第46話 多数決
【リツ視点】
入学して176日目の放課後。大講堂をのぞくと、エレオノーラ先輩が巻き尺を持って立ちつくしていた。
足元に大きな紙が広げてある。升目がびっしり描いてあって、升目の交わるところに1つずつ小さな丸がついていた。
「先輩、それ、なんですか」
「明日の、席の図です」
婚約者の会。女王様の勅令のことを136人に伝えるために生徒会が開いてくれることになった会だ。言い出したのは先輩だった。
「136席、すべて3mの間隔で並べます。殿方がどの通路を歩かれても、どの席も3mの外になるように」
「全部の席を、ですか」
「通達第1項を起草したのは私です」
先輩は巻き尺を伸ばして床に1つ印をつけた。そこから3m。また印。3m。また印。
10個目の印で壁に着いた。
先輩は巻き尺を持ったまましばらく壁を見ていた。
「……縦に12席。横に12席。奥行きが33m」
「はい」
「大講堂の奥行きは28mです」
「足りないですね」
「足りません」
先輩は紙の上の丸を数え直した。何回数えても丸は減らない。
「講堂が、あと2つ……いえ、3つ……」
前世のパズルゲームでこういう画面を見たことがある。ブロックが上まで積み上がって、もう置く場所がない画面だ。
先輩の右手は巻き尺を握ったまま開かなくなっていた。
その夜、生徒会室の窓の灯りは夜中まで消えなかったと、イルゼさんが教えてくれた。
*
入学して177日目の放課後。大講堂にたくさんの人が集まっていた。
136人の婚約者が全員来てくれた。学園の子。王都の人。野営訓練の2年B組。学園祭のお客さん。赤い馬車のマルタさんは馬車ごと講堂の入り口の前まで来た。
講堂の入り口には手書きの札が貼ってあった。
『婚約者の会 主催:生徒会』
中に入って、僕は立ち止まった。
席が半円に並んでいた。
壇を真ん中にして、扇の形に何重にも。一番前の列から壇まではちょうど3mで、床に白い線が引いてある。席と席の間は普通の間隔だった。
壇の上の僕から見れば、どの席も3mの外だ。僕が壇から降りなければいい。それだけのことだった。
壇の横に先輩が立っていた。目の下が少し青い。
「先輩、すごいです。半円なら全部入りますね」
「……私が並べたのでは、ありません」
先輩の後ろでヘルガさんが巻き尺をきれいに巻き取っていた。白い線の長さを確かめていたらしい。
「朝来たら、こうなっていました」
ヘルガさんは何も言わなかった。巻き尺を先輩の左手に渡して2歩下がった。
*
イルゼさんは今日、僕の2歩後ろにいなかった。
「壇の上は、3mの線の内側に誰も入れません。見張るのは講堂の一番後ろからで足ります」
そう言って講堂の一番後ろの扉の横に立った。全員の頭越しに壇の上の僕が見える場所だ。
2歩後ろに誰もいないのは何だか背中がすうすうした。
*
僕は壇の上に立った。
前世では、クラスの前で話したことがない。教室に行けなかったからだ。
緊張したときは手のひらに「人」と書いて飲むといい。看護師さんがそう教えてくれた。
僕は右手のひらに指で「人」と3回書いて、ぱくっと飲んだ。
最前列の5人が静かに倒れた。
あとでイルゼさんに聞いたら、殿方が手のひらをなめたように見えたらしい。一番後ろから見てもそう見えたそうだ。
倒れた5人は、隣の人に起こしてもらって座り直した。座り直してからも、5人とも僕の右手を見ていた。
「来てくれて、ありがとうございます」
講堂が静まり返った。
136人の顔が、全部こっちを向いている。半円の一番前から一番後ろまで、ずらっと。
前世のアニメでこういう場所で演説する人がいた。大勢の前で拳を振り上げて、最後にみんなで叫ぶのだ。
気がついたら、僕の右手は拳になって胸の前まで上がっていた。
「ジーク……」
「リツ殿」
壇の横から先輩の声がした。静かな声だった。
「……いえ、なんでもないです」
「その拳は、下ろしていただけますか」
「下ろします」
下ろしながら思い出した。あの演説をしていた人は、たしか悪い側の人だった。
*
僕は女王様の勅令の話をした。
婚姻法第3条の2。11日後に公布されること。その日から、婚約者のままでいるか、友達になるか、1人ずつ選べるようになること。友達になったら婚約者には数えないこと。友達を選んだあとで、もう一度婚約者になりたくなったら申請し直せること。
「友達になるときは、僕が名前を呼んで受けます。それが第3項です。だから、全員の名前を覚えてきました」
前のほうの席で何人かが自分の胸に手を当てた。
それから僕も選べること。
「みんなに、選んでほしいんです。僕が知らないうちに決まったことを、もう1回、自分で」
*
話し終えると、先輩が壇の横の議事の机の前に立った。
「これより、会としての意見を、多数決で決めます」
先輩の声は講堂の一番後ろまでまっすぐ届いた。
「議題。殿方のご提案を、婚約者の会として歓迎するか否か」
講堂がしんとした。
「賛成の方、挙手を」
ほとんど全員の手が挙がった。
白い手袋の手が講堂いっぱいに並んでいる。
講堂の入り口でも大きな手が1本挙がっていた。グンヒルト教官だ。婚約者ではないのに、なぜか一緒に手を挙げている。
「教官ですので! 数えなくて、けっこうです!」
講堂の窓が少し震えた。
一番後ろの席ではリゼットさんが左手を挙げたまま、右手で帳面に何か書いていた。議事の速記係も兼ねているらしい。ペンが止まらない。
ヘルガさんが壇の横で手の数を数え始めた。1本ずつ、黙って指さして。
10分かかった。
誰も「下ろしていい」とは言われていなかったので、みんな10分も、手を挙げたままだった。リゼットさんは10分書き続けた。
「……135です」
ヘルガさんはそれだけ言った。
グンヒルト教官の手は数に入れなかったらしい。教官は少しだけ残念そうに手を下ろした。
ヘルガさんは数え終わると、壇の横を離れて講堂の一番後ろまで歩いていった。イルゼさんとは反対側の扉の前に立つ。何をするのかと思ったら、扉に背中をつけて押さえた。
「反対の方」
1本だけ手が挙がった。
前のほうの席の、金色の巻き毛。
コルネリアさんだった。
*
「異議ありですわ」
コルネリアさんが立ち上がった。
人狼の日に僕が言った台詞だ。コルネリアさんはあのとき人狼だった。
「反対ではございません。質問ですの」
先輩がうなずいた。
「どうぞ」
「友を選んだあとで、もう一度婚約者に戻りたくなった場合。その申請は、何回まで受けつけていただけますの」
講堂がざわっとしかけてすぐに静かになった。
最前列に座っていた婚姻院の院長さんが立ち上がった。
「回数の定めは、ございません」
「天井は」
「ございません」
院長さんは少しだけ間をおいた。
「……今度は、本当に」
コルネリアさんは手を下ろした。
「では、賛成ですわ」
座ったコルネリアさんの帳面にインクの染みが1つ増えていた。
先輩は議事の机の帳面に書きこんだ。
「賛成、136。反対、0。全会一致で可決といたします」
前世のテレビで見た、国会の中継みたいだった。病室のテレビは平日の昼間はこれしかやっていない日があった。あのころは退屈だと思っていた。手を挙げる人の顔が全部見えると、ちょっとだけ違って見える。
講堂の一番後ろで小さな女の子が手を挙げていた。整理券1番の子だ。婚約者ではないけれど、お母さんと一緒に来ていたらしい。
「てんじょう、ないって!」
お母さんが静かに倒れていた。
*
閉会の前に、先輩が壇の上に上がってきた。
僕の前に立った。3mの線の、内側だった。
「リツ殿。私から、1つお話があります」
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【エレオノーラ視点】
ブランシュ公爵家の長女、エレオノーラ。
本日、私は136人の前で隠し事を1つ話した。
*
婚約者の会を開いたのは、生徒会長の務めだと思ったからだ。
それは半分だけ本当である。
残りの半分は、私自身が皆の前で言わなければならないことがあったからだ。
*
昨夜は席の図の前で夜を明かした。
136席を3m間隔で並べると、講堂が3つ足りない。何度数えても足りない。巻き尺を握った右手は夜半まで開かなかった。
夜明け前、講堂の扉を開けた。
席はもう半円に並んでいる。壇の上には私の巻き尺が、きちんと巻いて置いてあった。
殿方が壇を降りなければ、どの席も3mの外になる。それだけのことに、私は一晩気づかなかった。
誰が並べたのかは、聞かなかった。
人狼の日、ヘルガは自分の前に票を置いて追放された。理由は今も言わない。言わない者に、聞くことはない。
*
会の始めに、殿方が壇の上で拳を上げかけた。
殿方の口から「じーく」と聞こえた。何の儀式かは分からぬ。ただ殿方の顔は、美術の授業の日に「だが断る」とおっしゃったときの顔であった。言ってみたいだけの顔である。
止めた。生徒会長の務めである。
*
閉会の前に、壇へ上がる階段の下で足が止まった。
落ち着きなさい、エレオノーラ。
歴代当主を数えなさい。初代、2代目、3代目……
12代目まで数えて、息を吸った。
13代目のお祖母様。生涯に一度も嘘をつかなかったお祖母様。今だけは、私の味方を。
お祖母様の肖像は、今日は正面を向いておられた。
私は階段を上った。
*
壇の上で私は殿方の前に立った。
3mの線の内側である。通達第1項を起草した者が、自分で越えるのである。
講堂の皆が見ていた。商会の娘も、リゼットも、ロジーナも。
ロジーナが前の席で帳面を開いて、私の顔を描こうとしていた。筆の先が紙に触れる前に、筆が折れる小さな音がした。ロジーナは両手で顔を覆っている。
ヘルガは講堂の一番後ろで扉を押さえていた。誰も出ていかないように。誰も入ってこないように。ここから先は、136人と殿方と私の話である。
反対側の扉の横には、イルゼ殿が立っていた。殿方だけを見ていた。
私は懐から封筒を出した。
生徒会室の引き出しの一番奥にあった封筒だ。号外60部と、綴じた61部目と、ハンカチと、館長書状の写しと、監査記録と、二人三脚の紐の下に。
「入学12日目の昼に、私はリツ殿の卵焼きをいただきました。砂糖菓子をお返ししました」
講堂が静かだった。
「その夜、この申請書を書きました。名前だけ書いて、理由の欄で手が止まりました。それから160日以上、出しませんでした」
殿方の目が少しだけ大きくなった。
「卵焼きを食べた31人のうち、申請しなかった者が2人いました。1人はコルネリア殿です。100人目になりました」
商会の娘が前の席で背筋を伸ばした。
「もう1人は、私です」
一番後ろの席で、リゼットのペンが止まった。
*
「なぜ、出さなかったのですか」
殿方が聞いた。
私は少しだけ考えた。160日以上、うまく言葉にできなかったことだ。
「人狼の日のことを、覚えておられますか」
「はい。先輩だけが、僕に投票してくれました」
「リツ殿は、疑われてうれしいとおっしゃいました」
「はい」
「私はあのとき、分かったのです。リツ殿が欲しいのは、黙って名を連ねる婚約者ではない。疑ったり、断ったり、一緒に転んだりする者なのだと」
殿方は何も言わなかった。
「申請書を出せば、私はリツ殿の婚約者の1人になります。それは、リツ殿が知らないうちに決まることです。リツ殿の卵焼きを口実にして」
私は封筒を両手で持った。
「それは、ずるいと思ったのです」
*
封筒から申請書を出した。
理由の欄は、160日以上空いたままである。
議事の机からペンを取った。殿方の前でそこに書いた。
書き終えた瞬間、右手が閉じた。
ペンを握ったまま開かない。知っている。この手はうれしいときと怖いときに閉じる。今日は、たぶん両方である。
左手で申請書を持ち上げて、殿方に見せた。
『友として』
「11日後に、この申請書を婚姻院に出します。婚約者としてではなく、友として。第3条の2が公布される日に」
右手はペンを握ったまま胸の前にある。拳のようで、少し格好がつかない。会の始めに殿方の拳を止めた者の、拳である。
私は殿方を見た。
「リツ殿。私を、選んでいただけますか」
講堂の136人が息を止めていた。
殿方は少しだけ迷うような顔をした。
それから、顔に全部出して、笑った。
「はい。エレオノーラ先輩」
名を、呼ばれた。
第3項である。公布の前である。まだ何も成らない。成らないはずである。
「先輩は、最初から友達だと思ってました。3人で絵を見たときから」
膝が、折れそうになった。
さすが私である。
……いや、さすがなのは殿方である。
いや、私である。
どちらでもよい。膝よ、折れるな。
歴代当主の肖像を思い浮かべようとした。初代も、13代目のお祖母様も、14代目の母上も、出てこなかった。
代わりに目に入ったのは、講堂の一番後ろで扉を押さえているヘルガの姿である。
私は膝をつかなかった。
学園の彫像として、立っていた。さすが私である。
ただ、顔だけは、言うことを聞かなかった。
*
夜、生徒会室で議事録を書いた。
右手はまだペンを握ったままである。握ったまま書いた。字が全部少しずつ右に傾いていく。
婚約者の会 議事録
書記代理:生徒会長
1.議題:殿方のご提案(婚姻法第3条の2)を会として歓迎するか
2.採決:賛成136、反対0。全会一致で可決
3.質疑:ヴァーレン商会コルネリア殿より、友から婚約者への再申請の回数について。婚姻院長より「回数の定めなし、天井なし」との回答
4.その他:生徒会長、申請書の件を報告。殿方より「最初から友達だと思っていた」との発言あり
5.備考:挙手の集計に10分。グンヒルト教官の挙手は集計外(本人の申し出による)
4の項目を書くべきか迷った。
書いた。議事録に嘘は書けない。お祖母様にも申し訳が立たない。
壇上で殿方が拳を上げかけた件は、書かなかった。議事ではないからである。
書き終えて引き出しを開けた。
号外60部。綴じた61部目。ハンカチ。書状の写し。監査記録。二人三脚の紐。
封筒はもう入っていない。机の上に出してある。11日後に持っていくために。
引き出しの一番奥が少しだけ空いた。
私はそこに今日の議事録の写しを入れた。
*
ヘルガが部屋に入ってきた。
「会長」
「何でしょう」
ヘルガは答えずに私の右手を取った。親指から1本ずつ、指を開いていく。いつもどおりである。
ペンが机の上に転がった。
「……顔に、出ていました」
私は窓のほうを向いた。
「見間違いです」
「書記の目は、衰えておりません」
ヘルガはそれだけ言って、私の後ろに立った。2歩後ろだった。
どこかで見た距離だと思った。




