第42話 伝言ゲーム
【リツ視点】
入学して160日目。学園の休日。4日ぶりに部屋を出た。
休日の朝の寮の食堂はいつもより混んでいる。朝ごはんを食べたら、みんな王都へ出かけるのだ。
僕が入っていくと、いつもどおり道が開いた。いつもどおり誰も僕を見なかった。
でも、今日は違って見えた。
この中の何人が、僕の婚約者なんだろう。
イルゼさんは、リゼットさんに頼んではどうかと言ってくれた。号外なら学園じゅうに一度に届く。
でも最初は自分の口で言いたかった。紙に書いてもらうのはそのあとでいい。
1人ずつ回ったら、何日かかるか分からない。136人の名前も僕はまだ知らない。だからここで言うことにした。
僕は食堂の真ん中に立った。
「あの! 聞いてください!」
食堂がしんとした。スプーンの音が全部止まった。
「みんなに謝りたいです。知らないうちに婚約させてしまって、ごめんなさい。これからのことを、一緒に考えさせてください」
言い終わって、深く頭を下げた。
顔を上げると、誰も動いていなかった。
3m離れたいちばん近い席の子が隣の子に小さな声で何かをささやいた。その子がまた隣の子にささやく。
ささやきが食堂の奥へ奥へと伝わっていく。奥のほうの席まで僕の声はちゃんと届いていなかったらしい。
*
前世でこういう遊びを見たことがある。
テレビの中で1列に並んだ人たちが、最初の人から順番に言葉を耳打ちしていく。最後の人が聞いた言葉を発表すると、だいたい全然違う言葉になっている。
伝言ゲームだ。
病室ではやったことがない。1人ではできない遊びだからだ。
こんな形で初めて参加するとは思わなかった。しかも言葉を出す最初の1人として。
食堂のいちばん奥の席の子が、小さな声で言うのが聞こえた。
「……殿方が、婚約を、ごめんなさいと」
違う。
そう言おうとしたときには、その子はもう上着を羽織って食堂を出ていくところだった。手には王都の地図。休日なのだ。
*
昼には学園じゅうに広がっていた。
廊下ですれ違った2年生が泣きそうな顔で目をそらす。寮の玄関では1年生が3人並んで膝をついている。
夕方には王都に広がっていた。休日の王都には学園の生徒がたくさん出かけている。
夜、寮の玄関に騎士団の伝令が来た。イルゼさんが話を聞いて戻ってきた。
「婚姻院の前に、行列ができております」
「行列?」
「申請の取り下げではございません。皆、泣いております」
僕は自分の言葉を思い出した。一緒に考えさせてください、と言ったはずだ。
「最後には、何て伝わってるんですか」
イルゼさんは帳面を開いた。途中の伝言まで、全部書き留めてあった。いつの間に。
「食堂の奥にて、『殿方が、婚約を、ごめんなさいと』」
「はい」
「学園の門にて、『殿方、婚約を返品』」
「返品?」
「王都の市場にて、『殿方、婚約を全部解消し、故郷へ帰る』」
「帰りません」
「婚姻院の前にて、『殿方、こうのとりに乗って故郷へ帰る』」
「乗れません」
「念のため確認いたしました。王都上空のこうのとりは本日も何も運んでおりませんでした。殿方も、運んでおりませんでした」
「確認したんですね」
「念入りに」
イルゼさんは帳面を閉じた。
「最後のものが、いちばん広まっております」
婚姻院の屋根の巣箱の前で、淑女たちが空を見上げて泣いているらしい。婚姻院の屋根に巣箱があることも僕は今日初めて知った。
伝言ゲームは、最後の人がいちばん大きな声で発表する。
しかも、全然違う言葉を。
*
次の朝、殿方館から手紙が来た。
『リツ殿へ。王都で、殿方が婚約を全部解消したと聞いた。本当か。ノルベルトが箱に入っている。止めている。エミールは、こうのとりが帰ってしまったと泣いている。 アルフォンス』
ノルベルトくんがまた箱に入っている。今度は僕のせいで。
僕は朝の授業の前に新聞部の部室へ走った。学園の中なので、走ってもいい。
*
「訂正の号外を、出してほしいんです」
リゼットさんは新聞部の部室の机の前で、僕の話を全部聞いてくれた。最初からリゼットさんに頼めばよかったと言うと、首を横に振った。
「殿方がご自分の口でおっしゃったことは無駄になっておりません。食堂にいた者は、少なくとも『ごめんなさい』までは正しく聞いております」
それから帳面を閉じて言った。
「ただ、号外だけでは足りないと思います。紙もまた人の口を通ります」
「じゃあ、どうしたら」
「殿方ご本人が話して、聞きたい者には直接聞いてもらいます。わたしは一字一句そのまま書きます。会見です」
「会見?」
前世のテレビで見たことがある。偉い人が並んで座って、たくさんのカメラの前で頭を下げる。
謝罪会見だ。
まさか自分が開く側になるとは思わなかった。
*
会見はその日の放課後に遊戯部の部室で開かれた。
許可証はエレオノーラ先輩が昼休みのうちに書いてくれた。
「会見は遊戯部の活動ではございませんので、常設許可証の範囲外です。別に発行いたします」
先輩はその場で『会見許可証』を書き上げた。書き終わると、先輩の右手はペンを握ったまま開かなくなった。ヘルガさんが黙って指を1本ずつ開いて、ペンを抜き取る。
放課後、先輩は巻き尺を持って部室に来た。机の前から床に3mを測って、白い線を引く。
「記者と見物の方は、この線の外へ」
部室の窓は全部開けてあった。リゼットさんの考えだ。
「伝言にならないように、聞きたい人には直接聞いてもらいます」
窓の外の中庭には生徒がぎっしり並んでいた。全員、窓から3m以上離れている。2年生もいる。1年A組のみんなもいる。
線のすぐ外の床にはロジーナさんが小さな画板を抱えて座っていた。
「ロジーナさんは、何を」
「う、写し絵の、係です。号外に、絵を……」
画板の上に紙。手には短い鉛筆。福引きの4等の鉛筆だ。まだ使ってくれていたのだ。
「あ、法廷画家だ」
「ほ、ほうてい……?」
「故郷では、絵を写す道具を持ちこめない大事な場所で、代わりに鉛筆で様子を描く人がいるんです。すごく速く描くんです」
ロジーナさんの鉛筆がものすごい速さで動き出した。もう僕を描いている。
部屋の隅ではコルネリアさんが帳面を開いていた。会見のあとの号外を王都へ運ぶ早馬車をもう手配しているらしい。書きつけを何枚も書いては、扉の外に待たせた商会の人に渡している。帳面のどこかの欄にインクの染みがじわじわ広がっていた。
イルゼさんは、僕の2歩後ろにいた。
記者はリゼットさん1人。
僕は机の前に立った。
*
前世のテレビで見たとおりに頭を下げた。
「このたびは、誠に、申し訳ございませんでした」
そのまま頭を下げ続ける。テレビの人たちは確か長く下げていた。
10秒。
窓の外で誰かが座りこむ音がした。
20秒。
ロジーナさんの鉛筆の音が速くなる。
「……殿方。長すぎます」
「あ、すみません」
顔を上げると、リゼットさんの帳面に『お辞儀、22秒』と書いてあった。ロジーナさんの紙には頭を下げた僕の後頭部が3枚描いてあった。
「では、質問をいたします。殿方は入学の日に、『友の契り』とおっしゃいましたか」
「記憶にございません」
リゼットさんのペンが止まった。
窓の外がざわっとした。
「……じゃなくて! 本当に言ってないです! 『友達』って言いました! 今のは故郷の偉い人がこういう会見で言う台詞で、一度言ってみたかっただけで」
「本紙は、どちらを載せればよろしいですか」
「後ろのほうでお願いします」
リゼットさんが帳面の1行に線を引いた。線は1本だった。
「次の質問です。殿方は婚約を全部解消して、故郷へお帰りになるのですか」
「帰りません。帰り方も知りません」
「こうのとりに、お乗りになるのですか」
「乗れません。こうのとりは、人を乗せる鳥じゃないです。故郷でも、たぶん赤ちゃんしか運びません」
窓の外で、何人かが同時に胸に手を当てた。
*
「では、伝えたいことを、もう一度お願いします」
僕は息を吸った。
「婚約を、解消したいんじゃないです。どうしたらいいか、まだ分からないだけです。みんなのことを、もっとちゃんと知りたいです。一緒に考えさせてください」
それから付け足した。
「大事なことなので、2回言います」
前世のアニメでよく聞いた言い回しだ。
「解消したいんじゃないです。一緒に、考えさせてください」
リゼットさんのペンが、ものすごい速さで動いていた。
窓の外はしんとしていた。誰も隣にささやかなかった。全員、直接聞いたからだ。
リゼットさんが顔を上げた。
「以上で、よろしいですか」
「はい。……あ、最後にもう1つだけ」
これもテレビで見たことがある。
「本日の会見は、ここまでとさせていただきます」
もう一度頭を下げた。今度は3秒。
頭を上げると、エレオノーラ先輩が床の白い線を消しているところだった。ロジーナさんは画板を抱えたまま両手で顔を覆いかけて、鉛筆を落とした。
――――――――――――――――――
【王都の母親視点】
——会見の前の日の夕方、王都婚姻院の前では。
市場で、その噂を聞いた。
「殿方が、婚約を全部解消して、故郷へお帰りになるんだって」
八百屋のおかみさんが林檎を量りながら言った。量りの針がいつまでも揺れて、止まらなかった。
私は林檎を3つ買って、娘の手を引いて帰り道を歩いた。
帰り道は婚姻院の前を通る。娘がそう決めている。殿方に手を振ってもらった日からこの子は毎日ここを通りたがる。学園祭で整理券の1番を引いてからは、なおさらだ。
婚姻院の屋根には巣箱がある。
秋の大会のころに、ヴァーレン商会が「殿方の故郷の縁起物」として寄進したものだ。こうのとりが子を運んでくるのだそうだ。巣箱にはまだ一度も鳥が入ったことがない。
娘は巣箱を見上げてから、私に聞いた。
「おかあさん。さっきの、なんのはなし?」
「……殿方が、故郷へお帰りになるかもしれないって」
言ってから、しまったと思った。8歳の娘に聞かせる話ではない。
娘は少し考えた。それから、巣箱を指さした。
「とのがたの、こきょうの、とり」
「……そうね」
「じゃあ、とのがた、こうのとりにのって、かえっちゃうの?」
大きな声だった。
この子は、いつも大きな声で言う。
窓口の前に並んでいた淑女たちが、いっせいにこちらを見た。それから巣箱を見上げた。
「こうのとりに……」
「乗って……」
「……お帰りに」
声が前へ前へと伝わっていった。行列は窓口まで続いている。窓口に着くころには、もう誰も「かもしれない」とは言っていなかった。
落ち着け、私。
8歳の言うことである。鳥に人は乗れない。乗れないはずだ。殿方の故郷のことは知らない。殿方の故郷の鳥なら乗れるのかもしれない。いや、乗れない。乗れたら困る。
落ち着け。困っているのは私だけではない。行列の全員が困っている。それは落ち着く理由にならない。
淑女たちが次々と巣箱を見上げたまま泣きだした。誰も声は出さない。泣いているときも淑女の平静は保つものだ。顔だけが濡れていく。
娘が私の袖を引いた。
「おかあさん。とのがた、かえっちゃったら、もう、てをふってくれない?」
私は答えられなかった。
窓口から眼鏡をかけた受付係が出てきた。行列を見回して、手にした帳面に何か書きつける。
「お並びの皆さま。本日、取り下げのご申請は、1件もございません」
それから少しだけ眼鏡を直した。
「皆さま、泣いておられるだけです。そのように記録いたします」
受付係は窓口に戻っていった。行列は少しも減らなかった。誰も取り下げに来たのではない。泣きに来たのだから。
娘は巣箱をじっと見ている。
「こうのとり、きたら、わたし、とめる」
娘はきっぱりと言った。整理券を握りしめたときと、同じ顔だった。
鳥を止めて、殿方を引き止める。
この国の淑女が誰も口にしたことのない言葉を、8歳の娘が婚姻院の前で言った。
私は娘の頭をなでようとして、巣箱を見上げた。
巣箱は空だった。
そのまま、静かに石畳に座りこんだ。
「おかあさん、またやすんでるの?」
「……ちょっとだけね」
林檎が3つ、坂を転がっていった。
――――――――――――――――――
【リゼット視点】
学園新聞部、部長。部員1名。
遊戯部、部員。
本日、わたしは号外に初めて「訂正」と書いた。
*
セレスタ学園新聞 号外 第14号【訂正】
見出し:殿方、婚約を解消せず 故郷へも帰らず こうのとりにも乗らず
昨日より学園内および王都にて「殿方、婚約を全部解消」との噂が広まっているが、これは誤りである。
本日放課後、殿方リツ殿が会見を開かれた。以下、殿方のお言葉を一字一句そのまま記す。
「婚約を、解消したいんじゃないです。どうしたらいいか、まだ分からないだけです。みんなのことを、もっとちゃんと知りたいです。一緒に考えさせてください」
なお殿方は「大事なことなので、2回言います」と述べられ、同じ内容を2回述べられた。
会見の冒頭、殿方は22秒にわたり頭を下げられた。本紙は長すぎると申し上げた。
会見中の「記憶にございません」とのご発言は、殿方ご本人の申し出により取り消された。殿方は入学の日に「友達」とおっしゃっている。
挿絵:会見の殿方(写し絵 ロジーナ)
*
号外は1000部刷った。
第14号は本紙で初めて挿絵の入った号外である。ロジーナの写し絵は頭を下げた殿方の後頭部だった。3枚のうちいちばんよく描けた1枚を使った。後頭部でも、殿方だと全員に分かる。
学園で300部。残りの700部は、ヴァーレン商会の早馬車で王都へ運ばれた。
コルネリアは会見のあいだじゅう部屋の隅で早馬車の手配をしていた。運び賃をどの欄から出すのか、わたしは横から見ていた。
帳面の『殿方取り分』の欄である。
殿方の名前で稼いだお金で、殿方の言葉を運ぶ。商人の筋は通っている。通っているのに、コルネリアのペン先はその欄の上で止まった。インクの染みが金額を半分隠すまで広がった。
「計算は、合っておりますわ」
コルネリアはそう言った。誰も聞いていないのに。
手綱は、コルネリアが自分で取ったらしい。
その夜のうちに婚姻院の前の行列は消えた。泣いていた淑女たちは、号外を胸に抱えて帰っていったそうだ。
殿方館にも届けた。夜遅く、館長殿の使いがアルフォンス殿の返事を持ってきた。
『読んだ。ノルベルトが箱から出た。エミールが泣きやんだ。後頭部の絵が、よい。礼を言う』
*
伝言というのは、恐ろしいものだと思う。
殿方は「一緒に考えさせてください」とおっしゃった。食堂のいちばん奥に届くころには「ごめんなさい」だけが残っていた。王都に届くころには「解消」。婚姻院の前では、こうのとりまで飛んでいた。
淑女たちは殿方の言葉を3mの外から聞く。直接は聞けない。誰かから聞く。その誰かも、誰かから聞いている。
わたしは号外を書いてきた。
入学の日からずっと。殿方の言葉を、3mの外にいる淑女たちに届けてきた。
そして第1号で、「友達」を「友の契り」と書いた。
あれも伝言だった。
食堂で最初にささやいたのは3m先の席の誰かだ。でも、本当の最初の1人は160日前の夜にいた。
わたしだ。
*
会見のあとで、殿方は部室の椅子に座りこんでいた。
22秒のお辞儀と、3秒のお辞儀と、「記憶にございません」の取り消しで、少し疲れたらしい。
見物の生徒たちは中庭から帰った。生徒会長は床の線を消して、ヘルガ殿と一緒に出ていった。ロジーナは写し絵を、コルネリアは帳面を抱えて出ていった。イルゼ殿は扉の外に立っている。
線は会見のあいだだけのものだ。消えた今、ここはまた遊戯部の部室で、わたしは部員である。常設許可証の範囲内だ。確かめた。3回。
わたしは帳面を閉じて、殿方の前に立った。
「殿方。わたしも、謝らなければいけないことがあります」
殿方が顔を上げた。
「入学の日の号外です。殿方は『友達』とおっしゃいました。わたしは『友の契り』と書きました」
「……はい」
「卵焼きの日の次の朝、婚姻院に19通の申請書が届きました。19通全部にわたしの号外が添えてあったそうです。その19通のうちの1通は、わたしが出しました」
殿方はしばらく黙っていた。
「リゼットさんは、どうして申請したんですか」
記者は嘘を書かない。部員も、たぶん嘘をつかない。
「……殿方を、いちばん近くで見ていたかったからです。記者として」
「記者として?」
「最初は、そうでした」
殿方は少しだけ首をかしげた。
「今は?」
「今は」
百物語の夜に、帳面に書いた1行を思い出した。あの夜いちばん小さな字で書いた1行だ。
「……殿方の、友達になりたいと思っています」
殿方の目が、少しだけ大きくなった。
それから、口を開いた。
「じゃあ、僕と、友達に……」
【速報】殿方、記者に友の契り【未遂】【続報待て】
落ち着け、わたし。
見出しにするな。記事にするな。これは取材ではない。
閉じたはずの帳面が、いつの間にか開いていた。ペンも握っている。『殿方』の2文字でページの半分が埋まった。『記者に』で残りの半分。『友』の1文字で、次のページが終わった。
殿方はそこで、自分の口を手で押さえた。
「……今の、なしです。この言葉、たぶん、まだ使っちゃいけないので」
【訂正】
……訂正、本日2回目。
1日に2回訂正を出す新聞は、たぶん信用されない。でも、どちらも殿方ご本人の取り消しである。本紙の誤りではない。
……1回目のほうは、元をたどれば本紙の誤りだった。
わたしはページをめくって、いつもの大きさの字で書き留めた。
殿方、「友達に」と言いかけて、取り消す。
理由:この言葉の意味が、まだ決まっていないため。
保留。
殿方はそれを見て、少しだけ笑った。
5日ぶりに見る笑顔だった。
この1行は、号外には載せない。
伝言にしたくなかった。
わたしが、直接聞いたのだから。




