第36話 雪合戦
【リツ視点】
入学して146日目の休日。王都に初めて雪が積もった。
朝、寮の窓を開けると校庭が真っ白だった。
前世の病室の窓からも、雪は何度か見ている。でもあの窓は開かなかった。雪に触ったことは一度もない。
僕は寮を飛び出して、校庭の真ん中で雪をすくった。
冷たい。
手のひらで溶けて、指の間から水になって落ちていく。
「イルゼさん! 雪って冷たいんですね!」
「……はい。雪ですので」
イルゼさんは2歩後ろで、冬用の手袋を持って立っていた。走って出てきたので、持ってくるのを忘れていたのだ。
うれしくなって、僕は雪の上に背中から倒れた。
「リツ様!」
イルゼさんが雪を蹴って駆け寄ってくる。
「大丈夫です! 倒れたんじゃなくて、寝転んだんです。故郷の遊びです」
「……寝転ぶ、遊び?」
「手と足をこうやってばたばた動かすと、雪に天使の形ができるんです」
ばたばたやってから起き上がると、ちゃんと形ができていた。羽の生えた人の形だ。
イルゼさんは雪の上の天使をしばらく見下ろしている。それから黙って僕の前に手袋を差し出した。
「お風邪を、召されますので」
声が少しだけ低い。風邪の日のことを思い出したのかもしれない。
*
門の前に赤い早馬車が止まっていた。
降りてきたのは東部警備隊の人たちだ。グンヒルト教官が冬の合同訓練に呼んだらしい。副官のドーラさんと訓練生のミアさん、それに隊員の人たちが10人。夜通し走ってきたのに、全員の背筋がまっすぐだった。
「東部警備隊、副官ドーラであります。本日は、冬の合同訓練であります」
「ドーラさん、ミアさん、お久しぶりです! 紙飛行機の日以来ですね!」
ドーラさんの兜が雪の上に落ちた。
1回目。
ミアさんは寮の壁のほうへ歩いていく。雪の上の足跡が、まっすぐ壁まで続いていた。
*
「雪合戦をしましょう!」
僕が言うと、グンヒルト教官が腕を組んだ。
「雪合戦、とは!」
教官は聞き返すだけでも声が大きい。
「雪を丸めて投げ合うんです。当たったら陣地の外に出ます。最後まで残ったほうの勝ちです」
「なるほど! 投擲の訓練になる!」
教官はすぐにうなずいた。
部室の壁のやりたい遊びリストに、雪合戦は最初から書いてある。病室の窓から雪を見るたびに、ずっとやってみたかった遊びだ。
学園の組は僕と遊戯部の3人、エレオノーラ先輩とヘルガさん。それから2年生の有志が6人。イルゼさんは僕の護衛なので学園の組になる。
警備隊の組はドーラさんとミアさんと隊員の10人。
審判は近衛騎士団長のゲルトルートさんがやってくれることになった。たまたま視察に来ていたらしい。
「たまたま、ですか」
「たまたまでございます。失礼いたします」
福袋の日に最後尾の板を持っていた人違いの人も、たまたまだったのかもしれない。
*
試合が始まってすぐに問題が起きた。
誰も僕に雪玉を投げないのだ。
警備隊の人たちは僕の前に来ると、雪玉を持ったまま固まる。淑女は殿方に雪玉を投げてはならない。たぶん、どこかにそういう決まりがあるのだと思う。
僕は気がついた。
これ、使える。
「みんな、僕の後ろに並んでください!」
僕は陣地から1歩前に出た。
「僕がタンクやります!」
野外実習の日と同じ台詞だ。あの日は盾ごと吹き飛ばされた。今日は誰も吹き飛ばしに来ない。
僕がゆっくり進むと、警備隊の人たちは雪玉を持ったままじりじり下がっていく。僕の後ろからコルネリアさんとリゼットさんとヘルガさんが雪玉を投げる。警備隊の人が次々に当たって、陣地の外に出ていった。ロジーナさんは雪玉を投げずに雪の上に指で何か描いている。のぞいてみたら警備隊の陣地の見取り図だった。
ドーラさんが叫んだ。
「卑怯であります、リツ殿!」
「卑怯は、褒め言葉です!」
前世のアニメで悪い人がよく言っていた台詞だ。一度言ってみたかった。
言ってから気がついた。それを言う人は、だいたい最後に負ける。
*
エレオノーラ先輩は、雪玉を投げる前に必ず右手でぎゅっと握っていた。握るたびに指の間から白い冷気が立ちのぼる。
投げた雪玉が警備隊の陣地の雪だるまに当たった。がちん、と音がして雪だるまの頭が転がる。
「先輩、それ、氷になってます!」
「……つい、癖で」
野外実習で森の気温を2度下げた人だ。
先輩は次の雪玉を握った。またぴしりと固まる音がする。
そのまま先輩の右手が開かなくなった。
氷の玉を握りしめたまま、先輩は自分の右手を見下ろしている。左手で指を1本ずつ引っぱっても、指は氷にくっついて動かない。
「先輩、手、つりました?」
「……つって、おりません」
「でも、開いてないです」
「……つって、おりません」
ヘルガさんが無言で近づいてきた。先輩の右の手首を持って、手ごと雪の中に深く埋める。
しばらく、そのまま。
ヘルガさんが手首を引き抜くと、先輩の手は開いていた。氷の玉は雪の中に残っている。ヘルガさんはその上に雪をかぶせて、靴で2回踏み固めた。
証拠が埋められた。
*
ドーラさんの兜に雪玉が当たって、兜が落ちる。
2回目。
ドーラさんは兜を拾ってかぶり直し、陣地の中で背筋を伸ばした。
「この程度、規定のうちであります!」
大きくうなずいた拍子に、兜がまた落ちた。今度は何も当たっていない。
3回目。
陣地の外ではグンヒルト教官が叫んでいた。
「今のは、くりてぃかるです!」
どれのことかは分からない。
*
警備隊が残り3人になったとき、審判のゲルトルートさんが手を挙げた。
「審判、警備隊の組に加わります」
「えっ、審判は」
「たまたま、加わることにいたしました」
ゲルトルートさんは雪玉を1つ握り、まっすぐイルゼさんを見た。
イルゼさんも雪玉を握る。
2人の間に風が吹いた。粉雪が足元をさらさらと転がっていく。
前世のテレビで見た西部劇の決闘みたいだ。誰か口笛を吹いてくれないかな、と思う。
2人は同時に投げた。
ゲルトルートさんの雪玉は、イルゼさんの肩のすぐ横を通り過ぎていく。
イルゼさんの雪玉は、ゲルトルートさんの胸当てのど真ん中。
ゲルトルートさんは自分の胸当ての雪を見て、それから笑った。
「腕を上げたな、イルゼ」
「……毎朝、素振りをしておりますので」
*
最後に残ったのはミアさんだった。
ミアさんは雪玉を両手に1つずつ持って、目をぎゅっと閉じている。
紙飛行機の日と同じだ。あの日のミアさんは目を閉じて投げて、自分の紙飛行機におでこを撃ち落とされていた。
「ミアさん、目を開けても大丈夫ですよ」
「む、無理です」
「じゃあ、考えないでください。考えるな、感じるんです!」
前世の映画で、強い人が弟子に言っていた台詞だ。
ミアさんは「ひゃい」と言って、目を閉じたまま雪玉を投げた。
雪玉がまっすぐ飛んでくる。
僕の顔の真ん中に当たった。
冷たい。
校庭がしんとした。
ミアさんが目を開ける。僕の顔を見る。雪まみれの僕の顔を。
ミアさんはそのまま、後ろの雪の中に倒れた。
僕は顔の雪を手で払って笑った。
「ナイスショットです、ミアさん!」
本当に感じて投げたのだ。すごい。
それから足元の雪をすくって丸めた。
「お返しです!」
ふわっと投げた雪玉は、倒れているミアさんのおでこにぽすっと当たった。紙飛行機の日と同じ場所だ。
ミアさんは起き上がらない。雪の中で空を見たまま、ずっと動かなかった。
ゲルトルートさんがその場にしゃがんで、懐から小さな帳面を出した。何か書きつけている。審判の記録らしい。もう審判ではないはずだけど。
*
試合が終わると、みんな雪まみれだった。鼻の頭が赤い。息が白い。
僕は手を叩いた。
「みなさん! 鍋にしましょう!」
全員がこっちを見た。
「風邪をひいたとき、イルゼさんに言ったんです。風邪が治ったら、みんなで鍋。今日です!」
風邪の日に一度、取り消した約束だ。言ってはいけない台詞だと思ったから。たぶん取り消せた。だから今日ちゃんとやれば、あれはフラグじゃなくてただの約束になる。
僕は寮の厨房に向かって歩きだした。
厨房の入り口に大きな影が立ちはだかった。
グンヒルト教官だ。両腕を広げて扉をふさいでいる。
「殿方は、お玉に触れてはなりませぬ!」
「えっ」
「婚姻法第3条です!」
2歩後ろで、イルゼさんの手袋の革がきゅっと鳴った。
「こんいんほう?」
「……今のは、殿方の心得です! 心得の、どこかです!」
教官は扉をふさいだまま言い直した。顔が赤い。
「経験者が、申しております!」
「経験者……教官、鍋で何かあったんですか」
「……ございました!」
そういえば野営訓練の日、芋煮を食べた教官は膝から崩れていた。熱い鍋で何かあったのかもしれない。
殿方の心得は全部で312条ある。お玉の条文もどこかにあるのだろう。この国の決まりは、ときどき名前と中身が合っていない。第88条で僕はそれを学んだ。
それにしても、最近は僕が料理をしようとすると、だいたい何かが起きる。はちみつレモンは王都のレモンが品切れで作れなかった。焼き菓子は館長さんの「侍女は勤務中です」で、殿方のテーブルに戻ってきた。お雑煮はイルゼさんが毒見で鍋ごと持っていった。
「じゃあ、鍋は誰が」
「私が作ります!」
「私も、お手伝いいたします」
イルゼさんが前に出た。教官とイルゼさんが並んで厨房に入っていく。
僕は入り口に立った。中には入れない。お玉にも触れない。
でも、口は出せる。
「葉っぱの野菜は、芯のほうから入れてください! 芯は煮えるのに時間がかかるんです!」
「はっ!」
「アクはこまめに取ってください!」
「あく、とは!」
「上に浮いてくる、白いもやもやです!」
「承知!」
故郷では、こういう人のことを鍋奉行という。鍋のことを全部仕切る、鍋のいちばん偉い人だ。
「僕、今日は鍋奉行です!」
「ぶぎょう……!」
教官がお玉を握ったまま、僕に向かって敬礼した。
「奉行殿! 肉は、いつ入れれば!」
「もう少しです! あと少し! ……今です!」
「はっ!」
イルゼさんは黙って野菜を切っている。包丁の音がきっちり同じ間隔で続く。毎朝の素振りと同じ速さだった。
1回だけ、僕の手が無意識にお玉のほうへ伸びた。
「お玉!」
教官の声で厨房の窓が震える。僕は手を引っこめた。
*
鍋は校庭の真ん中で食べた。
雪の上に敷物を敷いて、大きな鍋を囲む。警備隊の人たちも、遊戯部のみんなも、2年生の有志の人たちも。3mずつ離れているので、輪はものすごく大きい。ミアさんは輪のいちばん外の、寮の壁にいちばん近い席にいた。
椀を受け取ってひと口食べる。
熱い。
さっきまで雪を触っていた指に、椀の熱がじんわりしみてくる。
「おいしいです!」
イルゼさんは鍋の向こうで、お玉を持ったまま小さく息を吐いた。
風邪の日の「たぶん」の答えを、やっと見つけた人みたいな顔だった。
みんなで食べると、おいしい。故郷でもここでも、それは同じだ。
その夜、部室の壁のリストの「雪合戦」に丸をつけた。
――――――――――――――――――
【ミア視点】
東部警備隊、訓練生、ミア。
本日、わたしは殿方の顔に雪玉を当てた。
それから、殿方に雪玉を当てられた。
*
殿方に初めて会ったのは砦の中庭である。
隊長が殿方を馬に乗せて帰ってきた日だ。殿方は袖をまくった腕で手を振って、「こんにちは!」とおっしゃった。
わたしは壁に額をつけた。
壁と一体化すれば、見なかったことになると思ったのだ。
その次の夜は、殿方に「ミアさん」と呼ばれるところを思い浮かべて、また壁と一体化した。まだ呼ばれてもいないのに。
隊長の代わりに学園に来た日も、わたしは教室の壁を向いて立っていた。1時間目から3時間目まで、ずっと。放課後には殿方と紙飛行機を飛ばした。目を閉じて投げたら、紙飛行機は空で輪を描いてわたしのおでこに戻ってきた。
自分の紙飛行機に撃ち落とされた騎士は、砦の記録にもたぶんいない。
わたしは殿方の顔を、まっすぐ見たことが一度もない。
*
今朝、学園に着いたのは夜明け前だった。
早馬車の窓から、校庭に人影が見える。
隊長だ。雪の中で剣の素振りをしている。
声は聞こえない。でも唇が動いていた。数を数えているのだ。砦にいたころと同じである。隊長は誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで剣を振る。
寮の2階の窓に灯りがついた。
隊長の唇が止まる。剣も止まる。
それから隊長はまた振り始めた。唇の形からすると、数が1つ飛んでいる。
砦の隊長は、数を飛ばしたことがない。
*
雪合戦で、殿方は「僕が、たんくやります」とおっしゃった。
たんく、の意味は分からない。ただ、殿方が前に出てこられた。
誰も投げられなかった。
淑女が殿方に雪玉を投げてはならない、とは男性保護法のどこにも書いていない。書いていないのは、たぶん誰もそんなことを考えなかったからだ。
副官が「卑怯であります」と叫ぶ。副官のあんなに大きな声を、わたしは初めて聞いた。殿方は「卑怯は、褒め言葉です」とお答えになった。副官の兜は今日3回落ちている。
*
隊長と近衛の団長の勝負はすごかった。
隊長の雪玉はまっすぐ団長の胸へ。団長は笑って「腕を上げたな」とおっしゃった。
隊長は「毎朝、素振りをしておりますので」と答えた。
今朝、数を1つ飛ばしたことは言わない。
隊長は団長に勝ったあとで、殿方のほうを1回だけ振り返った。殿方は手を叩いて喜んでおられる。
隊長の口の端が、ほんの少しだけ上がった。
砦の隊長は笑わなかった人である。
*
最後に残ったのは、わたしだった。
怖くて目を閉じる。
「考えるな、感じるんです!」
殿方の声。意味は分からない。分からないので、考えなかった。
わたしは「はい」と言うつもりで「ひゃい」と言い、何も考えずに雪玉を投げた。
目を開けたら、殿方の顔が雪まみれだった。
殿方の顔に、雪玉を。
わたしが。
壁。
壁はどこだ。
落ち着け、ミア。訓練生心得第1条、「持ち場を離れるな」。離れない。離れないまま壁を探せ。
右、雪。左、雪。後ろ、雪。前、殿方。
雪原に、壁はない。
砦の壁。教室の壁。寮の壁。わたしはこの5か月、いつも壁に助けられてきた。壁は何も言わない。壁はこっちを見ない。壁のほうを向いていれば、わたしの顔は誰にも見えない。
なのに今日は、どこにも壁がない。
古い恋歌に、殿方に雪をぶつけた娘の歌はない。ないということは、結末も誰も知らないということだ。わたしは今、結末の分からない歌のいちばん最初の1行にいる。
落ち着け。落ち着けない。
壁がないなら。
わたしが、壁になるしかない。
壁は立っているもの。でも雪原の壁は、たぶん倒れているものだ。
気がついたら、雪の上に寝ていた。
空が白い。
「ナイスショットです、ミアさん!」
ないすしょっと、は分からない。ただ、怒っている声ではなかった。
「お返しです!」
おでこに何かが当たる。
冷たい。
殿方の雪玉だった。
紙飛行機の日と同じ場所だ。あの日は自分で投げたものが自分に戻ってきた。今日のは殿方が投げて、わたしに届いた。
わたしは起き上がれなかった。
起き上がったら、たぶんもう一度倒れるからだ。
*
試合のあと、殿方は「みんなで鍋」とおっしゃって厨房へ向かわれた。
グンヒルト教官が厨房の扉の前に立ちはだかる。
「殿方は、お玉に触れてはなりませぬ! 婚姻法第3条です! 経験者が申しております!」
経験者、の意味は分からない。教官の耳は、兜を落としたあとの副官と同じ色をしていた。
鍋は教官と隊長が作った。殿方は扉の前から、ぶぎょうとして指図をなさる。教官は殿方に敬礼しながら肉を入れていた。
わたしは輪のいちばん外、壁にいちばん近い席で椀を受け取った。
隊長の鍋は、砦の鍋と同じ味がする。
ちがう。少しだけ甘い。
*
夕方、砦に帰る馬車に乗る前に、隊長がわたしを呼んだ。
「ミア」
「は、はいっ」
「近衛の団長が、記録に残すそうだ。殿方に雪玉を当てた、この国で最初の淑女として」
「き、記録?」
「罰ではない。……名誉だ、と団長はおっしゃっていた」
わたしは何も言えなかった。
隊長は少しだけ黙ってから言った。
「殿方から、伝言だ」
「で、伝言?」
「『今度は、壁じゃなくて、こっちを見てください』」
隊長はそれだけ言って2歩下がった。
殿方が寮の玄関に立っておられる。雪の中で手を振って。
わたしは壁を探した。
玄関の横に、ちょうどいい壁がある。
わたしは壁のほうを向かなかった。
殿方のほうを見た。
たぶん3秒より長く見ている。学園長の通達違反である。
殿方は笑って、もう一度手を振られた。
わたしは手を振り返した。
*
馬車の中で副官に聞かれた。
「ミア。顔が赤いようであります」
「……雪が、冷たかったので」
「そうでありますか」
副官はそれだけ言って、自分の兜を膝の上に置く。
副官の兜にも雪が少しついていた。誰に当てられたのかは聞かなかった。
馬車の窓の外では、白い雪がずっと降っている。
わたしのおでこは、まだ冷たい。




