉じていた。ウルリケは「第9号……!」とだけ言って続きが出てこなかった。


 缶の横の人たちは逃げていいのに、誰も逃げない。みんな座りこんでいる。


 立っていたのは、ぼくとエルナと小魚の子だけだった。


 *


 小魚の子は蹴った足を片手で押さえていた。


「重かった」


「ぼくが入ってた」


「知ってたよ。入るとこ見てたし、騎士さんが缶の横に立ってたからさ」


 3mの中で止まってくれたのは、この子が初めてだ。ぼくの箱を蹴ったのも、海の匂いをくれたのも。


 殿方の心得の第7条、友の契り。今は文字どおりの友の約束にしていいそうだ。


「友達になってくれ」


 中庭が、もう一度静かになった。


 座りこんでいた見学員が座ったまま背筋を伸ばした。ヴィオラの顔が赤くなって青くなって、また赤くなる。殿方が1人の淑女に「友達になってくれ」と言うのを、みんな初めて聞いたのだと思う。


 ハンネローレが座りこんだまま規則集をめくって青い付箋を貼った。


「第3条の2第4項。殿方であれば、どなたにも当てはまると解します。……該当条文、ございます」


 少しうれしそうな声だった。


 リツ殿が向こうから走ってきた。


「ノルベルトくん、先輩として、友達の作り方を——」


「もう言った」


「……ですよね」


 リツ殿は芝生を見下ろして、「僕、今日、何も教えてないです」と言った。


「……左様で、ございますね」


 イルゼ殿が2歩後ろで言った。


 小魚の子は1匹かじって、もう1匹かじった。袋の中を見て、3匹目もかじった。


「いいよ」


 ぼくは名前を呼ぼうとした。この子は自分を名前で呼ぶので、もう知っている。


「ユ——」


「待って、ノルベルトくん!」


 リツ殿が両手を広げていた。


「呼ぶと、本当に友達になっちゃいます。申請書と受付の人とノルベルトくんの印が要ります。明日にしましょう」


 ぼくは口を閉じた。


 リツ殿はずっとこうしているのだ。全部そろうまで、名前を呼ぶのを取っておく。


 ぼくもひと晩取っておくことにした。


 *


 次の日の放課後、部室に婚姻院の眼鏡の人が来た。クラリッサという名前だそうだ。


「館の殿方が淑女を友に選ばれるのは、前例がございませんので」


 コルネリアが小さな包みを出した。


「ノルベルト殿の印ですわ。殿方の印がなければ受理できませんもの。商会の彫り師にひと晩で彫らせました」


 包みから出てきた木の印は、四角の中に何もなかった。


「箱だ」


「箱ですわ」


 小魚の子が申請書を出した。


 ぼくは名前を呼んだ。


「ユッタ」


 ユッタの友達手帳に印を押す。リツ殿の星の隣に四角が1つ並んだ。少し曲がった。


 眼鏡の人の受理の判は、まっすぐだった。眼鏡のほうは少しずれていた。


 淑女の友は、1人目だ。


 その夜、アルフォンス様に手紙を書いた。


『アルフォンス様へ。答えが分かったので、走りました。ユッタという友ができました。干した魚をくれます。海の匂いがします。海を、見てみたいです。 ノルベルト』


――――――――――――――――――

【ユッタ視点】


 1年A組、ユッタ。15歳。南の港町の網元の娘。


 本日、ユッタは箱を蹴った。


 中に、殿方が入っていた。


 *


 港には殿方がいない。


 だから3mと言われても、どのくらいなのかよく分からない。網の目なら指で測れるし、舟と舟の間なら櫂で測れる。殿方との間は何で測ればいいんだろう。


 港に届く号外は、写しの写しのさらに写しだ。それによると、殿方の手料理を食べてお返しをすれば婚約者になれる。卵焼きという料理だそうだ。


 婚約者になれば家が楽になる、と港のみんなが言った。何がどう楽になるのかは誰も知らなかった。


 それでユッタは学園に来た。狙いは、伝説の殿方だ。


 おととい、伝説の殿方の友達になった。卵焼きはまだ食べていない。


 網は半分しか引けていない。


 *


 昼休み、箱の人が中庭を走るのを1年A組の窓から見た。隣ではヴィオラさんがガラスに顔をくっつけて、窓をくもらせていた。


 大変なのは、伝説の殿方が走ってきて2人が並んだときだ。


 ヴィオラさんが「ひゃっ」と言ってガラスにおでこをぶつけた。そのまますうっと床に沈む。窓の顔が全部沈んだ。


 ユッタは沈まなかった。干し魚を食べていたからだ。


 でも口の中の魚の味がしなかった。伝説の殿方が窓の外で笑っていたからだ。


 落ち着け、ユッタ。笑ったのは箱の人に向けてだ。


 *


 放課後は缶けりだった。芝生に座って説明を聞くとき、伝説の殿方が言った。


「約束どおり、隣どうぞ」


 隣。


 殿方の、すぐ隣。


 おととい「明日からは隣に座っていいですよ」と言われて、袋を3回落とした。隣に座るのは、今日が初めてだ。


 座った。


 殿方の肩が手を伸ばせば届くところにある。


 落ち着け、ユッタ。網のど真ん中だ。大物が目の前にいる。こういうときこそ焦るな。


 干し魚を1匹食べた。もう1匹。伝説の殿方がこっちを向いた。


「その魚、いい匂いですね」


 袋ごと口に入れそうになった。


 殿方は、ユッタの魚の匂いをいい匂いと言った。港の匂いを、いい匂いと。


 口の中が魚でいっぱいで、何も言えなかった。決まりの説明は1つも頭に入っていない。


 *


 2回目は伝説の殿方の近くに隠れたかった。近くにいれば狙いやすい。でもいい場所がなくて、植え込みの横の空き箱の陰にしゃがんだ。


 緊張すると何か食べたくなる。初めて沖の網を手伝った日は、小魚を袋1つ空にした。今日はもう半分ない。


 寄りかかると、箱が少しあったかかった。まさかと思って聞いてみた。


「……箱の人?」


 箱が返事をした。箱だ、と言い張った。


 箱がしゃべった。


 落ち着け、ユッタ。網を引くときは焦るな。何が入っていても、まず手を動かせ。


 手が勝手に動いて箱の隙間に小魚を1匹差しこんでいた。


「これ、何の匂い」


「海だよ」


「海は、見たことない」


 港の子は生まれた日から海を見ている。海を見たことがない人がいるなんて、考えたこともなかった。


 だから、もう1匹入れた。


「ノルベルトくんと、ユッタさん、見つけました!」


 伝説の殿方に名前を呼ばれると、足がふわっとなる。友達になってからもまだ慣れない。名前を呼ばれるたびに、網の中で魚が跳ねる。


 *


 最後の1回、ユッタは植え込みに走りながら一度だけ振り返った。


 箱の人が缶の箱のふたを開けていた。


 鬼が数えている足元で、中に入ってふたを閉める。騎士さんが缶の3歩横に立った。


 渡り廊下の見学員は全員それを見ていた。誰も何も言わず、顔にも出さない。淑女の平静というやつだ。ヴィオラさんの顔だけは缶のほうを向いたまま全部出ていた。


 内緒で隠れたつもりなのは、たぶん箱の人だけだ。


 箱の人の友だちの淑女は、この学園に1人もいない。だから缶の中に箱の人がいると、淑女は誰も缶に近づけない。捕まったヴィオラさんとウルリケさんも、缶から3mきっちり離れて立っていた。


 近づけるのは、3mがよく分からない子だけだ。


 ユッタは小魚を1匹かじった。


 網元の母ちゃんがいつも言っている。網に入ったものは、海からの預かりもの。狙った魚じゃなくても、選んで捨てるな。


 まだ網には何も入っていない。でもたぶんそういうことだと思う。


 ユッタは走って缶の箱を思いきり蹴った。


 重かった。


 大物が網にかかったときの重さだ。箱は飛ばずにごろんと横に倒れた。


 中から殿方が転がり出てきて、決め台詞を言う。入学式の壇の上で言ったのと、同じ台詞だ。


 缶の横の全員と、渡り廊下の全員が座りこんだ。


 ユッタは座らなかった。足が痛くて、それどころではない。


 *


「友達になってくれ」


 箱の人がそう言った。


 落ち着け、ユッタ。網を引くときは焦るな。


 殿方のほうから友達になってくれと言われたのは初めてだ。伝説の殿方のときは、ユッタから申請書を出した。60人と一緒に。


 狙っていたのは、伝説の殿方だ。今日、隣に座った殿方だ。魚の匂いをいい匂いと言ってくれた殿方だ。


 最初に網に入ってきたのは、箱の殿方だった。


 落ち着け、ユッタ。網に入ったものは、海からの預かりもの。


 小魚を1匹食べた。落ち着かない。もう1匹食べた。袋の中を見て、もう1匹。


 3匹でちょっと落ち着いた。


「いいよ」


 *


 次の日、部室で名前を呼ばれた。壁の紙の缶けりの行には、もう丸がついていた。


「ユッタ」


 名前を呼ばれて殿方の友達になるのは、2回目だ。1回目は伝説の殿方で、2回目は箱の殿方だった。


 ユッタの友達手帳には、星の印の隣に四角い印が並んでいる。四角は少し曲がっていた。


 箱の人が言った。


「海を、見てみたい」


「港に来ればいいさ。ユッタの家の網、見せてあげるよ」


 箱の人の目が丸くなった。殿方が港に来られるのかどうか、ユッタは知らない。言ってから気がついた。


 でも箱の人は「うん」と言った。


 *


 夜、寮の部屋で袋を逆さにしてみる。


 港から持ってきた小魚は、残り3匹になっていた。


 2匹は箱の隙間に入れた。残りはたぶん全部、緊張して食べた。伝説の殿方の隣で食べた分がいちばん多い。


 箱の人のせいだ。


 ……ノルベルトのせいだ。


 言い直した。友達の名前はちゃんと呼ぶものらしいから。


 伝説の殿方のせいでもある。こっちはまだ言い直さない。


 卵焼きの網は、まだ引いている途中だ。


 今日は思ってもいなかったほうの網が、少しだけ重い。

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