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前世で友達0人だった僕、男女比1:100の異世界で友達を作ろうとしたら婚約者が100人を超えていた ~淑女たちはクール(※内心は絶叫)~  作者: 中原九尾
第二部 フレンド212人の向こうへ

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第53話 伝説の殿方

【リツ視点】


 入学して231日目の朝。僕は2年生になった。


 教室は1つ上の階に変わった。扉の札も「2年A組」だ。でも中の顔ぶれは同じで、担任もハイデマリー先生のまま。席も窓際の後ろから2番目のままだった。


 座ると真後ろから小さな声がした。


「……殿方。寝癖が、右に」


「ありがとうございます、ズザンネさん」


 学年は上がっても、寝癖は進級しないらしい。


 *


 今日は始業式と入学式がある。


 前世の僕は入学式に出たことがない。制服を着て、病室で写真を撮っただけだ。


 去年の僕の入学式は学園長室だった。学園長に「ようこそ」と言われ、黒い制服を渡されて襟のボタンを一番上まで留める。参列者はイルゼさん1人。あとで聞いたら、あれは殿方1人のための特別な入学式だったそうだ。


 だから講堂の入学式は今日が初めてになる。迎える側として、だけど。


 *


 講堂の入り口でリゼットさんが号外を配っていた。


「新入生向けです。殿方の歩み、第1号から第15号まで」


  セレスタ学園新聞 号外 第16号

  見出し:新入生の皆さまへ 殿方の歩み

  第1号 殿方、入学初日に「友の契り」を公募

  第2号 特集 殿方の遊戯「まーじゃん」のすべて

  第3号 殿方いわく「赤は3倍速い」

  第4号 殿方同士、友の契り

  第5号 殿方いわく「天井まで回せば、必ず来る」

  第6号 殿方、部活を創設 その名も「遊戯部」

  第7号 殿方、給仕す その名も『執事喫茶』

  第8号 殿方、歴代女王を札にする その名も『女王の札』

  第9号 本戦開幕 殿方館より殿方3名、王都の地を踏む

  第10号 殿方いわく「背中が煤けてるぜ」

  第11号 学園長、「倍、ぷっしゅ」と発せられる

  第12号 決勝の4名、決まる

  第13号 決勝の卓は、遊戯部の机

  第14号【訂正】殿方、婚約を解消せず 故郷へも帰らず こうのとりにも乗らず

  第15号【速報】護衛官、御無礼

  以上15号。本紙は、事実のみを記す。


 ほとんど僕が何か言ったときの記事だ。


「第1号の『友の契り』、そのままなんですね」


「号外は出した日のまま並べます。……第1号の見出しは、わたしの一生の宿題です」


 リゼットさんの帳面の字が、少しだけ大きくなった。


 *


 新入生は60人。それにノルベルトくんが1人。


 講堂の前半分が新入生の席で、僕の席は2年生の列のいちばん前にある。新入生の最後の列は僕の手前でぐにゃりと曲がっていた。ちょうど3mの半円だ。通達第1項のただし書きは友にしか効かない。新入生はまだ誰も僕の友じゃない。


 号外を読み終えた新入生が1人ずつ振り返る。僕を見て、すぐに前を向く。60人分の頭が順番に回って、波みたいになった。


 ひそひそ声が聞こえる。


「……あれが、伝説の」


「雪で騎士団を全滅させたという」


「女王陛下に革命を起こされたという」


 雪合戦の相手は東部警備隊だし、革命は大富豪の技だ。どちらも号外にはなっていない。


 新入生は、たしかに僕を見ている。でも僕を見ている感じがしなかった。号外に書かれたどこかのすごい殿方を探しているみたいだった。


 *


「新入生代表。ノルベルト殿」


 ノルベルトくんは今日から1年A組で、寮の部屋は僕の隣だ。3歩後ろには護衛の騎士の人がついている。


 ノルベルトくんは壇の真ん中に立って講堂をぐるりと見た。


「ノルベルト。殿方館から来た」


 少し間があった。


「……待たせたな」


 新入生の半分がその場に座りこんだ。


 完璧だった。箱をかぶっていないのに、箱から出てきた人の言い方だった。


 *


 在校生代表はエレオノーラ先輩だ。


 前世のアニメの生徒会長は、全校生徒の前で「この学園の秩序は私が守る」みたいなことを言う。後ろの窓から風が吹いて、髪がなびくのだ。


「生徒会長、エレオノーラです。本学園では淑女の平静を第一とします。殿方の半径3m以内に、許可なく近づかないこと」


 先輩はそこで一度だけ息を吸った。


「ただし、殿方の友は、この限りではありません」


 講堂の高い窓が、かたんと開いた。


 春の風が入ってきて先輩の長い銀色の髪をふわりと持ち上げる。


 風まで吹いた。本物だ。


 僕は拍手しかけてやめた。在校生の殿方が拍手をしたら、新入生の残りの半分も座りこむ気がした。


 *


「リツ殿。在校生の殿方として、一言」


 学園長に呼ばれた。聞いていなかった。


 練習は1秒もしていない。だから本当のことだけ言うことにした。


「2年A組の日野律です。律儀の律です。僕もまだ、友達を作っている途中です。この学園で、友達を作りたいです」


 講堂がしんとした。


 去年の教室と同じ静けさだった。


 いちばん前の列の子の手から号外が落ちた。隣の子は胸に手を当てたまま動かない。


 1年B組のあたりから、小さな声がした。


「……第1号だ」


 別の声が続く。


「第2回の公募……!」


 60人の背中がほとんど同時にまっすぐになった。2歩後ろで、イルゼさんの手袋の革がきゅっと鳴る。


 みんな、友達を作るのに緊張しているのだと思う。去年の僕もそうだった。


 *


 入学式のあとは、生徒会主催の新入生歓迎会だ。


 春休みのうちにエレオノーラ先輩から「新入生が殿方に慣れる遊びを」と頼まれていた。僕の案は自己紹介ビンゴだった。


  自己紹介ビンゴ(生徒会主催 新入生歓迎会)

  遊び方:当てはまる人に名前を聞いて、マスに書く。同じ人は1回まで。1列そろったら「ビンゴ」と言って立つ。

  1.殿方と話したことがある

  2.号外を全部持っている

  3.殿方の名前を呼んだことがある

  4.王都の生まれ

  5.真ん中(自分の名前)

  6.まーじゃんを打てる

  7.海を見たことがある

  8.今朝、寝癖があった

  9.友達を作りたい


 8番と9番は僕が足した。


 最初の挨拶も僕の係だった。前世のテレビで見た遊園地は、入り口でこう言っていた。


「ようこそ、夢の……えっと、遊戯の学園へ!」


「夢……」


「夢の学園……」


 いちばん前の列で、分厚い本を抱えた子がすっと手を挙げた。本の端から色とりどりの付箋がはみ出している。


「本学園の正式名称は王立セレスタ学園と解します。夢の字は、学則のどこにもございません」


「言ってみたかっただけです」


「承知しました。殿方、言ってみたかっただけ、と」


 その子は『監察日誌』と書かれた帳面に何か書きこんだ。


「1年B組、ハンネローレと申します。伯母の命により、殿方を監察いたします。お見知りおきを、リツ殿」


 監察される側が、お見知りおきを頼まれた。


 *


 ビンゴが始まると新入生は2年生と3年生に群がった。1番と3番は、僕の友なら誰でも当てはまるからだ。


 途中でエレオノーラ先輩が様子を見に来た。生徒会の腕章をつけて、ヘルガさんが2歩後ろについている。


 そこへ新入生の中から1人が駆け寄ってきた。


 先輩と同じ、長い銀色の髪の子だった。顔立ちも先輩にそっくりだ。


「お姉さま!」


 先輩の妹さんだ。


 顔はそっくりなのに、表情は正反対だった。先輩は何があっても顔に出さない。妹さんは、全部出る。


「妹のヴィオラです。1年A組に入りました」


 エレオノーラ先輩がまっすぐ前を見たまま紹介してくれた。


 ヴィオラさんが僕を見た。赤くなって、青くなって、うれしそうになって、また赤くなる。3秒で4色だった。


「はじめまして。先輩には、去年からずっと仲良くしてもらってます」


 僕がそう言うと、ヴィオラさんの顔が耳まで真っ赤になった。


「お……お……」


 口が「お」の形のまま止まっている。目がきらきらして、今にも泣きそうだった。


 隣で、エレオノーラ先輩の右手がぎゅっと閉じた。


「先輩、手、つりました?」


「……つって、おりません」


「でも」


「……つって、おりません」


 ヘルガさんが何も言わずに先輩の指を1本ずつ開いた。


「ヴィオラ。平静を」


 ヴィオラさんは口を閉じて、姉の真似をして固まった。顔はまだ全部出ていた。


 「お」の続きは聞けなかった。


 仲良くしてもらっている、と言っただけなのに。ヴィオラさんは、お姉さんのことが大好きなのだと思う。


 *


 3mの線をまっすぐ越えてくる子もいた。


 日焼けした子だ。小さな袋から干した小魚をつまんで、ぽりぽり食べながら歩いてくる。3m。2m。1m。


 講堂じゅうが止まった。


「殿方。卵焼き、焼いてくれる? ユッタ、それを食べに来たんだよ」


「通達第1項に照らし、3m以内は不可と解します!」


 ハンネローレさんが本を開いて叫んだ。


「港には殿方がいなかったからさ。3mって、どのくらい?」


「……このくらいで、ございます」


 イルゼさんが前に出た。ユッタさんを押し戻すのかと思ったら、自分が3m先まで歩いていって、ぴたりと止まる。見本だった。それから2歩後ろに戻ってきた。


「ふうん」


 ユッタさんは小魚をもう1匹食べて、イルゼさんが止まったところまで下がった。


 卵焼きのことは、あとでちゃんと説明しないといけない。第3条は今も生きている。


 *


 9番のマスでは困ったことが起きた。


 新入生は全員、9番に僕の名前を書いていた。号外で知っているから、誰も聞いていない。


「あの、名前は聞いてから書くんです」


 60人がいっせいに顔を上げた。3mの外から声をそろえる。


「お名前を伺っても、よろしいでしょうか」


「日野律です。律儀の律です」


 60人が、もう書いてある名前をもう一度なぞった。


 *


 あと1つでそろうときの説明を、僕は忘れていた。


「あと1つのときは『リーチ』って言うんです」


 言ってから気がついた。まーじゃんのリーチは、この国の淑女が声に出さない言葉だ。みんな黙って点棒を置く。


 1人が黙って立ち上がった。


 続けてもう1人。また1人。誰も何も言わない。椅子を引く音だけが、こつ、こつと鳴る。


 10分後、新入生は60人全員が立っていた。


 誰も「ビンゴ」と言っていない。だから、ビンゴが終わらない。


「りーちと同じ類の宣言ですもの。淑女は黙って立つのですわ」


 コルネリアさんが帳面を閉じた。


「ビンゴは言っていいんです! 言うと楽しいんです!」


 60人は立ったまま、まっすぐ前を見ている。僕は全員の代わりに言った。


「……ビンゴ!」


 60人が、そろって座りこんだ。


 壇の脇の木箱が、小さく言った。


「……びんご」


 ノルベルトくんはいつの間にか箱に入っていた。箱の3歩後ろには、護衛の騎士のエルナさんが立っている。イルゼさんがいなかった日に、僕の3歩後ろにいてくれた人だ。


 *


 歓迎会の終わりに、申請書が来た。


 友の申請書だ。新入生が3mの線の外に1人ずつ並ぶ。


 列の横ではコルネリアさんが売り台を出していた。


「友達手帳の第2版ですわ。お1人様1冊限り」


 紺色の表紙に、ロジーナさんの開いた窓の絵。裏返すと金の字が入っていた。


『200人書いても、大丈夫』


 僕は列の先頭の子を見た。顔は分かる。ビンゴのあいだに聞こえてきた自己紹介で、名前もだいたい覚えた。


 でも、それだけだった。


 名前を呼ぶと、友になる。第3条の2の第3項だ。


 だから、ちゃんと呼びたい。


「あの、聞いてください。顔と名前と、思い出1つ。それがそろったら、名前を呼ばせてください。今日は顔と名前までです。思い出は、これから一緒に作ります」


 60人は黙ってうなずいた。


 前の列の何人かが、両手で申請書を胸に押し当てた。1人は申請書で顔を隠したまま、耳まで赤くなっていた。


 申請書の束は学園長が預かることになった。


「保留ですね」


「保留です」


 学園長は胸のポケットの小さな印を指でとんとん叩いた。その夕方、学園長室の机の上に保留の申請書の山ができた。


 *


 講堂を出ると、中庭の古い木の下で新入生が3mずつ間をあけて輪になっていた。


「王都の号外の写しによれば、この木の下で殿方に名を呼ばれた淑女は、生涯の友になると。真偽は監察中と解します」


 ハンネローレさんが輪の外から教えてくれた。


 前世のゲームで聞いたことがある。卒業式の日に伝説の木の下で告白すると、永遠に結ばれるやつだ。


「そんな伝説、ないです!」


 輪は解けなかった。僕は木の下を通らないように、中庭をぐるっと遠回りした。


 *


 正門の前を通ったときだった。


「りつどの、せんぱいに、なったんでしょ! おかあさんが、いってた!」


 柵の向こうで、整理券1番の子が手を振っていた。


 前世の僕には後輩がいなかった。先輩と呼ばれるのは、ずっと夢のままだ。


 今のは、呼ばれたわけじゃない。なったと教えてもらっただけだ。それでも、ちょっとだけ近かった。


「なりました!」


 手を振り返すと、お母さんが静かに倒れた。いつもどおりだ。


――――――――――――――――――

【ウルリケ視点】


 1年B組、ウルリケ。15歳。王都の西の辻で、号外の写しを売る店の娘。


 本日、あたしは伝説に会った。


 寝癖がついていた。


 *


 うちの店には、紙しかない。


 学園の号外は学園の中で配られて、外にはほとんど出てこない。だから王都の淑女は写しを買う。1枚、銅貨2枚。


 最初に写しを並べたのはばあちゃんだ。そのうち写し屋が増えた。写しの写しが出回って、写しの写しの写しがうちの棚に来る。写すたびに見出しは少しずつ長くなった。


 あたしはその紙の山で字を覚えた。暗唱できる号外は写しも入れて30種類。さあさあ、どの号でもお好きなのをどうぞ、ってなもんだ。


 ばあちゃんは一度だけ、伝説の殿方を見ている。露店の前を通ったそうだ。


「殿方のことを書いた紙を、殿方の前に並べて売るわけにはいかないよ」


 ばあちゃんはそう言って、紙を全部裏返したらしい。


 *


 講堂の入り口でリゼット様から号外をもらった。


 第16号。本家の号外だ。手に取るのは生まれて初めてだった。


 読んで、首をかしげた。


 第3号が『殿方いわく「赤は3倍速い」』。短い。うちの棚の第3号は『殿方、赤い馬車より3倍速く走る』だ。


 第7号の2『殿方、女王陛下に革命を起こす』もない。第14号の2『殿方、雪で騎士団を全滅させる』も載っていない。


 本家は、ずいぶん謙虚なんだね。


 *


 入学式で、箱の殿方が壇に上がった。


「……待たせたな」


 隣の子が座りこんだ。あたしも膝が抜けかけた。


 第10号!『殿方いわく「背中が煤けてるぜ」』!


 頭の中で見出しが勝手に立ち上がる。店の癖だ。席に戻る箱の殿方の背中を、よく見た。煤はついていなかった。


 それから、伝説の殿方が壇に上がった。


 落ち着け、ウルリケ。店先に客が10人並んでも、あんたは釣り銭を間違えたことがない。


 伝説の殿方は、思っていたより小さかった。


 騎士団を全滅させた肩には見えない。女王陛下に革命を起こした顔にも見えない。髪の右の後ろが、少しはねている。


 寝癖だ。


 30種類の見出しを頭の中で全部めくった。寝癖の見出しは1枚もない。


 落ち着け、ウルリケ。寝癖の伝説なんて売り物にならない。……なのに、なんで胸のほうがどきどきしてるんだい。


「この学園で、友達を作りたいです」


 第1号!『殿方、入学初日に「友の契り」を公募』!


「……第1号だ」


 声に出ていた。


 呼び売りの声は、講堂の天井によく響く。あたしは両手で口を押さえた。後ろの子が「第2回の公募……!」と続けてくれたので、どうにかまぎれた。


 伝説の殿方が、こっちを見た。


 あたしを、見ている。


 1秒。2秒。


 顔が熱い。耳が熱い。殿方の目は、思っていたよりずっとやわらかかった。友達を作りたい、と言ったばかりの目だ。その目が、あたしに向いている。


 3秒になる前に、下を向いた。通達第2項だ。


 向かなきゃよかった。


 *


 8番の『今朝、寝癖があった』は本物を見た。でも名前を聞くには3mの内側に入らないといけない。干した小魚の港の子は入っていった。あたしは入れなかった。


 伝説の殿方が「りーち」と言ったのは、そのあとだ。


 淑女が声に出してはいけない言葉である。


 あたしは3列そろった。立った。


 言いたかった。喉のすぐ下まで来ている。店先で「号外、号外!」と叫ぶのと同じ場所から出てくる声だ。


 さあさあ、ビンゴだよ。1年B組のウルリケ、3列そろったよ。


 でも隣の子が黙って立っていた。その隣も。60人が黙って立っていた。


 あたしは頭の中でビンゴと30回言った。


 伝説の殿方が全員の代わりに「ビンゴ!」と言ってくれたとき、膝から座りこんだ。


 あたしの言いたかった言葉を、殿方が言ってくれた。60人のためだ。分かっている。分かっているのに、あたしのためみたいに聞こえた。


 落ち着け、ウルリケ。あんたは60分の1だ。……60分の1でも、言ってもらえたんだ。


 *


 申請書の列には、あたしも並んだ。


 うちには白い紙がないので写しの裏に書いてきた。第5号の写しだ。表の見出しは『殿方いわく「天井まで回せば、空から金貨が降る」』。本家の第5号は『必ず来る』で終わっていた。


「顔と名前と、思い出1つ。それがそろったら、名前を呼ばせてください」


 名前を、呼ばせてください。


 殿方のほうが、そう言った。


 あの声で、あたしの名前。ウルリケ、って。


 想像しただけで申請書を握る手に汗が出た。写しの裏の字がにじむ。落ち着け、ウルリケ。店の看板娘が、名前ひとつで紙をだめにしてどうする。


 同じ組のハンネローレが手を挙げた。


「思い出の定義は」


「あとで思い出して、一緒に笑えることです」


 ハンネローレは監察日誌に書きこんで、白い付箋を1枚貼った。学則に、思い出の条はないらしい。


 あたしは自分の申請書を見下ろした。


 顔。たぶん覚えられていない。3秒になる前に下を向いた。


 名前。名乗っていない。60人の声にまぎれて、殿方の名前を聞いただけだ。


 思い出。0個。


 30種類の見出しは全部言える。そのうち何種類が本当なのかは、今日分からなくなった。伝説の殿方との思い出は、本家にも写しにも1つもない。


 *


 中庭の木の下の輪も、出どころはうちの棚だった。第6号の2『殿方、中庭の木の下で名を呼ぶ 呼ばれた淑女は生涯の友に』。いちばんの売れ筋だ。


「そんな伝説、ないです!」


 伝説の本人が言うのだから、たぶん本当にないんだろう。あたしは売れ筋の1枚を、頭の中の棚から下ろした。


 正門の前で「なりました!」と手を振る殿方も、どの号外にも載っていない。


 あの笑った顔を、あたしは見た。どの写しにもない顔だった。


 *


 その夜、寮の部屋で白い紙を1枚出した。入学のために1枚だけ買った、まだ何も写していない紙だ。


 見出しだけ書いた。


『殿方、寝癖は右』


 今朝まで30種類。第16号で31種類。これが32種類目になる。


 誰の写しでもない。あたしが自分の目で見た、最初の見出しだ。


 尾ひれは、つけなかった。


 つけたい尾ひれなら、1つだけある。『殿方、ウルリケの名を呼ぶ』。


 それは、まだ書かない。本当になってから書く。

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