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前世で友達0人だった僕、男女比1:100の異世界で友達を作ろうとしたら婚約者が100人を超えていた ~淑女たちはクール(※内心は絶叫)~  作者: 中原九尾
第一部 「友達になってください」は求婚でした

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第35話 福袋

【リツ視点】


 入学して140日目。新しい年の2日目。


 学園は新年の2日間だけ休みになる。僕は学園長に外出の許可をもらって、朝いちばんに王都の大通りへ来ていた。もちろんイルゼさんも一緒だ。2歩後ろにいる。


 ヴァーレン商会本店の前に行列ができていた。


 行列は大通りを3回折り返して広場の噴水を1周し、それでもまだ続いている。毛布にくるまっている人もいた。夜のうちから並んでいたらしい。みんなの吐く息が白くて、列の上にうっすら雲ができている。


 僕は列の横を歩いて最後尾を探した。


 歩くと、そのぶんだけ列が外へふくらむ。僕が進めばふくらみも一緒に進む。振り返ると、通り過ぎたところから順番にまっすぐ戻っていくのが見えた。


「イルゼさん、列が波みたいになってます」


「3mでございます」


「僕、歩くだけで列の形を変えてるんですね」


「……はい」


 ちょっと面白くて2往復した。3往復目でイルゼさんに止められた。


 列のいちばん後ろに背の高い女の人が立っている。手に細長い板を掲げていた。


『最後尾はこちら』


 前世のテレビで見たことがある。大きな催しの日には、こういう板を持った人が列の最後に立つのだ。年の瀬に部室でその話をしたのは僕だった。


 板を持つ人の顔には古い傷があった。白髪まじりの短い髪で、背筋がものすごくまっすぐだ。


「ゲルトルートさんですよね」


「人違いです。最後尾はこちらです」


 そのすぐ前に、灰色のフードをかぶった人が並んでいた。手には整理券の木札をしっかり握っている。番号は998番。ゲルトルートさんの木札は999番だ。


「……女王様も、福袋ですか」


「通りすがりの者である」


 フードの人は前を向いたまま答えた。


「福袋とは、中身の分からぬ袋だと聞いた」


「はい。開けるまで分かりません」


「中身が、分からぬのか」


「分かりません」


 同じことを2回聞かれた。やっぱり本人だ。


「余……わたしは、何が入っておるか分からぬものを、買ったことがない」


 フードの奥の声は少しだけ弾んでいた。


 女王様は、袋の中身まで全部知っている暮らしをしているらしい。それはそれでちょっと大変そうだと思った。


 *


 年の瀬の部室でのことだ。


「故郷の新年には、福袋っていうのがあるんです。中身の見えない袋をお店で売っていて、開けるまで何が入っているか分からないんです」


「中身が、分からない?」


「はい。でも払ったお金より、ちょっといいものが入ってるんです。だからみんな朝から並んで買います。列の最後には『最後尾はこちら』って板を持った人が立つんですよ」


 コルネリアさんの手が止まった。


「……中身を見せずに、売る」


「中身が見える福袋は、福袋じゃないんです。夢を買うものなので」


 コルネリアさんは何も言わずに帳面を開いた。ペンが紙の上を走る音が、しばらく止まらない。横からのぞいたリゼットさんが、そっと自分の帳面を閉じていた。


 3日後、ヴァーレン商会の店先に貼り紙が出た。


『新春 殿方福袋 1000袋限り』


 *


 開店の少し前、行列のあちこちがざわざわしていた。


「中身は、何なのでしょう」


「殿方の、何かだと」


「何か、とは」


 誰も知らないのだ。中身が分からないから福袋なのだけど、初めての人には不安かもしれない。


 故郷のことなら僕が説明できる。


 僕は店の前の石段に上がって、3m先の列に向かって声を張った。


「みなさん! 福袋は、限定イベントです!」


 列がしんとした。


「今日しか買えません! 数も決まってます! 逃したら、次は来年です!」


 行列の真ん中あたりで、誰かが小さく「来年……」とつぶやいた。その周りの5、6人がそろって毛布をかぶり直す。


「でも大丈夫です! 中身は開けてのお楽しみです! 外れでも、払ったお金よりいいものが入ってます!」


 説明はちゃんと伝わったと思う。列は前よりまっすぐになった。全員が前の人の背中にぴったりくっついている。


 石段を下りてから、最後尾にも伝えに行った。


「ゲルトルートさん、聞こえましたか。限定イベントです」


「人違いです。聞こえました」


 2回目だった。


 *


 商会の店先は戦場みたいだった。


 1人1袋限り。袋の中身は語呂合わせ帳と女王の札1組と3倍鉢巻き。それから100袋に1つだけ当たりが入っている。


 当たりは押し花の栞だ。アルフォンスさんへの手紙に入れる押し花の、余った分で僕が作った。全部で10枚。


 1枚だけ四つ葉がある。中庭でまた見つけたのだ。


 この国では、四つ葉を人に贈るのは一生に一度の贈り物らしい。アルフォンスさんの手紙で知った。1回目はアルフォンスさんに贈っている。


 一生に一度を2回やるのは、たぶん反則だ。でも僕は生きるのがたぶん2回目なので、1回ずつということにしておく。


「コルネリアさん、天井はつけないんですか。100袋買ったら当たり確定、みたいな」


「1人1袋限りですわ」


「あ、そうでした」


 コルネリアさんは帳面から目を上げずに答えた。


「それに、殿方の栞に天井をつけたら、王都の商家が全部つぶれますわ」


 どういう計算なのかは、聞かないことにした。


 *


 開店からしばらくして、店員さんが1人倒れた。


 次にもう1人。行列が長すぎて、売り場の手が足りないらしい。


「僕、手伝います!」


 コルネリアさんのペンが止まった。


「リツ殿、それは」


「執事喫茶で、接客は練習しましたから」


 僕は店先に立って深くお辞儀をした。


「いらっしゃいませ!」


 行列の先頭の10人が同時に膝をついた。


 前世のテレビで、お店の人がよく言っていた言葉がある。一度本当のお店で言ってみたかった。


「お客様は、神様です!」


 膝をつく人が行列の中ほどまで広がった。噴水のほうからも、どさどさと音がする。


 横を見ると、コルネリアさんの帳面の上でインクの染みが広がっていた。ペン先は紙に刺さったまま動かない。染みはゆっくり大きくなって、帳面の端からはみ出しそうだ。


「コルネリアさん、インクが」


「……存じておりますわ」


 コルネリアさんは染みの横で何かを計算して線で消した。もう1回計算して、また消す。3回目に書いたものは、遠くからでも1文字だと分かった。


 たぶん数字ではない。


 *


 袋は、長い柄のついた木の板にのせて差し出した。コルネリアさんが店の奥から持ってきた、パン焼き窯の板だ。柄の端から先まで、ちょうど3mある。


 商人の店には、何でもあるらしい。


「ありがとうございました! 当たりが出ますように!」


 受け取った人は袋を胸に抱えて深く頭を下げ、そのまま静かに歩いていく。誰も走らない。誰も振り返らない。みんなすごくおごそかな顔をしていた。


 福袋って、こんなに静かに買うものだったかな。


 1時間で、1000袋が全部売れた。


 最後の袋を渡した相手は、最後尾の板を持っていた人だった。板は小脇に抱えている。


「ゲルトルートさん、最後の1袋です。買えてよかったですね」


「……人違いです」


 3回目だった。


 人違いの人は袋を受け取ると、少し上を向いた。目のふちが赤い。泣いている。


 袋はまだ開けていない。開ける前から泣く人を、僕は初めて見た。


 その少し先で、998番の人が袋を開けていた。


 語呂合わせ帳。3倍鉢巻き。女王の札。栞は入っていない。


 灰色のフードの人は札の束から1枚を抜き出した。第56代。ロジーナさんが描いた、笑っている女王様の絵だ。攻撃力と守備力のところは、まだ「?」のまま刷られている。


「これは、誰か」


「女王様です」


「……これは、誰か」


「笑ってる女王様です」


 フードの人は札をしばらく見ていた。それから胸のポケットにそっとしまって、残りの袋を人違いの人に渡した。


「持っておれ」


「失礼いたします」


 2人は並んで帰っていく。人違いの人の目は、まだ赤かった。


 *


 後片付けをしていると、イルゼさんが店の裏に1人で立っていた。


 手に福袋を持っている。


「イルゼさんも買ったんですか」


「……検品です」


「検品?」


「殿方の品が、正しく詰められているか」


 イルゼさんは整理券の木札も持っていた。番号は「0」。コルネリアさんの字だ。検品用の0番らしい。


「代金は、払っております」


 イルゼさんは袋を開けた。語呂合わせ帳。女王の札。3倍鉢巻き。


 それから押し花の栞が1枚。


 四つ葉だった。


 イルゼさんは栞を見つめて3秒固まった。


 それから、ものすごい速さで栞を胸当ての中にしまった。


「……検品、完了です」


 前世のゲームでは、欲しいと思うほど、いいものは出ない。


 どうやらガチャの神様は、欲しくない顔をしている人には甘いらしい。


 イルゼさんは、ものすごく欲しくない顔をしていた。


――――――――――――――――――

【コルネリア視点】


 ヴァーレン商会の三女、コルネリア。


 本日、殿方福袋1000袋、完売。所要時間1時間。


 借りが、また増えた。


 *


 年の瀬に殿方が「福袋」の話をされたとき、わたくしは帳面に3行書いた。


 中身を見せずに売る。払った額より少しよい物を入れる。夢を売る。


 商いの心得の、いちばん奥にあるものである。初代は「儲けたときこそ、客に頭を下げよ」と言った。殿方は「夢を買うものなので」とおっしゃった。言葉は違うのに、同じ場所を指している気がする。


 その夜のうちに1000袋の中身を決めた。


 当たりの栞は殿方にお願いした。殿方は余った押し花で10枚作ってくださった。10枚とも少しずつ形が違う。1枚だけ、四つ葉があった。


「当たりの中にも、1個だけ特別なのがあると楽しいんです」


 殿方はそうおっしゃった。


 この国で四つ葉を人に贈るのは、自分の幸運を渡すことである。一生に一度の贈り物だ。殿方はそれをご存じである。殿方館のアルフォンス殿から教わったと、前に部室でおっしゃっていた。


 ご存じのうえで、殿方はご自分の幸運を1000袋のどれかに入れた。誰に当たるかも分からないのに。


 わたくしは栞を店員に渡し、袋を詰めるところは見なかった。見たらたぶん、どこかの袋に手が伸びる。


 *


 殿方が売り場に立たれたのは計算外だった。


 「僕、手伝います」とおっしゃった瞬間、わたくしのペン先は帳面に刺さった。


 落ち着きなさい、コルネリア。相場を見なさい。


 殿方が、売り子。


 殿方の売り子の、相場。


 ……相場が、ない。


 女王の札のときは相場が見えなかった。今日は見えないのではない。どこにもないのである。殿方が店先に立った例は、この国の商いの記録のどこにもない。前例のないものに値はつけられない。つまり今この売り場は、値のつけられないもので満ちている。


 値のつけられないものの前に、1000人が並んでいる。


 商家の娘が寝る前に読む古い恋歌に、市場で殿方から釣り銭を受け取った娘の歌がある。娘はその銅貨を一生使わなかった。殿方の釣り銭でさえ、そうなのだ。では殿方の手から渡される福袋は。


 計算をやめなさい。ここは売り場である。歌の中ではない。


 殿方は深くお辞儀をされた。


「いらっしゃいませ!」


 先頭の10人が膝をつく。ここまでは、まだ帳面に書けた。


「お客様は、神様です!」


 インクが止まらなくなった。


 商人にとって客が神であることは知っている。初代の教えそのものである。ただ、それを殿方の口から言われると、客のほうが神でいられない。


 わたくしは残りの袋の数を数えた。1000袋から売れた袋を引くだけである。


 1回目、412。ちがう。


 2回目、214。数字が入れ替わっただけだ。


 3回目。帳面には『神』と書いてあった。


 神は数ではない。


 インクの染みは帳面の端まで広がって、机の木目に染みこんでいく。


 膝をついた淑女たちは、福袋を受け取ると殿方に深々と頭を下げて帰っていった。神様の顔ではない。参拝の帰りの顔である。


 *


 その夜、わたくしは帳面を開いた。


  殿方取り分

  殿方福袋:1000袋、完売(所要時間1時間)

  女王の札:累計8200組

  殿方式語呂合わせ帳:累計3100冊

  3倍鉢巻き:累計2400本

  積立額:金貨108枚、銀貨4枚


 今度は1回で合った。


 それから借りの欄を開く。


  借り:3(第38代の効果の文章の件、殿方にご迷惑をおかけした)


 その下に書き足した。


  借り:4(福袋の着想)

  借り:5(殿方ご自身が売り場に立たれた件)

  借り:6(当たりの栞10枚、殿方の手作り)


 書きながら手が止まる。


 積立額の欄と借りの欄が、同じ帳面の右と左に並んでいる。


 右の数字は殿方のおかげで増える。左の数字も殿方のおかげで増える。


 右の金貨で左の借りは返せない。


 殿方は金貨を受け取ってくださらないからだ。積立額のことを申し上げるたびに「コルネリアさんががんばったので」とおっしゃる。


 そのたびに、借りがもう1つ増えそうになる。


 *


 商人は借りを作ったままにしない。


 初代からそう教わった。わたくしもずっとそうしてきた。


 ところがこの借りだけは、商いでは返せない。


 帳面を閉じて引き出しを開けた。


 白紙の申請書の封筒が、赤い飴の隣にある。


 入学して2日目に婚姻院の窓口でもらってきた。その3日後に殿方とまーじゃんを打っている。殿方が「ロン。……御無礼」とおっしゃった日である。それから、ずっとここにある。


 本当に欲しいものほど、相場をよく見てから買う。


 わたくしはずっとそう言い聞かせてきた。


 相場はとっくに見終わっている。


 見終わったうえで、今日、相場のないものがあると知った。


 *


 わたくしは封筒を取り出して机の上に置いた。


 封は開けない。


 代わりに、帳面の借りの欄のいちばん下に1行だけ書いた。


  借り:6 返済の方法、商い以外で検討中


 それから封筒を引き出しに戻した。


 戻すとき、赤い飴の包みが少しだけ動く。


 ハンカチの中で、飴はまだ赤い。


 *


 翌朝、部室に行くと、殿方が騎士様に話しかけておられた。


「イルゼさん、昨日の福袋、当たりでしたよね」


「……検品です」


「栞、使ってくれてますか」


 騎士様は答えない。


 ただ、胸当ての隙間から押し花の四つ葉が少しだけのぞいていた。


 わたくしは見なかったことにした。


 四つ葉の栞がどの袋に入るかは、わたくしにも分からなかった。袋を詰めたのは店員たちである。0番の袋も、ほかの999袋と同じ山から取った。


 1000分の1の幸運は、殿方のいちばん近くにいる人の胸に入った。


 騎士様は四つ葉の意味をご存じである。この国の淑女なら誰でも知っている。


 福袋は、夢を買うもの。


 殿方のおっしゃったことは、本当だったらしい。


――――――――――――――――――

【クラリッサ視点】


 ——同じ頃、婚姻院では。


 王都婚姻院、申請受付係。クラリッサ。


 本日、不受理の通算が1万通を超えた。


 受理は、99のままである。


 *


 昼過ぎ、窓口に1人の淑女が来た。


 胸に福袋を抱えている。ヴァーレン商会の殿方福袋である。


「申請を」


 差し出された申請書には、押し花の栞が1枚添えてあった。


「殿方の、手作りの栞です。福袋の当たりでした」


 理由の欄にはこうある。


『殿方の手ずから作られた品を頂戴した。返礼として、福袋の代金を払った』


 代金は返礼ではない。代金である。


「失礼ですが、殿方の手料理は」


「栞です」


「栞は、食ではございません」


 淑女は少し考えた。


「殿方手作りの栞は、手ずから作った食に当たりませんか」


「当たりません」


「押し花は、花です。花には、食べられるものもあると聞きます」


「その花は、食べられない花です」


 不受理の印を押した。


 *


 夕方までに、栞を持った淑女が6人来た。


 6人とも同じことを聞く。殿方手作りの栞は、手ずから作った食に当たるか。


 6人とも不受理である。


 5人目の淑女は、窓口の前で栞を口元へ運んだ。


「お待ちなさい」


 私は窓口から身を乗り出して、その手首をつかんだ。12年、窓口から身を乗り出したことは一度もない。


「口にすれば、食になります」


「なりません」


「なるかもしれません」


「なりません。それは紙と花です。それに、食べたら栞がなくなります」


 淑女は栞を見た。それから、そっと福袋の中に戻した。


「……それは、いやです」


 6人目の淑女は、栞は持っていたが申請書を持っていなかった。行列の淑女たちに栞を見せて回り、見せ終えると帰っていく。窓口には何の用もなかったらしい。


 *


 栞のほかにも、今日はいろいろな申請が来た。


 殿方のお手が握る板から、じかに福袋を手渡された。


 不受理。板は食ではない。


 殿方に「神様」と呼ばれた。神として申請したい。


 不受理。婚姻法に、神の欄はない。


 殿方に「当たりが出ますように」と言っていただいた。外れだった。外れたぶんの申請をしたい。


 不受理。……気持ちは、少しだけ分かる。


 閉門までの不受理は214通。印の柄の、ひびの入ったところがきしりと鳴った。312通の日に入ったひびである。あの日から柄は替えていない。


 *


 窓口を閉めて婚約者登録簿を開いた。


 今日も1行も増えていない。いちばん下の行の番号は99。大会の決勝の日に、28名をまとめて書き加えた最後の1行である。


 番号の欄を見て気がついた。


 欄の枠が、2つしかない。


 十の位と一の位。数字を2つ書けば枠はいっぱいになる。99は、ちょうど枠に収まっていた。


 登録簿は婚姻院の簿冊である。簿冊は400年前から同じ型で作られている。私は12年この型の簿冊に書いてきて、枠の数を数えたことは一度もない。


 数える必要が、なかったからだ。


 落ち着きなさい、クラリッサ。枠が2つしかないのは、2つで足りたからである。今は99である。99は2つの枠に収まる。足りないことはない。


 ……収まらない数のことは、考えなくてよい。


 考えなくてよいことを、私は今、3回考えた。


 登録簿を閉じて院長室の扉を叩いた。


 *


「院長。新しい簿冊をお願いしたいのですが」


「なぜ」


「番号の欄が、2桁しかありません」


 院長はしばらく黙っていた。


「3桁の欄の簿冊は、400年作られていない」


「では」


「作れぬ、という意味ではない。作る用がなかった、という意味だ」


 院長は机の上の古い法典の背を、指で1度なでた。開きはしない。


「……頼んでおこう」


 それだけだった。


 *


 窓口に戻ると、貼り紙の下の『まだ』の字が夕日で少し赤く見えた。


 帳面に不受理の通算を書き足す。1万を超えた。


 1万を超えたところで、私は数えるのをやめることにした。数えても、受理の欄は1つも動かない。


 動かない欄の隣に、2つしかない枠がある。


 私はその枠を指で1度なでた。院長と同じように。

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