第48話 改正の日
【リツ視点】
入学して188日目の休日。朝6時に、王都婚姻院の前に着いた。
行列ができていた。
婚姻院の門から通りの角まで。角を曲がってパン屋の前まで。パン屋の前を過ぎて噴水の広場まで。広場の噴水をぐるっと1周。
「……前世で新しいゲームの発売日にこういう列ができてるのをテレビで見ました。前の晩から並ぶ人もいるんです」
「リツ様は並ばれたのですか」
2歩後ろでイルゼさんが聞いた。
僕は振り返った。
ちゃんと、いた。
「病室からは並べなかったです。看護師さんが代わりに予約してくれて」
「では、本日が初めての行列ですね」
「並ぶほうじゃないですけど」
7日前の草原から、僕は何回も振り返るようになった。振り返るたびに、イルゼさんは「何か」と聞く。何でもないです、と答える。今朝だけでもう4回目だ。
*
今日は婚姻法第3条の2が公布される。
婚約者の人は、友達になるか婚約者のままでいるかを選べる。婚約者じゃない人も友達の申請ができる。僕もそれを選べる。
選ぶ方法は院長さんとコルネリアさんが決めてくれた。
淑女が窓口で申請書を出す。僕は窓口の横の机でその人の名前を呼んで、その人の手帳に印を押す。殿方の印がなければ受理はできない、と院長さんが決めた。第3条の2の第3項、殿方もまた友を選ぶことができる、の使い方だそうだ。
手帳の名前は、友達手帳という。
前世の夏休みのラジオ体操のカードみたいだ。毎朝行くと、判子が1つずつ増えていく。僕は病室にいたので、1つも押してもらったことがない。
今日は、押すほうだ。
コルネリアさんの商会が、この日のために300冊作ってくれた。表紙は紺色で、ロジーナさんが絵を描いた。大きく開いた窓の絵だった。
「宣伝の文句を1つ、いただけますかしら」
コルネリアさんに聞かれて、僕は少し考えた。前世のテレビで物置の上に人がたくさん乗っている宣伝があった。
「100人書いても、大丈夫」
「採用ですわ」
手帳の裏表紙に金の字で入っていた。
印は僕の分が1つ。丸の中に小さな星が1つ入っている。押した人の名前は、僕の友達帳にも書く。アルフォンスさんとエミールくんとノルベルトくんの下が、通知の日からずっと空いていた。
*
8時に門が開いた。
1番目に窓口に来たのは、エレオノーラ先輩だった。
先輩が封筒から申請書を出す。理由の欄に『友として』。11日前に講堂で書いた字だ。先輩は婚約者ではなかったので、新しく友達の申請をする人の1人目でもある。
「エレオノーラ先輩」
僕は名前を呼んで先輩の手帳に印を押した。
「1人目です」
「……知っております」
先輩はまっすぐ前を見たまま右手で手帳を受け取った。
受け取ったまま右手が開かなくなった。
「先輩、手、つりました?」
「……つって、おりません」
「でも、開いてないです」
「……つって、おりません」
先輩の2歩後ろにヘルガさんが並んでいた。ヘルガさんは何も言わずに、先輩の鞄の口を開けた。先輩の右手を手帳ごとそっと鞄の中に入れて口を閉める。右手は鞄の中のまま。
先輩は鞄に右手を入れたまま、きれいに一礼して列の外へ歩いていった。
ヘルガさんも申請書を出した。
「ヘルガさんも、ですか」
「書記ですので。会長の記録は、私が取らねばなりません」
理由の欄に『会長の友の、友として』と書いてあった。
「ヘルガさん」
ヘルガさんは印を押されてから手帳を1分ぐらい黙って見ていた。
「……終わりです」
そう言って先輩の鞄の持ち手を持ちに戻っていった。
友達帳に4人目と5人目の名前を書いた。
*
3人目は、リゼットさんだった。
リゼットさんは申請書より先に、自分の帳面を開いて窓口に置く。
「殿方。161日目の保留を、解除してよろしいですか」
帳面のそのページにはリゼットさんの字でこう書いてあった。
殿方、「友達に」と言いかけて、取り消す。
理由:この言葉の意味が、まだ決まっていないため。
保留。
謝罪会見の日のことだ。僕は「僕と、友達に」と言いかけて、口を押さえた。
「今日、決まりました」
「はい。解除します」
リゼットさんは申請書を出した。理由の欄は『記者として、ではなく』。
「リゼットさん」
印を押した。
リゼットさんは手帳を受け取ると帳面を何ページか前にめくった。そこにも1行小さな字が書いてある。
『殿方の、友達:わたしは、友達になりたい。』
リゼットさんはその1行にまっすぐ線を1本引いた。それから横に書き足した。
『→なった』
書き足した字は、だんだん大きくなった。「な」は普通の大きさで、「っ」でページの半分を使い、「た」で次のページが全部埋まった。
「リゼットさん、それ、号外に載せますか」
「載せません」
リゼットさんは帳面を閉じた。
「伝言にしたくないので」
あの日の続きの言葉を、僕はまだ言わなかった。
最初に最後まで言う人は、7日前に決めてある。
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【ゲルトルート視点】
——同じ頃、王都の通りでは。
近衛騎士団長、ゲルトルート。52歳。近衛27年。
本日、私は生まれて初めて行列に並んだ。
*
昨夜、陛下に呼ばれた。
「ゲルトルート。明日、婚姻院の前で友達手帳なるものが売られるそうである」
「存じております」
「300冊限りである」
「存じております」
「通りすがりの者の分を、1冊」
陛下はそこで黙られた。
「通りすがりの者の分を、1冊である」
2回おっしゃった。何かを決めるときの癖である。
「余が並ぶわけにはいかぬ。……並びたいとは、言わぬがな」
私は聞かなかったことにした。
*
朝、近衛の鎧を脱いで普段の服で王宮を出た。
落ち着け、ゲルトルート。近衛27年。王宮の夜警も、陛下のお忍びの付き添いも務めてきた。剣を抜かずに済む任務は、ありがたい任務である。
並ぶだけである。
……並び方を、私は知らない。近衛騎士団長の前には、いつも道が空く。
通りの店はそろって扉を閉めていた。札が下がっている。
『本日、婚姻院へ参るため休業』
仕立屋も、靴屋も、茶店も。茶店の札だけ『本日、まーじゃんの卓は空いております 店主は婚姻院』と書き足してあった。
大通りでは赤い乗合馬車が臨時便を出していた。行き先の板に『婚姻院行き 3倍』。御者が「赤いんだから3倍で走りな!」と叫んでいる。実際には、行列のせいで歩くより遅かった。
南のほうから来たパン屋が行列に沿って籠で丸いパンを売り歩いていた。籠の札に『学園の殿方も召し上がった丸パン』。どこで召し上がったのかは書いていない。よく売れていた。
*
列の終わりは噴水の広場をぐるりと回ったところにあった。
そこに立つと前の淑女が振り返った。私の顔を見てから、私の傷を見ている。
「あ、あの。もしや、近衛の団長様では」
「人違いです」
「では、騎士様なら背が高くて目立ちますので、こちらを」
板を渡された。
『最後尾』
私の後ろに次の淑女が来た。
「こちらが、最後尾でございますか」
「人違いです。最後尾はこちらです」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
福袋の日にも、同じ板を持った気がする。あの日も陛下の付き添いであった。私の手は、どうやらこの板に縁があるらしい。
次の淑女が来るまで私は板を持っていた。それから板を後ろへ渡した。近衛の引き継ぎは、確実に行う。
*
昼前に門の近くまで来た。
ヴァーレン商会の売り台が、窓口の手前に出ている。札に『友達手帳 お1人様1冊限り 残りわずか』。
窓口の横の机が見えた。
殿方が名前を呼んでおられる。その2歩後ろにイルゼが立っていた。
騎士学校で私が教えた娘である。首席で出ていった。8日前、王宮の門の前で殿方に「異動の書類は本部にも届いておりません」と申し上げたとき、私の手は少しだけ汗をかいていた。今は2歩後ろにいる。それでよい。
イルゼが殿方の背中を見て、口の端を1mmだけ上げた。
見間違いではない。私は大富豪の日にも、それを見ている。
「お次の方」
売り台の娘が言った。
「299冊目でございます」
手帳を受け取った。紺色の表紙に、開いた窓の絵。裏に金の字で『100人書いても、大丈夫』。
私の後ろにパン屋の女将が並んでいた。さっきの丸パンの籠を抱えている。
「300冊目でございます。これにて売り切れでございます」
女将が最後の1冊を受け取った。
自分の分は、買えなかった。
お1人様1冊限りである。それに私は殿方の名を呼ばれる列には並んでいない。
手帳を懐にしまった。
……失礼いたします。
誰にともなく心の中で言った。
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【クラリッサ視点】
王都婚姻院、申請受付係。クラリッサ。34歳。勤続12年5か月と3週。
本日、受付の窓口から列の終わりが見えなかった。
*
改正の日の受付は2種類である。
1つは、婚約者136名の選び直し。「友」か「婚約者のまま」かを、本人が書いて出す。
もう1つは、婚約者でない淑女による、新たな友の申請。
どちらも、窓口の横に座った殿方が名前を呼び、手帳に印を押す。それで成立する。殿方の印がなければ受理はできない。第3条の2の第3項である。
殿方は朝8時から1度も席を立たれなかった。
申請者が窓口に来ると、殿方は顔を上げて名前を呼ばれる。
「アンネさん」
「カタリナさん」
「ズザンネさん」
1年A組のパン屋の娘は印を押されたあとで小さな声で言った。
「……殿方。寝癖が、右の後ろに、少しだけ」
殿方は右の後ろを押さえて笑われた。
「ありがとうございます。教えてもらったの、初めてです」
1人も間違えられなかった。
帳面を見ずに呼ばれる。136名全員の顔と名前を、殿方は覚えておられた。神経衰弱という遊びで覚えたのだと、騎士殿があとで教えてくれた。
名前を呼ばれた淑女は、たいてい窓口の前で膝をつく。後ろの者が起こす。起こした者が次に呼ばれて膝をつく。
列は少しずつしか進まなかった。
*
10時ごろ、商会の娘が来た。
ヴァーレン商会のコルネリア殿。100人目である。
「友を選びますわ」
申請書の理由の欄は几帳面な字で埋まっていた。
『借りも貸しもない間柄を、試してみたいので』
「コルネリアさん」
殿方が名前を呼んで印を押した。
コルネリア殿は手帳をしまってから窓口の私に向き直った。
「それから、友から婚約者への再申請の用紙を、3枚……いえ、4枚。……3枚、いただけますかしら」
「……今、お使いになるのですか」
「在庫ですわ。商人は、在庫を切らしませんの」
私は3枚渡した。用紙は5か月ほど前に1万枚発注してある。あと8000枚ほど残っている。
コルネリア殿は用紙を帳面に挟んだ。帳面の『借り』の欄にインクの染みが1つ増えた。
それから殿方に一礼した。
「リツ殿。これで貸し借りなしの、ただの友ですわね」
「はい。よろしくお願いします、コルネリアさん」
殿方は少し考えてから、付け足された。
「でも、たぶん、また何か借りちゃうと思います」
「……でしたら、そのときは帳面に書いておきますわ」
コルネリア殿は帳面で顔を隠して、早足で出ていった。
帳面は、逆さまだった。
*
昼までにいろいろな淑女が来た。
列の最後尾では白髪まじりの短い髪の騎士が板を持っていたそうだ。「人違いです。最後尾はこちらです」と言っていたらしい。誰と間違えられたのかは、聞いていない。
新聞部の娘は申請書と一緒に号外の原稿を出そうとした。受付の書類ではないので、返した。
絵描きの娘の理由の欄にはこうあった。
『殿方の笑った顔を、正面から描きたいので』
これまでは横顔か、3mの外から描いていたそうだ。
「ロジーナさん」
名前を呼ばれた瞬間、絵描きの娘の両手で、筆が2本同時に折れた。ぱきりという音が窓口の奥まで届いた。
絵描きの娘は折れた筆を握ったまま、両手で顔を覆った。指の間からは、殿方の顔をまっすぐ見ている。
東部警備隊の副官殿は、窓口の前で兜を2回落とした。
訓練生のミア殿は、窓口の壁ではなく、殿方の顔を見て申請書を出した。
「お、お返しは、これです!」
理由の欄の余白に雪玉の絵が描いてあった。
「ミアさん」
殿方は笑って印を押された。
学園のグンヒルト教官は列の途中で4回空を見上げていた。順番が来ると、窓口の格子が震えるほどの声で言った。
「友ならば! 教官でも! よろしいのですか!」
「よろしいです。グンヒルト教官」
殿方が答えた。教官は左膝から崩れて、右膝で立ち直った。12年ぶりに右膝で体を支えた、と後ろの者に話していた。
*
午後には、整理券1番の女の子が母親と一緒に来た。
母親は夜明け前から並んで娘の分の友達手帳を買っていたそうである。
「りつどの! ともだちてちょう、もってきた!」
殿方は少しだけ困った顔をされてから窓口の私を見た。
「8歳でも、友達になれますか」
私は第3条の2を端から端まで読み直した。
読み直す必要はなかった。4項しかないのである。それでも読み直した。
「年齢の定めは、ございません」
「ございません!」
女の子が繰り返した。殿方は女の子の手帳に、いちばん丁寧に印を押された。
母親は静かに倒れた。後ろの者が起こす。
起こされた母親は、娘の手帳の星の印をのぞきこんで、もう一度静かに倒れた。
*
午後3時。
私は窓口の札を『休止中』に裏返した。
それから受付の机を出て列の最後尾に並んだ。
12年5か月と3週、私は窓口の内側にいた。外側から窓口を見たのは初めてである。
受付係のいない窓口は、少し寂しかった。
自分の順番が来た。私は窓口の内側に戻って自分の申請書を自分で受け取った。
落ち着きなさい、クラリッサ。あなたは今、申請者です。受付係ではありません。
……受付係も、あなたです。
どちらが落ち着けばよいのか。申請者が落ち着けば受付係が動じ、受付係が落ち着けば申請者の手が震える。12年かけて極めた角度を、どちらの手で守ればよいのか。
申請者、クラリッサ。理由の欄。
『受付係として、友の第1号を受理したかったため』
嘘である。第1号は生徒会長だった。
受付係は嘘を受理しない。私は理由の欄を書き直した。
『学園祭の日に、何も置いてこなかったため』
あの日、私は卵焼きを1切れ食べて、お代だけ払って一礼した。返礼は置かなかった。受理する側の人間が、受理される側になってはいけないと思ったのである。
今日は、置いてもいい日だ。
「クラリッサさん」
殿方が名前を呼ばれた。
「通知のとき、ありがとうございました。お仕事、また増やしてしまってすみません」
「……殿方の謝罪は、受理いたしかねます」
「書式がないんですよね。イルゼさんに聞きました」
「はい。ですので、保留にしておきます」
殿方が印を押された。星の印だった。
私は自分で受理の判を押した。
判が、少しだけずれる。12年5か月と3週で、初めてのことである。
眼鏡も、ずれていた。どちらが先だったのかは分からない。
*
夕方6時。閉門の鐘が鳴った。
列には、もう誰もいなかった。
選び直しの集計を出した。
婚姻法第3条の2 公布日集計
1.選び直し:136名
友を選んだ者:128名
婚約者のままを選んだ者:8名
2.新たな友の申請:21名
3.殿方による友の選択:149名(全員、名前を呼んで受理)
婚約者のままを選んだ8名の理由欄は、それぞれだった。
『もう少し考えたい』が3名。
『友になると、殿方の卵焼きがもう食べられない気がした』が2名。そんな定めはない。来週、説明の書状を送る。
『友の申請書の書き方が分からなかった』が2名。来週、出し直すそうである。
残りの1名は理由の欄に『殿方の初めての縁組みの相手として、名前を残したいので』と書いていた。
殿方は8名の名前も呼んで婚約者の帳面にも印を押された。
「選んでくれたなら、それも大事にします」
そうおっしゃった。
*
閉門のあとで騎士殿が窓口の前に来た。
騎士殿は1日じゅう、殿方の2歩後ろに立っていた。列には並んでいない。
殿方が椅子から立ち上がって騎士殿のほうを向かれた。
「イルゼさん。7日たちました」
「……はい」
「もう1回、言います。今度は、最後まで」
殿方は息を吸った。
「イルゼさん。僕と、友達になってください」
今度は途中で止まらなかった。
騎士殿はしばらく何も言わなかった。
それから胸当ての内側から1通の申請書を出した。折り目がたくさんついている。何度も出して、何度もしまったのだと思う。
理由の欄に、こう書いてあった。
『友として。2歩後ろから。振り返れば顔の見える距離で』
私は、その字を知っている。
5か月と少し前の夕方、騎士団の紋章のついた20通目がこの窓口に届いた。理由の欄の最後の1行に、線が3本引いてあった。3本引いても、字は読めた。
今日の理由の欄には、線が1本もない。
「……はい」
騎士殿はやっとそれだけ答えて、申請書を窓口に置いた。
「イルゼさん」
殿方が名前を呼んで印を押した。
落ち着きなさい、クラリッサ。
私は受理の判を押した。今度は、ずれなかった。
本日最後の受理。友の申請、150件目。
登録簿の備考欄に1行だけ書いた。
『最後の1件は、閉門後につき、本来は翌日扱い。受付係の判断により、本日付とする』
受付係の判断で書類の日付を動かしたのは、12年5か月と3週で初めてである。
殿方の友達は、本日付で153人になった。
殿方は友達帳を開いて最後の行に騎士殿の名前を書いておられた。騎士殿は2歩後ろからそれをのぞきこんで一度だけ顔をそむけた。
窓口の外は、暗くなりかけている。
私は、もう一度だけ眼鏡を直した。




