第39話 あと1枚
【リツ視点】
入学して155日目の放課後。遊戯部の部室の机に新しい札の山ができていた。
赤・青・黄・緑の4色。それぞれに0から9までの数字の札と、矢印の札と「4枚引け」の札がある。全部で108枚。
色を塗ったのも、絵を描いたのも、字を書いたのもロジーナさんだ。3晩で仕上げたらしい。目の下が少し青い。
矢印の札には、赤い馬車がくるっと向きを変える絵が描いてある。「4枚引け」の札には扇の形に開いた4枚の札の絵。その下に部室の入り口の札と同じ字で『4枚引け』。
厚紙はまたイルゼさんの「予備です」から出てきた。大富豪のときの200枚の残りが、まだあったのだ。イルゼさんの予備には底がない。
「今日の遊びは、『あと1』です!」
故郷では、遠い国の言葉で「1」という意味の、短い名前で呼ばれていた遊びだ。
前世ではネットの対戦で何百回も遊んだ。相手の顔は見えない。最後の1枚になったら、その名前のボタンを押す。僕はよく押し忘れて、2枚引かされた。
でも、この国でその短い名前を叫んでも、たぶん誰にも通じない。だから意味のほうをもらって、『あと1』にした。
「故郷では、何という名前なのですか」
リゼットさんがペンを構えた。
「えっと、向こうの言葉で『1』って意味です。こっちで言っても、たぶん呪文にしか聞こえないので」
「呪文」
リゼットさんの帳面に『故郷の名:呪文(意味は1)』と書きこまれた。
「名前は短いほうが売れますわ。『あと1』なら、子どもでも言えます」
コルネリアさんはもう札の山の厚みを指で測っていた。108枚で1組。商会で刷ったらいくらになるか、考えている顔だ。
僕は札の山を両手で示した。
「前の人が出した札と、色か数字が同じ札を出していきます。手札が全部なくなった人の勝ち。矢印の札を出すと、順番が逆回りになります。『4枚引け』を出されたら、次の人は4枚引きます」
それから手札を1枚だけ持って、みんなに見せた。
「一番大事なルールです。手札が残り1枚になったら、『あと1』って声に出して言います。言い忘れたら、罰として2枚引きます」
コルネリアさんの手が止まった。リゼットさんの手も止まった。
2人とも僕の手の中の1枚をじっと見ている。
卓を囲むのは遊戯部の4人と、エレオノーラ先輩とヘルガさんの6人だ。今日は月に1度の監査の日らしい。今月はもう2回目だけど。
「イルゼさんも、やりませんか」
「……見張りですので」
イルゼさんは部室の入り口に立っていた。いつもの2歩後ろではなく入り口。右手を剣の柄に置いている。
札を配り終えても、イルゼさんは動かなかった。最初の札が出ても2周目に入っても動かない。まばたきをしているのかどうかも、ここからだと分からない。
*
最初に手札が1枚になったのは、エレオノーラ先輩だった。
先輩は最後の1枚を胸の前で握って、背筋を伸ばした。
「……のこり、1枚に、ございます」
「惜しいです、先輩! 『あと1』です!」
「淑女が、卓で、声を上げるのは」
「このゲームは、言わないとだめなんです」
先輩は2回まばたきをした。
「……あ、あと、1」
小さい声だった。でも、ちゃんと聞こえた。セーフだ。
次の順番で、先輩は最後の札を出そうとした。出なかった。右手が札を握ったまま開かないのだ。
ヘルガさんが黙って先輩の指を1本ずつ開いた。札がぱたりと場に落ちる。青の7だった。
「上がりです、先輩!」
「……上がって、おります」
先輩の右手は、札がなくなっても指の形がそのままだった。
ヘルガさんは手札が1枚になると、札を顔の横に掲げて言った。
「……1」
「短い! でもセーフです!」
ヘルガさんは小さくうなずいて、次の順番で上がった。何も言わなかった。
*
気になったのは、リゼットさんだった。
リゼットさんは手札の横に帳面を開いていた。ペンも持っている。いつもなら、僕が何か言うたびに字が大きくなっていく帳面だ。
今日は、1行も書いていなかった。
ペンの先は白いページの上で止まったままだ。
「リゼットさん、今日は書かないんですか」
「……今日は、見るだけにします」
リゼットさんはそう言ったけれど、帳面を閉じなかった。開いたまま何も書かなかった。
*
僕の手札が2枚になった。
赤の3と黄の8。次に赤か3が来れば出せる。そうすれば「あと1」だ。
「これ、あと1って言ったら負けるフラグですね」
僕が言うと、隣のコルネリアさんが札を1枚出した。
赤の「4枚引け」だった。
「リツ殿。5枚ですわ」
「……4枚、ですよね?」
コルネリアさんは札の字を見た。ロジーナさんのきれいな字で『4枚引け』と書いてある。
「……4枚、ですわ」
コルネリアさんは手札の横の帳面にペンを走らせかけて、止めた。白いページに、インクの染みが1つ残った。
「コルネリアさんが数え間違えるの、初めて見ました」
「……わたくしも、初めて見ましたわ」
僕は山から4枚引いた。手札は6枚になった。
さっきまであと1歩だったのに。
「ここからが、本当の地獄だ……」
「じ、じごく、ですか」
ロジーナさんが小さな声で聞いた。
「故郷の強い人が言う台詞です。追いつめられると言うんです」
「つ、強い人が、追いつめられる……」
ロジーナさんは自分の描いた「4枚引け」の札を見つめていた。地獄を描いてしまった、という顔だった。
「ロジーナさん、この札、すごく見やすいです。馬車の絵、最高です」
ロジーナさんは両手で顔を覆った。
結局、僕は9枚残して最下位だった。フラグはちゃんと回収された。
*
今日のみんなは少しだけ変だった。
コルネリアさんは数え間違えた。リゼットさんは何も書かない。イルゼさんは入り口で1回も動かない。
たぶん、このあと来るお客さんのせいだ。
昨日、学園長に言われたのだ。
「明日の放課後、部室を少しお借りします。客が3人。リツ殿には何か4人で遊べるものを教えていただきたい」
学園長のお客さんだ。みんな緊張しているのだと思う。
*
扉が叩かれた。
入ってきたのは学園長と、60歳は過ぎていそうな静かな女の人と、白髪をまとめたおばあさん。
それから、灰色のフードの人。
「女王様ですよね」
「通りすがりの者である」
フードの奥から、いつもの答えが返ってきた。後ろには顔に古い傷のある背の高い人が立っている。
「ゲルトルートさんですよね」
「人違いです。失礼いたします」
学園長がお客さんを紹介してくれた。
「王都婚姻院の院長、ブリギッテ殿。それから、ローデ家の先代のご当主です」
「婚姻院って、王都のあの行列のできる役所ですよね」
院長さんは少しだけ間をおいた。
「……そうです。行列の役所です」
ローデ家の先代。ロジーナさんのおばあさんだ。新年の儀で見かけた気がする。
僕が振り返ると、ロジーナさんはもう両手で顔を覆っていた。
部員のみんなと先輩たちは、それで帰ることになった。コルネリアさんは扉の前で院長さんに頭を下げた。いつもより深く、長く。リゼットさんは開いたままの帳面を胸に抱えて出ていった。
イルゼさんだけが、入り口に残った。ゲルトルートさんはその反対側に立った。扉の外には背の高い女の人が2人残って、扉の両側に立っていた。
*
お客さんの4人は、言われなくても机の周りに座った。
冠の印の前に女王様。筆の印の前にご隠居さん。鍵の印の前に院長さん。笑った顔の印の前に学園長。
机の4つの辺の端に彫ってある、あの4つの印だ。
僕は息をのんだ。
ずっと昔、この机を4人で囲んで点数を刻んでいた人たち。冠と、筆と、鍵と、笑った顔。
4つの印の前に4人がそろっていた。
鍵の印の前の椅子は、物置の奥から出てきた脚の短い丸椅子だった。院長さんは座る前に、その椅子の座面をそっと手のひらで撫でていた。
「昔の物置の机の件で、集まったのです」
学園長が言った。
「何か、遊べるものはありますか。故郷の遊戯で、4人で」
「ちょうど、いいのがあります!」
僕はさっきの札の山を机の真ん中に置いた。
*
ルールを説明すると、院長さんが札を1枚手に取った。
「この、矢印の札は」
「出すと、順番が逆回りになります」
「この、『4枚引け』の札は」
「次の人に、4枚引かせます」
「……物騒ですね」
院長さんの目が少しだけ光った。
「それから、一番大事なルールがあります」
僕は手札を1枚だけ持って見せた。
「手札が残り1枚になったら、『あと1』って言わなきゃいけないんです。言い忘れたら、2枚引きます」
4人が同時に僕を見た。
それから4人で顔を見合わせた。
「あと1、ですか」
「はい。あと1です」
学園長がほんの少しだけ目を伏せた。院長さんは丸椅子の上で座り直した。ご隠居さんは口元に手を当て、女王様はフードの奥で何か小さく言った。
何かおかしなことを言っただろうか。普通のルールなんだけど。
*
僕は最初の何回かを一緒に遊んで、ルールを覚えてもらった。
女王様が矢印の札を出した。
「……革命である」
部室の扉の外で、重いものが2つ倒れる音がした。扉の両側に立っていた背の高い女の人たちだ。
「女王様、それは革命じゃなくて逆回りです。あと、革命って王宮の中でしか言っちゃいけないんじゃ」
「通りすがりの者は、布告を知らぬ」
ゲルトルートさんが入り口で剣の柄を押さえていた。
「……失礼いたします」
隣のイルゼさんはやっぱり動かなかった。
*
ご隠居さんは札を出す前に、1枚ずつ絵を眺めていた。
「ご隠居さん、ご隠居さんの番です」
「ご隠居さん」
「ご隠居さん、番です」
3回目でようやく顔を上げた。
「この馬車の線は、孫の線ですね」
「はい! ロジーナさんが描きました!」
ご隠居さんは何も言わずに、赤い馬車の札をそっと場に出した。出す前にもう一度だけ絵を見ていた。
女王様は自分の番が来るたびに、同じことを聞いた。
「余の番か」
「はい」
「余の番か」
「はい、女王様の番です」
毎回2回聞いた。学園長と院長さんとご隠居さんが、そのたびに少しだけ目を合わせていた。昔から知っている癖を見る目だった。
*
3回目のときに学園長が「4枚引け」を出した。次は院長さんだ。
僕は大事なルールを1つ思い出した。
「あ、そうだ。『4枚引け』の上には、『4枚引け』を重ねてもいいんです。そしたら次の人が2回分の8枚を引きます。故郷のローカルルールなんですけど」
院長さんは自分の手札を見た。
1枚抜いて、学園長の札の上に静かに重ねた。黄色の「4枚引け」だった。
「……倍で、返します」
部室が静かになった。
次は女王様の番だった。
「余が、8枚か」
「はい」
「余が、8枚か」
「はい、8枚です」
女王様は黙って8枚引いた。手札が扇みたいに広がって、フードの奥の顔が半分隠れた。
「院長さん、今の台詞は僕の故郷ではすごく有名なんです」
「……そうですか」
院長さんの目がまた少しだけ光った。
*
学園長は最初の1回で勝っていた。
「あと1」
言うのも忘れなかった。言いながら、笑った顔の印を指でとんとんと2回叩いていた。
夕方になって、僕は部屋に戻ることにした。4人だけで話したいことがあるらしい。
「イルゼさん、帰りましょう」
イルゼさんはそこで初めて動いた。柄から手を離して、2歩後ろの位置に戻った。
部室の扉を閉める前に振り返った。
4人は机を囲んだまま、札を配り直している。古い机の4つの印の前で、4人とも少しだけ笑っていた。
僕は扉をそっと閉めた。
前世の病室の窓から見た、外の誰かの楽しそうな姿を思い出した。あのころはうらやましかった。
今はちょっとだけ違う。
あの4人にこの机を返せてよかった、と思った。
*
夜、寮の部屋で横になっていると、扉の外から小さな音が聞こえた。
しゅっ、しゅっ、という音。
イルゼさんが剣の手入れをしている音だ。
でも、いつもと少し違う。砥石の音ではなく布の音だった。イルゼさんの砥石は、雪灯り祭りの日にヘルガさんのところへ行ったのだ。
布で拭く音がずっと続いている。
「イルゼさん。まだ拭いてるんですか」
「……はい。念入りに」
扉の向こうで音が一度だけ止まった。それからまた、しゅっ、しゅっ。
僕は天井を見ながら、今日のことを考えた。
コルネリアさんの5枚。リゼットさんの白いページ。入り口で動かないイルゼさん。お客さんが来る前から、みんな変だった気がする。
これは、あれかもしれない。
明日、小テストがあるのだ。
みんな知っていて、僕だけ知らないやつ。前世の病室にいたころ、たまに学校の先生がプリントを届けてくれた。いつも、テストが終わってから届いた。
そういうのは、だいたい当日の朝に分かるのだ。
布の音を聞きながら目を閉じた。
音は、僕が眠るまで止まらなかった。
――――――――――――――――――
【ブリギッテ視点】
王都婚姻院、院長。ブリギッテ。63歳。
46年前、寮の物置の鍵を預かっていた娘である。
本日、私は「あと1」と言い忘れた。
*
部室に入って、まず机を見た。
決勝の日に観覧席から見た机である。そばで見るのは46年ぶりだ。天板の傷は記憶より少し浅い。私の背が伸びたのではない。目が遠くなったのだ。
鍵の印の前に脚の短い丸椅子があった。あの物置の奥にあった椅子だ。
腰を下ろした。
落ち着け、ブリギッテ。63歳である。婚姻院の院長である。386条を条番号ごとそらんじる女である。鍵の娘ではない。
……鍵の席は、まだ私の尻の形を覚えていた。
ぴたりと収まった。46年たってもぴたりと。
向かいでオティーリエが口の端を動かした。こちらの顔に何か出ていたらしい。淑女の平静の教本を書いた女の前で、私は座っただけで負けている。
*
殿方が遊び方を説明された。
札を1枚手に取る。黄色の地に扇の形の4枚の札の絵。下に『4枚引け』の字。
次の者に、4枚引かせる。
理由は要らない。申し開きも要らない。添付の書類も受理の印も要らない。出せば相手が引く。それだけである。
婚姻法386条のどこにも、これほど話の早い条文はない。
欲しい。
この札が、窓口に1枚欲しい。
「導入は、可能か」
と言いかけて、喉のところで止めた。前にこの台詞を口にしたとき、クラリッサが「院長」と言ったきり固まったのを覚えている。
代わりに「……物騒ですね」と言った。物騒なのは、私の胸の内のほうである。
*
殿方が手札を1枚だけ持って見せられた。
「手札が残り1枚になったら、『あと1』って言わなきゃいけないんです。言い忘れたら、2枚引きます」
4人で顔を見合わせた。
四つ辻と同じ決まりだった。
最後の1枚を出すときは「辻」と声に出す。言い忘れれば取った辻を1つ返す。46年前、その決まりで一番多く辻を返したのは私である。
殿方は四つ辻を知らない。知らないのに、46年前の物置と同じ決まりを持ってこられた。
オティーリエが目を伏せた。隠居は口元を押さえた。陛下はフードの奥で「辻」と小さくおっしゃった。
私は襟を直した。直すところなど、どこもなかった。
*
オティーリエの「4枚引け」が私の前に出たとき、殿方が重ねてよい決まりを教えてくださった。
手札を見た。黄色の「4枚引け」が1枚ある。
重ねれば、次は陛下である。
陛下に8枚。
落ち着け、ブリギッテ。相手は陛下である。第56代である。
……陛下は、王女の娘である。
王女は46年前、私の辻を何度も笑った。床を叩いて笑った。勝ち越しのかかった晩に限って言い忘れる私を、毎晩。
46年分の借りである。
「……倍で、返します」
口から出ていた。殿方によると、故郷では有名な台詞だそうだ。殿方の故郷にも、借りを溜めこんだ者がいるらしい。
陛下は「余が、8枚か」を2回おっしゃった。母君と同じ癖である。図星か、何かを決めるときに出る癖だと聞いている。
8枚の札で顔が半分隠れた陛下を見て、隠居が肩を震わせた。
*
夕方になって殿方が部屋に戻られた。
「イルゼさん、帰りましょう」
入り口の騎士がそこで初めて柄から手を離した。私たちが部室に入ってから、あの騎士は一度も動いていなかった。殿方が札を引くたびに、殿方の顔だけを見ていた。
扉が閉まった。
近衛の団長殿が廊下で倒れていた2名を起こしてから、扉の外に立った。
私は鞄から1冊の古い法典を出した。
婚姻法。全386条。
第100条のページを開いて、机の真ん中に置いた。札の山の横である。
婚姻法 第100条
婚約者が100名を超えたときは、婚姻院は3日以内に、殿方本人にその旨を通知しなければならない。
「昨日の朝、超えた」
私は言った。
「100人目は、ヴァーレン商会の三女。夜明け前に自分で赤い馬車を走らせてきたそうだ。窓口が開く前に、門の前に着いていた。昼までに、さらに36人。今は136人」
オティーリエが目を閉じた。
隠居が手に持っていた札を伏せた。
陛下は冠の印を指で押さえておられた。
「期限は」
「昨日の朝から3日。明後日の日暮れまで」
*
この条文を書いたのは、第38代の陛下である。婚姻法を定めた女王だ。
400年前のことだ。当時、殿方の婚約者は多くても20人か30人だった。100人を超える殿方など、誰も考えていなかった。万一のための条文である。
400年間、一度も使われていない。
私は婚姻院に入った日から、この条文を知っていた。386条を全部覚えたからだ。使う日は来ないと思っていた。来ないと思っている条文ほど、よく覚えているものである。
「陛下のお力で、止めることは」
隠居が聞いた。
陛下は首を振られた。
「第38代が定めた。女王もまた、法の下にある」
「では」
「通知は、出す」
陛下はそれだけ言って、手札を1枚出された。緑の5だった。
*
オティーリエが「4枚引け」を出した。次は陛下である。陛下は黙って4枚引かれた。今度は2回聞かれなかった。
オティーリエが言った。
「殿方は、知ったら、どうなさるでしょう」
誰も答えなかった。
私は殿方の顔を思い出していた。
大会の本戦と決勝の日に観覧席から見た顔だ。卓を囲む3人の顔を順番に見て、楽しそうに笑っていた。
閉会の挨拶もすぐ前で聞いた。
「麻雀って、4人いないとできないんです」
ずっと遠くの顔の見えない人と打っていた、とも言われた。
その人がこの国で友達を作ろうとした。
友の契り、という言葉で。
400年前の言葉で。
「……誰が、届けますか」
隠居が聞いた。
「受付係のクラリッサに」
私は答えた。
「あの子はこの5か月、殿方の申請書を全部自分の手で受理してきた。1通も、ほかの者に回さなかった。不受理の印を押しすぎて、印の柄にひびが入った子だ」
「その子は、殿方の」
「卵焼きを、学園祭で1切れ食べたそうだ。お代だけ払って、返礼はしなかった」
オティーリエの口の端が少しだけ動いた。
「強い子ですね」
「私の部下だ」
*
札が回ってきた。
私の手札は2枚だった。黄の3と赤の7。
場の札は黄の9。
私は黄の3を出した。
手札があと1枚になった。
言わなければいけないことを考えていた。殿方に何と伝えるか。通知の文面。期限。クラリッサの肩に乗せるもの。
陛下の番が来た。陛下は札を出しかけて手を止められた。
「ブリギッテ」
「はい」
「あと1、と言っておらぬ」
オティーリエが笑った顔の印を指で叩いた。
隠居が札の角で私の手札を指した。
落ち着け、ブリギッテ。386条を言える女が、2文字を言えなかった。
……2文字ではない。「あと」と「1」で、3文字である。数えている場合ではない。
私は自分の1枚の手札を見て、2枚引いた。
46年前も、私はよくこうなった。
鍵の娘はいつも肝心なところで言い忘れる。王女によく笑われた。
陛下は母君と同じ顔で笑っておられた。床は叩かれなかった。叩きかけて、やめておられた。
*
日が暮れるころ、通知の文面を書いた。
通知
宛先:殿方リツ殿
婚姻法第100条に基づき、通知いたします。
貴殿の婚約者は、136名です。
王都婚姻院
書いてから文面を4人で読んだ。
短すぎる、とオティーリエが言った。
長くしても同じことだ、と隠居が言った。
陛下は何も言われなかった。
それからペンを取って、文面の下に1行だけ書き足された。
なお、ご不明の点は、何なりと尋ねられよ。答える者が、そばにおる。
陛下の字だった。
答える者。
届ける者でも、知らせる者でもなく。陛下はそう書かれた。
*
帰り際、部室の扉の前で振り返った。
机の上に札が出しっぱなしになっていた。
私の手札の最後の1枚は赤の7だった。
出せなかった札である。
私はそれを、鍵の印の上にそっと置いた。
今夜、クラリッサに通知を渡す。届けるのは、明日。
あと1日。
今度は、言い忘れないことにした。
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