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前世で友達0人だった僕、男女比1:100の異世界で友達を作ろうとしたら婚約者が100人を超えていた ~淑女たちはクール(※内心は絶叫)~  作者: 中原九尾
第一部 「友達になってください」は求婚でした

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第49話 春の庭

【リツ視点】


 入学して195日目の休日。殿方館の門は、朝から開いていた。


 3つの門を抜けると、庭の木に白い花が咲いていた。噴水の水がきらきらしている。屋根の上には、白くて大きな鳥の巣が見えた。


 その噴水の前に20人の淑女が並んでいた。


 1列に。隣の人と、ちょうど3mずつ離れて。


 列の端では、侍女長のテクラさんが縄を持ってしゃがんでいた。縄には3mごとに結び目がある。テクラさんは結び目を淑女の靴の先に1つずつ合わせて静かに次へ進んでいく。


「テクラさん、おはようございます!」


「おはようございます、リツ様。……淑女を20名一度に並べるのは、30年で初めてでございます」


 お盆を持っていないテクラさんを見るのは、僕も初めてだ。


 20人は全員が白い手袋をして、全員がまっすぐ前を見ていた。誰もひと言もしゃべらない。


 前世のドラマでこういう場面を見たことがある。就職の面接の、待合室だ。


「……面接の待合室みたいだ」


 思わずつぶやくと、2歩後ろでイルゼさんが小さく咳をした。


 今日はアルフォンスさんが縁組みの相手に初めて会う日だ。18歳の誕生日まで、あと10日。


『春の庭に来い。20人に会う日だ。1人では、少しいやだ』


 手紙にそう書いてあったので、来た。ロジーナさんも一緒だ。縁組みの肖像を描くために、ローデ家の絵師として正式に呼ばれている。さっきから画板を抱えたまま門の陰で深呼吸を繰り返していた。


 アルフォンスさんは20人の前に立っていた。


 1人ずつ、名前を聞いていく。


「名は」


「……カロリーネと申します」


「そうか」


 次の人。


「名は」


「……フリーダと申します」


「そうか」


 20人目までそれが続いた。


 アルフォンスさんの顔は、何も言っていなかった。20人の顔も、何も言っていなかった。


 品位の指導で育った殿方と、淑女の平静で育った淑女。どちらも顔に出さない練習を十何年も続けてきた人たちだ。


 会ったのに、まだ会っていないみたいだった。


 *


 アルフォンスさんがこっちに歩いてきた。


「リツ殿」


「はい」


「会った。名も聞いた。だが、分からぬ」


 アルフォンスさんは自分の手袋を見ている。


「どうすれば、分かる」


 僕は少し考えた。


 僕もこの前、136人の名前と顔を覚えた。札にして、ひと晩で。でも名前と顔が一致しても、その人のことが分かったわけじゃなかった。分かってきたのはそのあと1人ずつ話してからだ。


 前世のネトゲもそうだった。知らない人と組んだらまず一緒にどこかへ行く。弱いモンスターを倒して、迷子になって、一緒に笑う。名前を覚えるのはそのあとだった。


「遊びましょう。みんなで」


「何をだ」


「鬼ごっこです」


 アルフォンスさんの口の端が、少しだけ上がった。


「……前は、成立しなかった遊びだな」


 前にこの庭で鬼ごっこをしようとしたとき、侍女さんたちは僕を追いかけてくれなかった。淑女は殿方を追ってはいけない。僕が鬼になると、侍女さんたちは自分から捕まりに来た。テクラさんなんてお盆を持ったまま捕まりに来た。


 だから、だるまさんがころんだになった。部室のやりたい遊びリストの「鬼ごっこ」には、まだ丸がついていない。


 いつの間にか館長さんが後ろに立っていた。


 灰色の髪をひとつにまとめた館長さんは、何も持っていない右手を口元へ運びかけて、やめた。


「本日に限り、当館の庭において、淑女が殿方を追うことを許します」


 まっすぐ前を見たまま、館長さんは言った。


「責めは、私が負います」


 縄を巻き取っていたテクラさんの手が止まった。


「……館長様。それは」


「30年で初めて、ですか」


「はい」


「私は、35年で初めてです」


 館長さんはそれだけ言って、また前に向き直った。


 *


 決まりは僕が説明した。


 鬼が追いかける。触られた人が次の鬼になる。触った人は鬼をやめる。庭の外には出ない。噴水には入らない。


「最初の鬼は、アルフォンスさんです」


 20人がわずかにざわめいた。


 アルフォンスさんが噴水のほうを向いて、数を数え始める。


「1、2、3……」


 10まで数えて振り返った。


 淑女は誰も逃げていなかった。


 20人全員がさっきの場所に立っている。白い手袋を胸の前で組んで、殿方が来るのを待っている。


 これは鬼ごっこじゃない。行列だ。前と同じだ。


 アルフォンスさんは20人の前まで歩いていって、足を止めた。


「わざと捕まる者とは、縁組みせぬ」


 庭が静まり返った。


 次の瞬間、20人が一斉に逃げた。


 スカートの裾をつまんで、本気で。噴水の周りへ、木の陰へ、生け垣の向こうへ。さっきまで縄の結び目に靴の先を合わせていた人たちが、ばらばらの方向へ散っていく。


「おお……!」


 思わず声が出た。鬼ごっこだ。本物の鬼ごっこだ。


 *


 最初に捕まったのはカロリーネさんだった。生け垣の角で、アルフォンスさんの指が肩にかすったのだ。


 カロリーネさんは肩を押さえたまま3秒ほど止まっていた。それから振り返って、こっちを見た。


 僕を。


「えっ、僕ですか!」


「殿方を、追ってよいのですよね!」


「いいです! でも、速いです!」


 カロリーネさんは本当に速かった。3mの手前で一瞬だけ止まって、止まってからまた走ってくる。止まる分だけ僕はぎりぎり逃げられる。でも噴水を3周したところで、背中に指が触れた。


「……つかまえ、ました」


 カロリーネさんは自分の指先をじっと見ていた。


 今度は僕が鬼だ。


 胸のポケットから手袋を出して、はめる。それから両手を広げて、低い声を出した。


「逃げても無駄です。鬼からは、逃げられない……!」


 前世のゲームで最後の大きな敵から逃げようとすると、こう言われて回りこまれた。一度言う側をやってみたかったのだ。


 淑女の人たちは逃げなかった。


 その場で固まっていた。


 殿方を追うより殿方に追われるほうが、ずっと大変なことらしい。誰かが「……古い恋歌に、こんな節はございません」とつぶやいた。


「逃げてください! 鬼ごっこなので!」


 そこでやっと、全員が走り出した。


 僕も走った。追いかけて手を伸ばす。もう少しで届きそうなところで、ひらりと横へ逃げられる。なかなか捕まらない。


 でも1人だけ、いつでも手の届く人がいた。


 振り返ると、2歩後ろにイルゼさんがいる。走っている僕の、ちょうど2歩後ろ。


「……イルゼさん」


「はい」


 僕はイルゼさんの肩に、手袋の指でとんと触った。


「鬼です」


 イルゼさんは自分の肩を見た。


 *


 そこから10秒だった。


 イルゼさんは1歩目で生け垣を飛び越えた。2歩目でノルベルトくんの背中。噴水の縁を蹴ってアルフォンスさんの腕。着地したところで僕の背中。


 殿方が3人、同時に鬼になった。


「イルゼさん、手加減してください!」


「かくれんぼは習いませんでしたが、追跡は習いました」


 騎士学校は、本当に何でも教えている。


 館長さんのよく通る声が、庭に響いた。


「騎士殿は、鬼の数に入れません」


「……承知いたしました」


 イルゼさんはそう言って、また僕の2歩後ろに戻った。少しだけ残念そうに見えたのは気のせいだと思う。


 淑女の人たちは殿方3人に追われて庭じゅうを逃げ回っている。顔はまだ平静だ。でも、もう誰もわざと捕まりに来ない。


 ノルベルトくんが館のほうへ走っていった。戻ってきたとき、ノルベルトくんは木箱をかぶっていた。


「騎士殿から、隠れる」


「ノルベルトくん、今は鬼です!」


 箱は返事をしなかった。


――――――――――――――――――

【館長視点】


 殿方館館長、ヴィルヘルミーネ。58歳。


 本日、私は鬼になった。


 だるまさんがころんだの鬼なら、一度務めたことがある。鬼ごっこの鬼は、35年で初めてである。


 *


 許すと言ったのは、私である。


 朝から決めていたわけではない。婚姻院長の返書には、庭での面会を認める、としか書いていなかった。面会とは名を聞き、顔を見ることだ。そのとおりに済んだ。20名が名乗り、アルフォンスは20回「そうか」と言った。


 何ひとつ間違ってはいない。間違っていないのに、あの子は「分からぬ」と言った。


 野良の殿方の答えは「鬼ごっこです」であった。


 だるまさんがころんだの日にも殿方は鬼ごっこを試みている。追わない鬼と、捕まりに来る侍女たち。あれは行列であった。追ってよいことにできないかと聞かれて、私は「淑女が殿方を追うことは」と言いかけ、やめた。


 あの日は続きを言えずに終わっている。


 本日は言った。言いかけたままの言葉なら、35年でいくつもある。1つくらい言い終えてもよい。


 テクラが「館長様。それは」と言った。


 30年仕えた侍女長が、私の言葉に「それは」と返したのは初めてである。


 *


 20名は初め、誰も逃げなかった。


 無理もない。淑女は殿方の前では動かない。殿方に触れられるのは、淑女にとって一生に一度あるかないかの栄誉である。待っていれば、来る。私と同じ育ち方をした淑女たちだ。


 アルフォンスは「わざと捕まる者とは、縁組みせぬ」と言った。


 縁組みは婚姻院が決める。あの子に断る権はない。20名もそれを知っている。


 それでも20名は走った。


 権の有無ではない。あの子が初めて自分の口で出した条件である。それに応じたいと思わない淑女は、この国にいない。


 11年前に私が閉じた庭を、あの子が追う側として走っていた。


 *


 途中から、庭は私の手に負えなくなった。


 騎士殿が殿方3名を10秒で鬼にした。私は騎士殿を数から除いた。除かなければ、鬼ごっこは10秒ごとに終わる。


 ノルベルトは木箱をかぶって、植え込みの横にじっとしていた。


 鬼になったフリーダという淑女が、木箱の前で足を止めた。


「……ノルベルト殿」


「ちがうよ。箱だよ」


 フリーダが迷っていると、遠くから野良の殿方が叫んだ。


「ノルベルトくん! 君はもう、捕まっている!」


 故郷の言い回しらしい。フリーダは律儀に木箱に触れた。


「つかまえました」


「……箱なのに」


 ノルベルトは箱から顔を出して淑女たちを追いかけ始めた。すぐにまた箱をかぶった。前は見えていないはずだが、よく走る。


 エミールは逃げなかった。走るのは遅いので、と言って私の隣に立っていた。


 *


 噴水の縁で、アルフォンスが3人の鬼に囲まれた。触った者は鬼をやめる。その決まりを、誰も覚えていなかったのである。鬼は増える一方であった。


 野良の殿方が、アルフォンスと3人の間に飛びこんだ。両腕を大きく広げて。


「ここは、通しません!」


 3人の淑女が、そろって止まった。


 庭じゅうの淑女が止まった。


 古い恋歌にある。「行かせない、私が盾になる」。この国の淑女なら、寝る前に一度は読む歌だ。恋人を逃がしたその殿方は、歌の最後で帰ってこない。


 20名の淑女は、今その歌の中に立っていた。


「……すまぬ」


 アルフォンスは噴水を回りこんで走っていった。


 野良の殿方は、止まっている3人に同時に触れられた。


「あ、僕、また鬼ですね。……あれ、3人も鬼のままですか」


 帰ってこなかった殿方の歌である。この殿方は3人に触られて、普通に鬼になった。


 鬼が4人になった。決まりにはない状態である。誰も困らなかった。


 *


 日が少し傾いたころ、アルフォンスがこちらへ走ってきた。いつの間にかあの子も鬼に戻っていた。


 息を切らしていた。前髪が額に貼りついている。


「館長」


 あの子の手が、私の腕に触れた。


「鬼だ」


 私は自分の腕を見た。


 幼い殿方を抱き上げたことは何度もある。泣いている殿方の手を取ったことも。けれど殿方のほうから私に触れたことは、35年で一度もない。


 落ち着きなさい、ヴィルヘルミーネ。58歳である。腕に触れられただけである。鬼にされただけである。……鬼にされた。殿方に。


 落ち着く理由が、1つも見当たらなかった。


「……私は、走れません。58歳ですので」


「歩いてよい。歩く鬼もいる」


 そんな鬼がいるのかどうか、私は知らない。あの子も知らないはずである。


「では、歩く鬼です」


 口に出してから気づいた。


 落ち着きなさい、ヴィルヘルミーネ。殿方館の館長が、庭の真ん中で鬼を名乗った。35年の勤めの記録に何と書くつもりか。……書く欄がない。欄がないなら書かなくてよい。


 私は歩いた。


 *


 生け垣の端に、テクラが盆を持って立っていた。茶を運んできたところらしい。


 私が近づくと、テクラはまっすぐ前を向いたまま言った。


「侍女は、勤務中でございます」


 私の言葉である。すごろくの日に、私が言った。


 私の言葉を私に返した者は、35年でテクラが初めてである。


 盆の上の茶は、1滴もこぼれていなかった。私は通り過ぎた。


 噴水のそばにエミールが立っている。


 私はエミールの頭に手を置いた。


「エミール。鬼です」


「館長、ずるいです」


「館長ですので」


 植え込みの木箱が小さく言った。


「……おにの、ばば」


 ばば抜きの日、私は談話室の扉の外で「ばば」と聞いた。札の名前だそうである。


「聞こえておりますよ、ノルベルト」


 エミールは少しだけ笑って、逃げていく木箱を追いかけた。


 走るのが遅い子が、走っていた。


 *


 鬼ごっこは日が傾くまで続いた。


 終わったとき、20名の淑女は全員、髪が乱れていた。何人かは裾に土がついている。カロリーネは片方の靴を生け垣の向こうへ飛ばしていた。


 淑女の平静は、どこにもない。


 全員、笑っていた。


 アルフォンスは20名の前に立った。今度は1列ではない。噴水の周りにばらばらに座りこんでいる。結び目の縄は、テクラがとうに巻き取っていた。


「カロリーネ。生け垣の角で、私の指から逃げきれなかった。それから、殿方を最初に追った」


「……はい」


「フリーダ。ノルベルトの箱に、律儀に触った」


「は、はい」


「ヘドヴィヒ。リツ殿の『通しません』で、いちばん長く止まっていた」


「……歌を、思い出しましたので」


「ベルタ。私を追って、噴水に片足を入れた」


「た、大変な、失礼を」


「入らぬ決まりだった。だが、速かった」


 あの子は20名全員の名前と、今日したことを1つずつ言った。


 朝は「そうか」としか言わなかった殿方が。


「決めた」


 アルフォンスは言った。


「縁組みを受ける。この20人と」


 決めるのは婚姻院である。受けるも受けないもない。それでもあの子は、受けると言った。


 20名が座ったまま、静かに倒れた。


 テクラが盆を置き、20名の間を歩いて1人ずつ起こしていく。


「縁組みのお相手が20名そろって倒れるのは、30年で初めてでございます」


 本日、テクラの「初めて」は、私が数えただけで3回目である。


 *


 ローデ家の娘が、噴水の前に画板を立てた。


 殿方館の縁組みの肖像は、ローデ家の絵師が何日もかけて描くものである。正面から。笑わずに。手袋をはめて。87枚、そうであった。


 アルフォンスは汗で前髪が額に貼りついたまま、噴水の縁に座った。


「か、髪を、整えられますか」


 娘が聞いた。


「このままでよい。縁組みの絵だ。今日の顔を描け」


 娘は両手で顔を覆いかけた。


 それから、やめた。手を下ろして、筆を取った。


 野良の殿方の手紙によれば、この娘はよく筆を折る。うれしいときには両手で顔を覆うそうである。


 しばらく、筆の音だけが庭にあった。


 描きながら、娘は一度だけ小さな声で言った。


「……続きを、描きなさい、って。おばあさまが」


 誰に言ったのでもないようだった。


 日が噴水の向こうへ沈む前に、娘は筆を置いた。それから懐から小さな印を出した。


「お、おばあさまが彫った、筆の印です。……自分で押すのは、初めてで」


 娘は息を止めて、絵の隅に印を押した。


 描き上がった絵の中で、アルフォンスは笑っていた。


 前髪は額に貼りついている。頬が赤い。口の端が上がっている。


 殿方館の縁組みの肖像で、笑っている殿方は初めてである。


 娘の手元を見た。筆は1本も折れていなかった。


 私は88枚目の肖像を、しばらく見ていた。


 *


 夕暮れに、面会の間へエミールの母君が来られた。年に1度の、1時間の面会である。


 エミールは母君の手を引いて庭に出た。面会の日に2人が面会の間の外へ出たのは、それが初めてである。


 砂時計を持ったテクラが、2人のあとについていく。


「母上。屋根を見てください」


 殿方館の屋根に、白くて大きなとりがいた。


 今年も帰ってきたのである。


「わたしは、とりに運ばれたのではないのですね」


 エミールが聞いた。あの手紙の答えを、ずっと待っていたのだろう。


 母君はしばらくとりを見ていた。それからエミールの手袋を外して、素手の手を握った。


「あなたは、私が運んだのよ。この手で」


 エミールは自分の手を見た。


「……とりより、あたたかいです」


 とりが屋根の上で羽を広げた。


 テクラの持つ砂時計の砂が落ちきろうとしている。私はテクラの手から砂時計を取って横に寝かせた。寝かせた砂時計は、落ちない。


 その日、面会は1時間を過ぎた。テクラは何も言わなかった。30年勤めた侍女長は、理由を聞かない。


 *


 夜、館長室で手紙を読んだ。


 野良の殿方が帰り際に門の前で私に直接手渡していった1通である。肖像を待つ間に噴水の縁で書いていたらしい。


 私宛ての手紙は、検めなくてよい。それでも3回読んだ。


『館長さんへ。今日は鬼ごっこを許してくださって、ありがとうございました。部室のやりたい遊びリストの「鬼ごっこ」に、やっと丸がつけられます。館長さんの歩く鬼、すごく強かったです。 リツ』


 強かったかどうかは分からない。私が捕まえたのは、エミール1人である。


 手紙をたたんだところで、扉が叩かれた。


 アルフォンスだった。


「館長。1つ、頼みがある」


「何でしょう」


「10日後、私が門を出るとき」


 あの子は少しだけ言葉を止めた。


「頭を下げるな。手を振ってくれ」


 私は87回、門の前で頭を下げた。


 庭の扉の前で、一度だけ手を振ったことはある。学園祭の夜だ。あれは扉であって、門ではない。


「……それは、前例がございません」


「作ればよい。院長もそう書いていた」


 アルフォンスが出ていったあとで私は殿方の心得を開いた。


 見送りの作法は第53条に書いてある。殿方が門を出るとき館長は深く頭を下げ、殿方の姿が見えなくなるまで上げてはならない。


 私はその条の余白に、小さく書きこんだ。


『88回目より、手を振る』


 インクが乾いてから、本を閉じた。


 窓の外で、とりが小さく鳴いた。何も運んでいない声だった。

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