第44話 神経衰弱
【リツ視点】
入学して168日目の朝。僕は学園長室で1冊の帳面を借りた。
婚約者登録簿の写しだった。
「保護責任者の手元に、写しが届いております」
学園長は帳面を机の上に置き、机の上の笑った顔の印を指で2回叩いた。
「お持ちになって、どうなさいますか」
「全員の名前を覚えます。顔も」
学園長の指が止まる。
「……136名ですよ」
「はい。会いに行くなら、名前を知らないと失礼なので」
殿方館でアルフォンスさんに言われたのだ。136人に、会えばいい。1人ずつ。
会うなら名前を知っていなければいけない。「あの、すみません」で話しかけるのは、ゲームでいえば名前の出ていない村人の扱いだ。それはいやだった。
学園長はもう1度だけ印を叩いた。今度は1回だけ。
*
寮の部屋で帳面を開いた。
136人の名前が日付の順に並んでいる。1年A組の子。2年生の子。学園祭に来てくれた王都の人たち。野営訓練の2年B組。大会の閉会の日の人たち。雪灯り祭りの子たち。
知っている名前は20人くらいしかない。
名前の横には何も書いていない。顔が分からない。
名前と顔をセットで覚えなければいけない。
前世の病室でいちばん得意だった遊びを思い出した。
神経衰弱だ。
*
「厚紙を、272枚ほど」
「予備です」
言い終わる前に、イルゼさんが紙の束を出してきた。大富豪のときもあと1のときも、こうだった。
イルゼさんの予備にはたぶん底がない。もう驚かないことにした。
136枚には僕が名前を書く。残りの136枚には顔を描く。
顔はロジーナさんにお願いした。
*
夕方の部室で、ロジーナさんは古い机の端に札を並べて1枚ずつ描いていった。
速い。
帳面の名前を僕が読み上げると、ロジーナさんの筆がもう動いている。学園の子は全員の顔を覚えていた。2年生も、2年B組も。
「王都の人は、どうしてるんですか」
ロジーナさんは鞄から古い帳面を1冊出した。表紙に『学園祭』と書いてある。
中には行列に並んでいた人の顔がびっしり描いてあった。何百人もいる。
「ロジーナさん、学園祭のお客さんの顔まで描いてたんですか」
「……行列が、長かったので」
ロジーナさんは両手で顔を覆いかけて、筆を持っていることを思い出してやめた。
*
そのまま、どんどん進む。
ロジーナさんは帳面の1か所だけを飛ばして描いていた。135枚を描き終えて、その飛ばしたところに戻ったとき、筆が止まった。
帳面の名前は、ロジーナ(ローデ家四女)。
入学12日目の夜に申請した19人の中に、ロジーナさんも入っていた。
「……描けません」
「えっ」
「自分の顔は、描いたことがないので。見ないと、描けないので」
「鏡は」
「鏡の中のわたしは、こっちを見てくるので……」
ロジーナさんは鏡の中の自分とも目が合わせられないらしい。
「じゃあ、僕が描きます」
ロジーナさんの肩がびくっと跳ねた。
僕は筆を借りてロジーナさんの顔を描いた。栗色のおさげ。少し下を向いた顔。
目を描くところで、手が勝手に動いた。
四角い丸。
麻雀の九筒の、あの四角い丸だ。僕の丸は、前世から全部こうなる。おさげの女の子の顔に、四角い目が2つ並んだ。
「……すみません。描き直します」
僕が札を取ろうとすると、ロジーナさんの手がそれより先に札を押さえる。
ぱきり。
ロジーナさんの右手の中で筆が折れていた。今日の1本目だ。
「……か、返しません」
ロジーナさんは札を押さえたまま、左手だけで顔を覆った。
結局その札は描き直さずに束に入った。136枚目のロジーナさんは、四角い目で少しだけ笑っている。
*
顔の札を数えてみると、137枚あった。
1枚多い。
束の最後の1枚は、長い金髪をひとつに結んだ女の人だった。まっすぐ前を見ている。笑ってはいない。でも口の端が1mmだけ上がっていた。
「ロジーナさん、これ」
「……つい」
ロジーナさんは顔を覆ったまま答えた。
2歩後ろでイルゼさんが札をのぞきこんだ。
しばらく何も言わない。
「私は、婚約者ではございません」
「ですよね」
「……札は、リツ様がお持ちください」
イルゼさんはそれだけ言って、2歩後ろに戻った。
僕はその札を名前の札の束には入れずに、上着のポケットにしまった。
*
その夜、僕は寮の部屋の床に272枚の札を全部裏返して並べた。
前世の病室では、神経衰弱がいちばん得意だった。
トランプを全部裏返して並べて、2枚ずつめくる。同じ数字がそろったら取れる。どこに何があったかを覚えていれば勝てる。
病室で看護師さんとやって1回も負けなかった。看護師さんは途中で呼ばれていくので、だいたい僕の勝ちだった。
今夜は数字じゃなくて、名前と顔だ。
めくって覚えて、まためくる。女王の札で歴代の女王を覚えたときと同じだ。名前の札をめくりながら、どこで会ったのかを思い出す。芋煮のおかわりを3回した人。学園祭で「ただいま」を言えずに泣いた人。雪灯り祭りでろうそくをくれた人。
覚えているのに、名前を知らなかった人ばかりだった。
*
夜中に、窓の外で音がした。
ひゅっ、ひゅっ、という音。
今夜は扉の向こうから砥石の音がしない。窓から中庭を見下ろすと、イルゼさんが剣を振っていた。
中庭の真ん中。ちょうど僕の部屋の窓が見える場所だ。
1振りごとに、切っ先が同じ高さで止まる。僕はつい数え始めた。
100。200。300。
数えているうちに札を2枚めくっていた。名前と顔は、そろわない。
400。
500で、イルゼさんは剣を止めた。
それから空を見上げている。僕の窓のほうは見ない。
僕は上着のポケットに手を入れた。137枚目の札の角が指に当たる。
*
空が白くなるころ、136組が全部そろうようになった。
朝の部室で、イルゼさんにも相手をしてもらった。
イルゼさんは1回目から1枚も間違えなかった。
僕がめくった札も自分がめくった札も、全部覚えている。2枚目をめくる手に迷いがない。
「イルゼさん、なんで全部覚えてるんですか」
「騎士学校で習いました」
「神経衰弱をですか」
「見張りの記憶術です。一度見た顔は、忘れません」
「それ、故郷で言う瞬間記憶ってやつですか」
「しゅんかん……存じません。見張りの記憶術です」
1回だけ、僕がイルゼさんより速く取れた札がある。
四角い目のロジーナさんだ。めくった瞬間に分かった。
「その札だけは、私より速うございました」
「自分で描いたので」
イルゼさんは最後の2枚をめくった。
名前の札は、ズザンネ。
顔の札は、栗色の短い髪の女の子だった。少しだけ下を向いている。
「この方は、リツ様の後ろの席の方です」
「……えっ」
僕は顔の札を見た。
ひと晩で覚えた顔だ。名前もちゃんと言える。
でも、教室のどこに座っている子なのか知らなかった。
入学の日から160日以上、毎日すぐ後ろに座っていた子の顔を、僕は知らなかった。
*
その日の朝、僕は教室で振り返った。
そういえば、僕の席と後ろの席の間だけは、入学の日から机1つぶん空いている。
その向こうに、栗色の短い髪の女の子が座っていた。少しだけ下を向いている。札の絵と同じだ。
「ズザンネさん、ですよね」
女の子の肩がびくっと跳ねた。
「入学の日から、ずっと後ろの席でしたよね。ごめんなさい。今まで名前を知らなくて」
女の子は顔を上げた。
前世の映画にこういう話があった。夢の中で出会った2人が、何度も何度も名前を聞こうとする話だ。
君の名前は。
僕は168日、聞かなかった。振り返りさえすれば聞けたのに。
「……ズザンネ、です」
女の子が答えた。小さな声。
「パン屋の、娘です」
思い出した。
卵焼きの日、机の端に小さな丸いパンが置いてあった。まだ少しだけ温かいパンだった。31人のうちの誰かがくれたのに、誰がくれたのか僕は覚えていない。
「あのパン、すごくおいしかったです」
ズザンネさんの耳が、ロジーナさんよりも赤くなった。
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【ズザンネ視点】
1年A組、ズザンネ。王都の南の小さなパン屋の娘。
本日、殿方に名前を呼ばれた。
入学して169日目のことである。
*
「ズザンネさん、ですよね」
頭の中で生地が一気に膨らんだ。
発酵の時間を全部すっ飛ばして。
落ち着け、ズザンネ。パン屋の娘は窯の前で動じない。母はそう言う。窯の火がどれだけ跳ねても生地から目を離すな、と。
……窯が、わたしだ。
今、跳ねているのはわたしだ。
*
わたしの席は、殿方の真後ろである。
殿方が入学される前の日にくじで決まった。当たった、と思った。
当たったのは、背中だった。
殿方の席とわたしの席の間だけ、机1つぶん空いている。学園長の通達第1項のためだ。3mには少し足りない。足りない分は、わたしが椅子を後ろに引いて背筋を伸ばして補ってきた。
それから169日、わたしは殿方の背中を見てきた。
黒い髪。右の後ろに、ときどき少しだけ寝癖がある。寝癖の日はたいてい、前の晩に遅くまで手紙を書いておられる。
算術の時間の殿方の背中は、いちばん楽しそうだ。肩が小さく拍子をとっている。
試験の前の日、殿方の背中は少しだけ丸くなる。
風邪の日は背中がなかった。わたしは1日じゅう、空いた席の背もたれを見ていた。
部屋から出てこられなかった3日間も、背中はない。休日をはさんで戻ってきた背中は、少しだけ細くなっていた。
顔はあまり見たことがない。
殿方の横顔が見えるのは、隣のロジーナと話されるときか、窓の外を見られるときだけだ。後ろを振り返られることはない。
*
卵焼きの日のことは、よく覚えている。
わたしは毎朝、寮の厨房の小さな窯を借りて自分の昼の分のパンを1つ焼く。母に教わったとおり、毎日1つ。
あの朝、厨房は殿方に占領されていた。
4時からである。わたしが5時に行くと、厨房の中で殿方が卵を割っておられた。わたしは扉の前で引き返した。
しかたがないので廊下の隅で生地をこねる。殿方が卵焼きを焼き終えて出ていかれたあと、残っていた窯の火で焼いた。殿方の火で焼いたパンである。それは手料理には当たらない。たぶん。
焼きながら、母の言葉を思い出していた。
「学園で、もし殿方のお近くに寄る日があったら」
そんな日は来ないと思っていた。
来た。その日の昼に。
殿方が教室の真ん中で卵焼きを配られた。わたしも1切れいただいた。甘い。
わたしは鞄から丸いパンを出して、殿方の机の端に置いた。布にくるんでいたので、まだ少し温かい。
殿方はほかの30人の返礼と一緒に受け取られた。誰のパンか、たぶん分からなかったと思う。
その夜、わたしは申請書を書いた。
理由の欄にはこう書いた。
『背中しか知らない殿方に、名前を知っていただきたかったので』
*
今朝、殿方が振り返った。
169日で初めてのことだ。
殿方は「今まで名前を知らなくて、ごめんなさい」とおっしゃった。
謝ることではない。わたしは1度も名乗らなかったのだから。殿方に淑女のほうから話しかけてはならない。通達の第3項である。
それから殿方は、わたしのパンを覚えておられた。
「あのパン、すごくおいしかったです」
焼き色を褒められた。
いや、焼き色とはおっしゃっていない。おいしかったとおっしゃった。焼き色も味のうちである。つまり焼き色も褒められた。
母に報告せねば。
いや、だめだ。母は倒れる。母は窯の前でしか動じない人で、窯の前以外ではよく倒れる。
落ち着け、ズザンネ。焼き上がりの前に窯を開けるな。
膨らみすぎた生地は、ちゃんとしぼむ。たぶん。
*
あとで騎士殿に聞いた。
殿方は昨夜ひと晩で、婚約者136人の名前と顔を札にして覚えておられたのだそうだ。神経衰弱という遊びで。
わたしの顔の札はロジーナが描いたものだ。
ロジーナはわたしの顔も覚えていた。隣の席からときどきこっちを見ていたのは、知っていた。殿方を描くついでだと思っていた。
ついでではなかったらしい。札のわたしは少しだけ下を向いて、それでも頬がふっくらしている。焼き上がりの丸いパンみたいに。
*
昼休み、わたしはもう1度パンを持っていった。
今朝焼いた、わたしの昼の分だ。
殿方の机の端に置いた。
「ありがとうございます」
殿方はそう言って受け取ってから、少し困った顔をされた。
「あ……これ、返礼になりませんか。また、婚約に」
「なりません」
わたしは答えた。
「殿方の手料理を、いただいておりませんので」
「あ、そうか。そうですね」
殿方はほっとした顔でパンをかじられた。
「やっぱり、おいしいです」
それから殿方はパンを見ながら言われた。
「これが暗記パンだったら、ひと晩もかからなかったのになあ」
「……暗記、パン?」
「故郷の、絵のついたお話の本に出てくるんです。覚えたいことをパンに写して食べると、全部覚えられるパンで」
パン屋の娘として、聞き捨てならない。
写す。パンに。字を。
焼き印なら押せる。うちの窯なら、名前を1つずつ焼き印にして……136個……1日に窯を3回回せば……。
落ち着け、ズザンネ。食べれば覚えられるのは、殿方の故郷のパンだ。うちのパンは、食べてもお腹がふくれるだけである。
ただ、焼き印の型は今夜、母に手紙で頼むことにする。
殿方はパンを最後までかじってから、もう1度「おいしいです」とおっしゃった。
わたしは殿方の顔を初めてこの距離で見た。
背中より、ずっとよくしゃべる顔だった。
*
放課後、殿方は教室の後ろから順番に1人ずつ名前を呼んで回られた。
「アンネさん。学園祭のとき、執事喫茶の看板を持っててくれましたよね」
アンネは「はい!」と答えて、まっすぐ手を挙げた。出席を取られたと思ったらしい。
「カタリナさん。体育祭で、白組でしたよね。くじで白になって、最後まで動かなかった人」
カタリナは「……はい」と答えたまま口を開けて止まった。隣の子が肩を揺すると、ようやく閉じる。
「ヨハンナさん。芋煮のとき、3回おかわりした人ですよね」
ヨハンナは返事をしてから、両手で見えない椀を差し出す形のまま固まった。4回目のおかわりを頼む形である。
呼ばれた子はみんな違う形で止まる。立ち上がる子。座り直す子。返事が裏返る子。
ロジーナは名前を呼ばれると、筆を1本折った。
コルネリアは帳面にインクの染みを作った。リゼットは帳面に「はい」と書いた。字が大きすぎて、ページは「は」の1文字で終わっている。
夕方には1年A組の30人全員の名前を、殿方は呼び終えた。
最後の3人は、呼ばれた瞬間にそろって膝をついた。
膝をついたまま、3人とも少しだけ笑っている。
明日は2年生だそうだ。その次は王都に行くそうだ。
136人。
殿方は全員の名前を呼ぶつもりらしい。
*
夜、寮の部屋でわたしは申請書の控えを出した。
理由の欄の、わたしの字。
『背中しか知らない殿方に、名前を知っていただきたかったので』
かなった。
かなってしまった。
膨らみきった生地は、次にどうなるのだろう。焼くか、もう1度こねるか。パン屋の娘のくせに、わたしは今、自分の生地の扱い方が分からない。
わたしは控えの余白に小さく書き足した。
『次は、殿方の顔を知りたい』
婚約者のままがいいのか、ほかの何かがいいのか、まだ分からない。
ただ、明日の朝、殿方の背中に寝癖があったら、教えてさしあげようと思う。
後ろの席から。名前を呼んで。




