第55話 リツ先輩
【リツ視点】
入学して237日目の休日。遊戯部の新入部員歓迎会は中庭でやることになった。
部室の旧物置に、部員9人と顧問の学園長とイルゼさんは入りきらない。それに新入部員の4人はまだ僕の友達じゃない。部室の外では3mの決まりが残る。
「輪の半径は3mでよろしいですわね」
コルネリアさんが生徒会から借りてきた巻き尺を伸ばした。
「異議がございます」
1年B組のハンネローレさんが手を挙げた。分厚い規則集を胸に抱えている。
「通達第1項は『3m以内』と定めております。3mちょうどの位置は違反と解します」
輪の半径は3mと靴1足ぶんになった。ハンネローレさんが自分の靴で測ってくれたのだ。
椅子は11脚。1年生の4人は、僕とノルベルトくんの隣には座れない。隣は3m以内だからだ。僕の両隣にはイルゼさんとノルベルトくんが座り、ノルベルトくんの向こう隣には護衛のエルナさんが座った。
中庭を囲む渡り廊下には、見学員の54人が並んで座っている。
隅の小さな机では、婚姻院のクラリッサさんが判子を並べていた。友達の申請を受理してくれる係の人だ。今日は新入部員が友達になるかもしれないので、休日なのに来てくれた。
*
始める前に僕にはどうしても言いたいことがあった。
前世の病室で、部活の漫画をたくさん読んだ。後輩が部室の扉を開けて「先輩、ちーっす!」と言う。先輩は「おう」とだけ返す。それだけの場面を僕は何回も読み返した。
学校に行けなかったので、僕には先輩も後輩もいなかった。
今は、後輩がいる。
「あの、1年生のみなさんにお願いがあります」
4人がいっせいに背筋を伸ばした。
僕は落ちていた枝を拾って、地面の砂に字を書いた。
『先輩』
「僕のこと、先輩って呼んでください」
中庭が静まり返った。
ヴィオラさんの顔が真っ赤になって、真っ青になって、また赤くなった。ウルリケさんは口を開けたまま止まる。ユッタさんは袋から干した小魚を出して3匹続けて食べた。
渡り廊下では、見学員の何人かが手すりにしがみついていた。
ハンネローレさんが規則集をめくった。めくって、めくって、めくってから白い付箋を1枚貼る。
「殿方が淑女を『先輩』とお呼びになった前例はございます。生徒会長殿の件は、学園で知らぬ者はおりません」
「はい」
「淑女が殿方を愛称でお呼びした前例は、ございません」
白い付箋がもう1枚増えた。
もともと、この国に「先輩」という呼び方はなかった。僕がエレオノーラ先輩をそう呼んだのが始まりで、学園では愛称のように思われているらしい。
たぶんみんな、殿方を先輩と呼ぶのにまだ慣れていないのだと思う。
隣でノルベルトくんが首をかしげた。
「リツ殿。ぼくも、せんぱいって呼ぶのか」
「ノルベルトくんは……呼びたかったら、どうぞ」
「考えておく」
コルネリアさんが帳面を開いてため息をついた。
「わたくしたちは同じ学年ですから、呼べませんのね」
帳面にインクの染みが1つできた。
1年生は誰も口を開かなかった。「ちーっす」どころではなかった。
「……じゃあ、遊びながら慣れましょう」
*
何でもバスケット。
鬼が真ん中に立って「〇〇な人!」と言う。当てはまる人は立って別の椅子に移る。鬼も急いで座る。座れなかった人が次の鬼だ。
「最初の鬼は、部長の僕がやります。号外を持ってる人!」
全員が立った。
「第1号! 『殿方、入学初日に「友の契り」を公募』! 第3号! 『殿方いわく「赤は3倍速い」』!」
ウルリケさんが立ちながら暗唱を始めた。王都で号外の写しを売る店の子なので、号外と聞くと止まらない。
「さあさあ、第5号は——」
その間にみんなが椅子に飛びこんでいく。僕も空いた椅子に座った。最後に残ったのは、第8号まで暗唱したウルリケさんだった。
小魚をくわえたまま座ったユッタさんに聞いてみた。
「号外、持ってたんですか」
「持ってないよ。みんな立ったからさ」
*
「殿方の友の人!」
2回目の鬼のウルリケさんが叫んだ。
コルネリアさんとリゼットさんとロジーナさんが立つ。イルゼさんも、学園長も、ノルベルトくんも立った。
僕も立った。
「伝説の殿方も!?」
「僕もノルベルトくんの友達なので」
座ったまま残ったのは、1年生の3人だった。ヴィオラさんと、ハンネローレさんと、ユッタさん。まだ誰の友達でもない3人だ。膝の上で手をぎゅっと握って、立っている僕たちを見上げている。
友の人たちが先に座ってしまうと、空いた椅子は僕の隣とノルベルトくんの隣だけになった。ウルリケさんは友達じゃないので、殿方の隣には座れない。空いた椅子の前で3回足を止めて、結局どこにも座れなかった。
「あたし、また鬼!」
ウルリケさんは少しやけになって叫んだ。
「何でもバスケット!」
全員が立った。
ノルベルトくんは空いた椅子を素通りして植え込みの陰へ走っていく。戻ってきたときには、木箱をかぶっていた。椅子はもう全部埋まっている。
「ノルベルトくん、鬼です」
「ちがうよ。箱だよ」
箱は少し考えてから言った。
「箱が好きな人!」
誰も立たなかった。
エルナさんの膝が一瞬だけ動いて、止まった。
「……ぼくだけか」
箱は少しさびしそうだった。それからもう一度言った。
「なんでもばすけっと」
*
全員が立って、全員が動いた。
ヴィオラさんだけが遅れた。空いた椅子の前で迷っていて、迷っているのがそのまま顔に出ている。
鬼はヴィオラさんになった。
ヴィオラさんは輪の真ん中に立った。両手を胸の前で握ってすうっと息を吸う。
「お、お義兄……」
言いかけて、止まった。
地面の砂の上には、まだ僕の書いた2文字が残っている。ヴィオラさんの目がそこへ行った。
「リ、リツ先輩のことが好きな人っ!」
椅子が全部、空いた。
コルネリアさんが立つ。リゼットさんが立つ。ロジーナさんは立ちながら鉛筆を折った。ウルリケさんも、ユッタさんも、ノルベルトくんも、エルナさんも。ハンネローレさんも立っている。
渡り廊下の54人も、1人残らず立っていた。
机のところのクラリッサさんまで立っている。
「念のためです」
クラリッサさんは眼鏡を押さえて言った。
僕の右隣で、イルゼさんの腰が椅子から5cmだけ浮いて元に戻った。
「イルゼさん、今」
「護衛官は、数えません」
輪の反対側では学園長が座っていた。
「学園長は」
「座っております」
座っているのは、僕とイルゼさんと学園長の3人だけだった。
好きな人は立つ。つまりここにいるほとんど全員が、僕のことを好きだと言ったことになる。
みんな優しい。たぶん初めて鬼になったヴィオラさんが困らないように、全員で立ってあげたのだと思う。
僕は座ったまま、動けなかった。
先輩、と呼ばれた。
頭の中で前世のゲームの通知の音が鳴る。画面の右上に四角い枠が出て、こう書いてある。実績解除、「先輩と呼ばれる」。
解除までに、ずいぶんかかった。
視界がにじんだ。
「……これは、目から汗が出ているだけです」
言ってから、しまったと思った。
中庭の全員がぴたりと止まった。
殿方の心得第12条。殿方の汗は、妻となる者だけが拭う。
気がつくと、ほとんど全員がハンカチを取り出していた。コルネリアさんも、リゼットさんも、渡り廊下の54人も。ハンカチを持った手が空中でそろって止まる。誰も一歩も動けない。拭いたら、妻になると名乗り出たことになるからだ。
ロジーナさんは折れた鉛筆を握ったまま両手で顔を覆った。ハンネローレさんは規則集をすごい速さでめくっている。目からの汗について書いた条文は、たぶんない。
僕は胸のポケットからハンカチを出して自分で拭いた。自分の汗は自分で拭く。ずっとそうしている。
中庭じゅうのハンカチがゆっくりポケットに戻っていった。何人かは戻しながら座りこんだ。
「すみません。前世から通算して、初めてなので」
「伝説の殿方が、泣いたあっ!」
ウルリケさんが叫んだ。
「第16号! ……の、次! まだ出てない号!」
「号外は、新聞部が出します」
リゼットさんがすかさず言った。帳面の字はもうページの半分くらいの大きさになっている。
ヴィオラさんは真ん中で固まっていた。エレオノーラ先輩の真似をしようとしているのが分かる。分かるけど、顔はまだ全部出ている。左手がぎゅっと閉じていた。
「い、今のは鬼でしたので! 鬼の台詞ですので、お義兄さまっ!」
「はい。ありがとうございます、鬼の人」
前世の漫画で、修学旅行の夜に好きな人の名前を言い合う場面があった。布団の中でこっそり言うやつだ。
この国では、中庭で、総立ちでやるらしい。
*
夕方、輪を片づける前に学園長が封筒を3つ出した。
「本日の分です」
学園長室に積んである申請書の山から抜いてきてくれたのだ。ヴィオラさん、ウルリケさん、ユッタさん。3人の名前が書いてある。
顔と名前と、思い出1つ。それがそろったら名前を呼ぶと、入学式の日に約束した。
今日の思い出は、何でもバスケットだ。
クラリッサさんが机の前で判子を構えた。
僕は申請書を受け取って、ヴィオラさんの友達手帳を開いた。
「ヴィオラさん」
星の印を押した。158人目。ヴィオラさんは左手を閉じたまま、右手で手帳を受け取った。
「ウルリケさん」
「さあさあ、殿方の友、第159号っ! ……あ、号外じゃなかった」
数は合っていた。
「ユッタさん」
ユッタさんは干し魚を1匹噛み終えてから言った。
「ユッタ、ちゃんと覚えたよ。殿方の椅子の隣は、座っちゃだめなんだね」
「友達になったので、明日からは隣に座っていいですよ」
ユッタさんの手から干し魚の袋が落ちた。
拾おうとして、また落とす。3回目でやっと拾えた。渡り廊下の54人が、うらやましそうに長いため息をついた。
クラリッサさんが受理の判を3つ押す。3つとも、まっすぐだった。
160人。
友達帳の最後のページに3人の名前を書き足した。
ハンネローレさんは申請書を出さなかった。
「規則が決まるまで、出しません」
規則集を胸に抱えて、ハンネローレさんはまっすぐ前を見ていた。額に白い付箋が1枚ついている。
「じゃあ、待ってます。ハンネ……」
呼びかけて口を押さえた。名前を呼ぶのは、友達になるときに取っておくと決めている。
「ハンネローレです」
呼び終わっていないのに、訂正された。
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【ハンネローレ視点】
男性保護局長ヒルデガルトの姪、ハンネローレ。15歳。セレスタ学園1年B組。
本日、私は立った。
立ってはならないという定めは、どこにもなかった。
*
入学の前夜、伯母上は私の机に書類を置いた。角がきっちりそろっていた。伯母上の書類はいつもそうである。
「野良の殿方は、危険です」
伯母上は書類の角を指でもう一度そろえた。
「学園に入り、監察なさい。殿方が何をなさるのか。淑女が何をしてしまうのか。すべて書き留めること」
半年ほど前、伯母上は殿方館への収容を進言する書状を陛下に上げている。その書状がどうなったのか、伯母上は何もおっしゃらなかった。
私は規則集を3冊と、付箋を5色、日誌を1冊持って入学した。条文が見つかれば色の付箋を貼る。見つからなければ白を貼る。
入学7日目にして白い付箋の残りが心もとない。
*
監察日誌 第7日(入学237日目・休日)
1.遊戯部新入部員歓迎会に同席。場所、中庭。輪の半径、3mと靴1足。当職の靴にて計測。
2.殿方、地面に字を書き、「先輩と呼べ」との旨を述べる。
3.なんでもばすけっと。殿方、自ら鬼を務める。
4.殿方、「目から汗」と述べる。殿方の心得第12条の適用の可否、不明。
5.ヴィオラ殿、ウルリケ殿、ユッタ殿、殿方の友となる。
白い付箋:本日11枚。
*
日誌には書いたことしか書いていない。書いていないことのほうが多い。
たとえば、地面の字である。
殿方が枝で砂に書いた2文字を、私は輪がほどけるまで見ていた。
先輩。
殿方は後輩にそう呼ばれるのが夢だったとおっしゃった。
夢、である。伯母上の書類には、危険な殿方の夢という項目はなかった。
あの方が私たちに呼んでほしいとおっしゃった。私たち、の中には私も入っている。
落ち着きなさい、ハンネローレ。監察者は呼ばない。呼ぶ前に規則を確かめる。
確かめた。どこにもなかった。呼んでよいとも、呼んではならないとも。
白い付箋を貼った。
*
「ハンネさん、付箋が曲がってるよ」
輪の中でユッタ殿に言われた。小魚をくわえたままである。
「ハンネローレです」
「ハンネさんも、座れなかった?」
今度はウルリケ殿である。
「ハンネローレです」
訂正は本日4回目と5回目であった。なぜ縮めるのか。私の名は、母が届け出た正式な名である。
縮めて呼んでよいという定めも、ない。
……縮めてはならないという定めも、ない。
落ち着きなさい。名の話は、今はよい。
*
問題は、立ったことである。
ヴィオラ殿が真ん中で叫んだとき、私の膝はもう伸びていた。
気づいたのは、立ち上がったあとである。
中庭を見回した。全員が立っている。渡り廊下の54名も、婚姻院の受付係殿も。座っているのは殿方と、護衛官殿と、学園長の3名だけだった。
護衛官殿は一度だけ5cm浮いた。私は見ていた。監察である。
私はというと、立っていた。
落ち着きなさい、ハンネローレ。あなたは監察者です。危険な殿方を監察しに来た者です。監察者が、監察の対象を好きであってよいのか。
好き。
今、私は好きと言ったのか。言っていない。心の中で考えただけである。考えただけなら、日誌に書かなくてよい。
……書かなくてよい、という定めはあるのか。
規則集をめくった。男性保護法。婚姻法。殿方の心得。学則。通達。
『殿方を好きな淑女は、立ってはならない』
そんな条文は、どこにもなかった。
どこにもないから、私は立った。
……とは、日誌には書けない。
*
それから、殿方が泣いておられた。
古い恋歌にある。「殿方の涙は、千の淑女を立たせる」。寝る前に読む歌である。読んだときはずいぶん大げさな歌だと思った。
大げさではなかった。60名ほど立っていた。
そこへ、殿方の「目から汗」である。
殿方の汗は、妻となる者だけが拭う。
気がつくと、私の手はハンカチを握っていた。ポケットから半分出ている。
落ち着きなさい、ハンネローレ。そのハンカチをどうするつもりですか。3mと靴1足の向こうから投げるつもりですか。妻となる者として、投げるつもりですか。
投げなかった。殿方がご自分で拭かれたからだ。
ハンカチをポケットに戻すのに、3回かかった。
殿方を好きな者が立つ遊びで、当の殿方は座っておられた。たぶん殿方の数え方では、ご自身は数に入らないのである。
白い付箋を、もう1枚。
*
夕方、3名が殿方の友になった。
私の申請書は、規則集の最後のページに挟んである。入学の日に書いた。理由の欄は空いている。
友となった後輩が「先輩」と呼ぶことは、許されるのか。許されないなら、私は友になっても「リツ殿」とお呼びするしかない。それでは、ヴィオラ殿が中庭で呼んだあの呼び名を、私は一度も口にできない。
だから、規則が決まるまで出さない。
そう申し上げたら、殿方は「待ってます」とおっしゃった。そして私の名を呼びかけてやめた。
名を呼ぶのは友となるときだと、殿方は決めておられる。ご自分で決めたことを、殿方はちゃんと分かっておられる。
分かっておられるのに、呼びかけた。
私の名を。
落ち着きなさい、ハンネローレ。呼びかけただけである。呼び終わってはいない。第3条の2第3項は成っていない。
成っていないのに、なぜ胸がこんなにうるさいのか。
「ハンネローレです」
訂正が間に合ってしまった。間に合わなければよかったと、少しだけ思った。
これも、日誌には書けない。
*
夜。寮の部屋で覚え書きを起草した。
先輩呼称に関する覚え書き(案)
宛先:生徒会長 エレオノーラ殿
起草者:1年B組 ハンネローレ
1.「先輩」は、殿方が故郷より持ちこまれた呼び名である。
2.殿方が淑女に用いた前例はある。淑女が殿方に用いた前例はない。
3.本日、1年A組ヴィオラ殿が殿方に用いた。(※鬼の台詞として)
4.殿方は落涙された。拒否の意思表示とは解されない。
5.よって、後輩が殿方を「先輩」と呼ぶことの可否について、生徒会の判断を仰ぎたい。
備考:起草者は、判断が出るまでこの呼称を用いない。
書き終えて、角をそろえた。伯母上の癖が、私にもある。
顔を洗おうとして鏡を見た。
額に白い付箋が1枚ついていた。
いつ貼ったのかは分からない。分かるのは、殿方に「待ってます」と言われたときにも、これがついていたということだけである。
剥がそうとして、やめた。
該当条文なし。
つまり、私のことである。




