第47話 かくれんぼ
【リツ視点】
入学して180日目の朝。寮の部屋の扉を開けると、イルゼさんがいなかった。
2歩後ろの場所が空いている。
その少し向こうに知らない騎士の人が立っていた。
「本日より殿方の護衛を務めます。王都騎士団の者です」
「イルゼさんは?」
「東部警備隊への異動を願い出られたそうです。昨夜、学園長に」
僕は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
騎士の人は僕が歩きだすとついてきた。3歩後ろだった。
「あの。もう1歩近くても大丈夫ですよ」
「いえ。2歩後ろは、イルゼ殿の場所と伺っておりますので」
騎士の人はまっすぐ前を見たまま言った。
百物語の夜を思い出した。うしろの正面、だあれ。毎日、私です。
今朝のうしろの正面は、知らない人だった。
*
学園長室に走った。
「イルゼ殿の願いは、まだ受理しておりません」
学園長は机の上の書類を伏せて言った。
「理由は」
「『殿方は、これから自分で友をお選びになる。2歩後ろに護衛官がいては、淑女が近づけない』と」
「そんなこと、ないです」
「私も、そう思います」
学園長は窓の外を見た。指が机の上の印をとんとんと2回叩いた。
「ただ、理由はもう1つあるように思います。それは本人から聞くべきでしょう」
「イルゼさんは、どこに」
「昨夜、学園を出ました。行き先は言いませんでした。馬も1頭、厩舎から消えています」
学園長の口の端が1mmだけ上がった。
「かくれんぼ、というのでしたね。故郷の遊びで」
部室の壁のやりたい遊びリストに確かに書いてある。上から6番目。まだ丸はついていない。
「本日の授業は、欠席扱いにいたしません。外出も許可します。護衛は3歩後ろの方に」
「いいんですか」
「鬼が教室にいては、かくれんぼは終わりませんので」
*
生徒会室ではエレオノーラ先輩が僕の顔を見るなりペンを取った。
何も言っていないのに、紙が1枚できあがった。
捜索許可証
殿方リツ殿の、学園内外における人捜しを許可する。
対象:専属護衛官イルゼ殿
期限:見つかるまで
生徒会長 エレオノーラ
「期限が、見つかるまで、なんですね」
「ほかに書きようがございません」
先輩はそれから少しだけ考えた。
「リツ殿。イルゼ殿は、殿方の2歩後ろ以外に居場所を知らない方です。2歩後ろがなかった場所を、探されてはいかがでしょう」
2歩後ろが、なかった場所。
意味をつかむ前にヘルガさんが無言で1枚の地図を差し出した。
王都の地図だった。騎士団の詰所が全部赤い丸で囲んである。全部で14か所。昨夜のうちに作ったらしい。
ヘルガさんは何も言わずに会釈して、書類の山に戻っていった。
先輩の右手は許可証に署名した形のまま開いていなかった。
*
部室にはロジーナさんがいた。
机の上に紙を広げて筆を持ったまま止まっている。イルゼさんの顔を描いて似顔絵にしようとしていたらしい。
「……描けません」
「ロジーナさんでも、ですか」
「見ないで描けるのは、殿方だけなので」
紙の端には2歩ぶん離れた2つの足跡だけが描いてあった。
新聞部の部室ではリゼットさんが号外の見出しを書いていた。
『殿方、護衛官を捜索中 情報求む』
「出さないでください」
「……出しません。伝言になりますので」
リゼットさんは見出しの紙を自分の帳面に挟んだ。
学園の門の前には赤い早馬車が止まっていた。御者台でコルネリアさんが手綱を握っている。
「お乗りくださいまし。4倍ですわ」
「本当ですか」
「……2.9倍ですわ。商人は、嘘をつけませんの」
帳面の端にインクの染みが1つできていた。
*
僕は王都じゅうを探した。
前世の絵本に、人ごみの中から縞々の服の人を1人だけ探す本がある。病室でページがすり切れるまで探した。看護師さんが見つけても教えないでくださいと頼んだ。
あの本では、探す相手は必ずどこかに描いてある。
ヘルガさんの地図の14か所を全部回った。詰所の騎士の人たちは僕を見ると全員が背筋を伸ばして壁ぎわに並んだ。イルゼさんはいなかった。
婚姻院ではクラリッサさんが登録簿をめくってくれた。
「騎士殿のお名前は、どこにもございません」
知ってます、と言いかけてやめた。
クラリッサさんの眼鏡が、なぜか少しずれていたからだ。
殿方館の門の前には木箱が1つ置いてあった。
「……ノルベルトくん?」
「ちがうよ。箱だよ」
「ノルベルトくん、イルゼさん見なかった?」
「見てない。でも、ぼくも探す」
木箱が歩き出した。門の内側から館長さんが出てきて黙って木箱を持ち上げた。木箱の下から、足が2本ぶら下がっている。
王宮の門の前まで行くと、灰色のフードの人が出てきた。後ろに背の高い人がついている。
「騎士を探しておるのか」
「はい」
「騎士を探しておるのか」
「はい。イルゼさんです」
「余の箱には、入っておらぬ」
フードの人はそれだけ言って、後ろの人を見た。後ろの人が一歩前に出た。
「騎士団の名簿では、イルゼはまだ学園付きでございますな。異動の書類は、本部にも届いておりません。失礼いたします」
どこにもいなかった。
*
夕方、寮に戻ると玄関の前に汗だくの馬が止まっていた。
「り、リツ殿!」
東部警備隊のミアさんだった。砦から早馬で、休まず駆けてきたらしい。
ミアさんは馬から降りて、まっすぐ僕を見た。
壁のほうは、見なかった。
「隊長は、砦には来ていません。でも今朝の見回りのときに、隊長の馬が草原の入り口につないであるのを見ました」
草原。
この世界に来て最初に目を覚ました場所だ。
エレオノーラ先輩の言葉がやっと分かった。2歩後ろがなかった場所。
あの草原は、イルゼさんの2歩後ろが始まった場所だ。その前の日まで、イルゼさんには2歩後ろがなかった。
前世のゲームでもそうだった。迷ったら、はじまりの町に戻れ。
*
次の日の夜明け前にミアさんの馬の後ろに乗せてもらった。
今日は学園の休日だ。
馬車なら2日の道も、早馬なら1日かからないそうだ。3歩後ろの騎士の人も自分の馬でついてきた。3馬身後ろだった。
「り、リツ殿。どこをつかんでいただいても……い、いえ! 鞍の、前の、持ち手を!」
「はい。これですね」
鞍の前に、ちゃんと持ち手があった。最初の日はそれがどこにあるのか分からなかった。
僕は持ち手を握って地平線のほうを見た。
「待ってろよ……!」
「ひゃい!」
ミアさんが返事をして、馬が速くなった。ミアさんに言ったわけではなかったけど、速くなったので黙っておいた。
*
草原に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
あの日とは違う。冬の終わりで、草は短くて茶色い。花の匂いもしない。
遠くの雪をかぶった山と、吹いてくる風だけが同じだった。
草原の入り口の木に栗毛の大きな馬がつないであった。最初の日に見た馬だ。馬は僕を見てぶるるっと鼻を鳴らした。
イルゼさんの姿は見えない。
僕は馬から降りた。
そして、走った。
あの日と同じように。息が切れても、心臓がうるさくても。苦しい。でもこれはちゃんと走っている人の苦しさだ。
草原の真ん中で止まって両手を口に当てた。
「もういいかい!」
風の音しかしなかった。
しばらくして、遠くの大きな岩の陰から小さな声がした。
「……まあだだよ」
イルゼさんの声だ。
言ってからしまったという顔をしているのが、声だけで分かった。
僕は岩に向かって歩いていった。岩の手前の草だけが、丸く平らに踏みつぶされていた。誰かがそこでずっと同じ動きをしていたみたいに。
岩の陰にイルゼさんが座っていた。
鎧は着ていなかった。休暇の日と同じ私服の上着に、胸当てだけをつけている。剣は岩に立てかけてあった。膝には紺色のマントが掛けてある。
「見つけた」
イルゼさんは膝を抱えたまま僕を見上げた。
「……騎士学校では、かくれんぼは習いませんでした」
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【イルゼ視点】
専属護衛官、イルゼ。異動の願いは、まだ受理されていない。
本日、私はかくれんぼで見つかった。
6分で。
リツ様が草原の入り口で馬を降りてから、私の前に立たれるまで。数えていた。数えるのは癖である。
*
異動を考え始めたのは、婚約者の会の夜だった。
講堂の一番後ろで私はリツ様の顔を見ていた。生徒会長に「先輩は、最初から友達だと思ってました」とおっしゃったときの顔を。
殿方はこれから友を選ばれる。
136人が1人ずつ選び直す。殿方も選ぶ。
そのとき2歩後ろに護衛官が立っていては、淑女は近づけない。私がいる限り殿方の周りには3mの空白ができる。
それが1つ目の理由だった。
2つ目の理由は、学園長には言っていない。
2日考えた。一昨日の夜、異動の願いを書いて学園長室に置いた。鎧は部屋に置いてきている。グラーフに鞍をつけ、夜のうちに王都を出た。
胸当てだけは、今も着けている。中に入っているものがあるので。
*
隠れる場所にここを選んだつもりはなかった。
気づいたらグラーフがここに着いていた。
落ち着け、イルゼ。かくれんぼは習っていない。だが潜伏は習った。騎士学校の野外演習、潜伏の項、首席。気配を消せ。息を殺せ。
2日間、岩陰で素振りをした。
潜伏中の素振りは、潜伏の項のどこにも書いていない。手持ちぶさただったのである。足元の草が円く踏まれていくのには、2日目の昼に気づいた。
そして先ほど。
「もういいかい!」
あの声が草原に響いた。
「……まあだだよ」
答えていた。
なぜ答えた。騎士学校首席が。潜伏中の者が鬼の問いに律儀に返事をしてどうする。
しかも「まあだ」である。まだ隠れきれていない、と自分で申告したのである。
古い恋歌に、殿方に呼ばれて答えなかった娘の歌はない。答えずにいられる娘が、1人もいなかったからだと思う。
*
リツ様が岩の前に立った。
「イルゼさん。もう1つの理由を、教えてください」
学園長は全部お見通しだったらしい。
私は膝の上のマントを握った。
最初の日にリツ様に着せかけたマントだ。リツ様は「暑いくらいで」とおっしゃった。私は「羽織っていてください」と2回言った。休暇の夜にはリツ様が同じマントを眠っている私の肩にかけた。
「リツ様。卵焼きを焼かれた朝のことを、覚えておられますか」
「はい。イルゼさんに、最初に味見をしてもらいました」
「1切れ、いただきました。甘かった」
リツ様はうなずいた。
「その夜、私は婚姻院への申請書を書きました。翌朝送りました」
リツ様の顔が止まった。
「20通目でした。その日のうちに、取り下げました」
「……どうして」
「男性保護法第21条。護衛官は、その護衛対象と婚姻の関係にあってはならない」
風が吹いた。
「婚約者になれば、護衛官を外されます。私は、リツ様の2歩後ろにいるほうを選びました」
「通知の日、『申請しておりません』って」
「嘘ではございません。取り下げた申請は、申請ではございませんので」
リツ様は何も言わなかった。
*
「第3条の2が公布されれば、淑女は皆、友を選べるようになります」
私は言った。
「友は、婚約者ではない。第21条にも触れない。私も、友を選ぶことができる」
「じゃあ」
「でも、私は」
言葉が止まった。
騎士は殿方の前で嘘をつき通すことができない。
「私は、友だけでいられる自信がございません」
それが2つ目の理由だった。
2歩後ろで、友として。それができないなら、いっそ遠くにいたほうがいい。
一昨日の夜、私はそう決めてここまで来た。
*
リツ様は少し考えてからご自分の上着を脱いだ。
冬の終わりの草原は、まだ寒かった。
リツ様は上着を私の肩にかけた。前を合わせて首元のボタンを留めた。
最初の日に私がリツ様にしたのと同じように。
「羽織っていてください」
「……リツ様が、寒くなります」
「羽織っていてください」
2回、言われた。
落ち着け。上着である。殿方の、体温の残った上着である。
平静の型その1。4つ数えて吸い、4つ数えて吐く。……吸えない。襟元から、走ってきたリツ様の匂いがする。
平静の型その2。騎士の誓い。我が剣は女王陛下と民のために。我が剣は、女王陛下と、リツ様の上着の——違う。
平静の型その3。そんなものはない。型は2つまでしかない。私は師範代なので知っている。
知っていたのに、3つ目を探した。
「イルゼさんが友だけでいられるかどうかは、僕には分かりません」
リツ様は私の前にしゃがんだ。
「でも、第3条の2は、あとから選び直せるんです。コルネリアさんが講堂で確かめてくれました。回数の定めはなし。天井も、なし」
商会の娘の「異議あり」である。あの質問は商会の娘自身のためのものだと思っていた。
「だから、まず友達で始めて、そのあとのことは、そのとき一緒に考えればいいと思うんです。アルフォンスさんも、選び直すことはできるって言ってました」
*
「それに、僕、イルゼさんが2歩後ろにいないと、ソリティアが最後まで積めないんです。ジャックが1枚足りないので」
私は胸当ての内側に手を入れた。
ジャックの札が出てきた。長い金髪をひとつに結んだ騎士の絵。その隣で、福袋の四つ葉の栞がかさりと鳴った。
「持ってきてくれたんですね」
「……鎧は置いてまいりました。胸当てだけは、置いてこられませんでした」
リツ様は札を見てから少し笑った。
「昨日の朝、振り返ったら、知らない人だったんです」
「交代の者は、3歩後ろに立ちましたか」
「はい。2歩後ろは、イルゼさんの場所だからって」
あの者には、あとで礼を言わねばならない。
「2歩後ろって、振り返ったらすぐ顔が見える距離なんです」
リツ様は草原のほうを振り返ってから私のほうへ向き直った。
「前世の病室では、振り返っても、誰もいなかったので」
*
リツ様は立ち上がって、右手を差し出した。
素手だった。
最初の日と同じ手である。あの日の手は、柔らかかった。今は指の付け根が少しだけ硬い。走って、雑巾をかけて、針で11回刺した手である。
「イルゼさん。僕と、友達に……」
そこで止まった。
「……あ。これ、まだ公布されてないので、求婚になっちゃいます。しかも素手です」
「はい。二重に」
「手袋……あ」
リツ様が胸のポケットに手をやった。ポケットはなかった。上着は、私が着ている。
「イルゼさん。その上着の胸のポケットに、僕の手袋が」
私は自分の胸元のリツ様のポケットに指を入れた。白い手袋が1組と、折りたたんだ紙が1枚出てきた。紙には大きく『大凶』と書いてあった。
「それは、お守りです」
「……存じております。新年からずっと入っておりますので」
リツ様は手袋をはめてから、もう一度言った。
「7日後に、もう1回言います。ちゃんと最後まで」
「……保留、ですね」
「保留です」
リツ様はもう一度、手を差し出した。
「今日は、帰りましょう。それだけなら、大丈夫ですよね」
私は手袋をはめた。
それからリツ様の手を取って立ち上がった。
手袋ごしの、挨拶の握手である。陛下の布告どおりの。
握ったまま少しだけ離すのが遅れた。布告には、何秒で離せとは書いていない。
*
帰りは、グラーフに2人で乗った。
リツ様は私の後ろにまたがると、すぐに鞍の前の持ち手を握られた。
「今度は、持ち手の場所、知ってます」
「……そうですか」
少し、残念だった。
残念とは何だ。騎士学校首席が。リツ様が正しく持ち手を握っておられるのである。護衛官として喜ぶべきところである。
隣をミアの馬が並んで走っていた。ミアは手綱を取りながら1度だけ振り返った。
「た、隊長。殿方の上着を、着ておられます」
「羽織っているだけだ」
「……は、はい」
ミアは前を向いた。耳が赤い。
3馬身後ろには交代の騎士がいた。目が合うと騎士は小さく頭を下げた。
「イルゼ殿。2歩後ろは、お返しいたします」
「……世話をかけた」
*
背中でリツ様がおっしゃった。
「帰ったら、リストのかくれんぼに丸をつけます。鬼が僕で、イルゼさんが見つかったので」
「6分でした」
「数えてたんですか」
「癖ですので」
「じゃあ、次はイルゼさんが鬼をやってください」
「……私が鬼では、リツ様は1分ももちません」
「そんなに?」
「見張りの記憶術がございます。それに、追跡は習いました」
リツ様が背中で笑った。持ち手を握ったまま。
今夜は砦に泊まり、明日王都へ戻る。
学園に着いたら異動の願いを取り下げる。
2度目の取り下げである。
1度目は使いを走らせた。
今度は、自分の足で学園長室まで行く。




