第33話 人生すごろく
【リツ視点】
入学して125日目の休日。僕は殿方館の門の前に立っていた。
大きな板を背負ったイルゼさんと一緒に。
正確に言うと板を背負っているのはイルゼさんだけで、僕は手ぶらだ。
「イルゼさん、ここからは僕が持ちます」
「お気持ちだけ、いただきます」
「でも、僕の遊び道具なので」
「板も、記録に残りますので」
板が記録に残るのかどうかは分からない。でもイルゼさんは学園の寮から馬車まで、馬車から殿方館の門まで、一度も板を下ろさなかった。
1つ目の門で、門番さんがイルゼさんの背中を見た。
「……それは」
「すごろくです」
2つ目の門でも聞かれた。3つ目の門でも聞かれた。3人とも「すごろく」と小さく繰り返して、それ以上は何も言わずに道を空けてくれた。
*
前世の病室で、すごろくは一度だけ遊んだことがある。
小児科の遊戯室に置いてあった人生のすごろくだ。ルーレットを回して駒を進めると、就職したり、結婚したり、家を建てたりする。最後にお金をいちばん持っていた人が勝ち。
あのとき一緒に遊んだのは看護師さんだった。看護師さんは途中で呼ばれていって、僕は1人で最後まで駒を進めた。上がりのマスに着いても誰も「おめでとう」とは言わない。
今日は4人で遊べる。
*
板は寮の物置に残っていた古い棚板だ。マス目と絵はロジーナさんが3日かけて描いてくれた。マスの字は僕が書いた。絵がきれいすぎて、僕の字だけ少し浮いている。
サイコロはイルゼさんが削ってくれた。野営訓練のときと同じで、今度も10分だった。
「騎士学校で習いましたので」
騎士学校は、いったい何を教える学校なんだろう。
それから籠いっぱいに焼き菓子を詰めてきた。寮の厨房で、朝早くから焼いたものだ。
体育祭のときは赤組のみんなにはちみつレモンを作ろうとした。でもその日に限って王都のレモンが品切れで作れなかった。だから今日こそはと思って、多めに焼いてある。
*
殿方館の談話室で板を広げると、ノルベルトくんがすぐに身を乗り出した。
「これ、何のマス?」
「『学園に入学する』です。こっちは『友達ができる。2マス進む』」
「『風邪をひく。1回休み』は?」
「僕がこの前ひいたので、入れました」
「風邪をひくと、休めるのか!」
ノルベルトくんは、なぜかうらやましそうだった。
エミールくんは板の端から端まで、絵を1つずつ指でたどっている。マスの横にはロジーナさんの小さな絵がついていた。馬車、学園の門、雪だるま。
アルフォンスさんは板の真ん中のあたりをじっと見ていた。
「この『結婚』のマスは」
「止まったら、駒に奥さんのピンを1本さすんです。故郷のすごろくでは、そういう決まりで」
「1本か」
「1本です」
アルフォンスさんは少し考えてから言った。
「この国の殿方なら、20本は要る」
そうだった。この前、噴水の縁で聞いた話だ。
僕は駒を見た。小さな馬車の形の駒で、ピンをさす穴が4つしかない。
「……馬車、もう1台作ります」
*
アルフォンスさんの意見を聞いて、マスをいくつか書き直した。
『縁組み。淑女20人。ピンを20本さす』
『授かりの儀。子を1人授かる』
ノルベルトくんが手を挙げた。
「ぼくも1つ書きたい」
ノルベルトくんがペンを取って書いたのは、これだった。
『館長に見つかる。ふりだしに戻る』
「箱をかぶっていても、見つかる。館長は」
ノルベルトくんは真剣な顔だった。経験者の顔だ。
エミールくんも自分でマスを2つ書き足した。1つはこうだ。
『こうのとりが来る。子を1人授かる』
エミールくんはそのマスを、少しだけうれしそうに指でなぞっていた。
もう1つは、書き終わるまで左手で隠していた。
*
サイコロを振る順番を決めて、遊び始めた。
僕が最初に振った。3。
「学園に入学する、です」
ノルベルトくんが振った。6。
「縁組み! 20本!」
ノルベルトくんは馬車の駒に20本のピンを一生懸命さしこもうとした。穴が足りなくて、ピンがぽろぽろ床に落ちる。エミールくんが1本ずつ拾って、2台目の馬車に移していった。2台目もすぐにいっぱいになった。
「リツ殿。馬車の3台目は」
「……今度、作ってきます」
エミールくんが振った。4。
「……こうのとりが来る」
自分で書いたマスに、自分で止まった。エミールくんは何も言わずに両手で口を押さえている。
アルフォンスさんが振った。
サイコロを持つ手が、少しだけ止まった。
「どうしました」
「……いや」
アルフォンスさんは振った。2。
『館長に見つかる。ふりだしに戻る』
ノルベルトくんが吹き出した。それから扉のほうを指さして、もっと大きな声を出した。
「あっ! 館長の頭の上に『!』が出た!」
全員が扉を見た。
扉が細く開いていて、その隙間に灰色の髪の館長さんが立っていた。
出ていた。たしかに、出ていた気がする。
館長さんは扉の陰から出てくると、まっすぐ前を向いたまま言った。
「……お茶をお持ちしただけです」
館長さんの手には、何もなかった。
*
「ちょうどよかったです! 焼き菓子、持ってきたんです。みんなでお茶にしましょう」
僕は籠のふたを開けた。
殿方の3人に1つずつ配る。それから壁際に並んでいる侍女さんたちのほうへ籠を持っていった。いちばん端に侍女長のテクラさんがいる。
「テクラさんたちも、どうぞ」
テクラさんの白い手袋の手が、少しだけ前に出た。
「侍女は勤務中です」
館長さんの声だった。
大きな声ではない。でも、だるまさんがころんだのときより、ずっとよく通る声だった。
テクラさんの手が止まる。それからテクラさんは、僕の手から籠をそっと受け取った。
「お預かりいたします」
籠はそのまま、談話室のテーブルの真ん中に置かれた。殿方の前だ。侍女さんたちは1人も手を伸ばさなかった。
「あの、じゃあ、お仕事が終わったら」
「本日の勤務は、殿方のお客様がお帰りになるまで続きます」
館長さんはまっすぐ前を向いたまま答えた。
仕事中のおやつはだめらしい。この国の職場は、ちゃんとしている。
でも体育祭のレモンに続いて、これで2回目だ。僕の作ったものは、どうも女の人のところまで届かない。
焼き菓子は、ノルベルトくんが半分くらい食べた。
*
アルフォンスさんは駒をふりだしのマスに戻しながら、ぽつりと言った。
「会う前に決まるのは、すごろくの目と同じだな」
何のことだろう、と思った。
そのとき、談話室の扉が叩かれた。
若い侍女さんが1通の封書を持って入ってくる。封書には婚姻院の印。
「アルフォンス様あてでございます」
扉のそばで、館長さんが小さくうなずいた。
アルフォンスさんは封を切って中の紙を読んだ。それから、何も言わずに紙をたたんだ。
「縁組みの日が決まった。春、私の18歳の誕生日だ」
談話室が静かになった。
「相手は20人。名前は書いてある。顔は、知らない」
ノルベルトくんが焼き菓子を持ったまま止まった。エミールくんは、こうのとりのマスを見ている。
僕は思わず聞いた。
「それって、強制イベントですか」
「強制とは何か」
アルフォンスさんは、本当に分からないという顔をしていた。
「えっと……自分では選べなくて、絶対に起きるイベントです。ゲームだと、断れない場面で」
「選ぶ、という場面があったことがない。だから、強制かどうかも分からぬ」
それきり、アルフォンスさんは黙った。
前世の病室でも、似たようなことはよくあった。検査の日も手術の日も、僕が知ったときにはもう決まっている。強制イベントだと思っていた。でもほかの選び方があるのかどうか、僕は一度も聞いたことがない。
僕は自分の手の中のサイコロを見た。
それから言った。
「でも、すごろくはサイコロを自分で振れますよ」
アルフォンスさんが僕を見た。
「故郷の、昔の偉い学者さんが言ったそうです。神様はサイコロを振らない、って。だから、サイコロは自分で振るんです」
本当はたぶんそういう意味の言葉じゃない。でも、僕はそう読んだ。
アルフォンスさんはしばらく黙っていた。
それから、ふりだしのマスに戻した駒を持ち上げて言った。
「……待ったは、なしだな」
「なしです」
アルフォンスさんは、もう一度サイコロを振った。
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【館長視点】
殿方館館長、ヴィルヘルミーネ。58歳。
殿方館に勤めて35年。殿方の縁組みを見送ること、87回。
本日、私はすごろくのマスにされた。
*
『館長に見つかる。ふりだしに戻る』
ノルベルトがそれを書いたとき、私は談話室の扉の陰にいた。
落ち着きなさい、ヴィルヘルミーネ。35年、殿方の前で眉ひとつ動かさなかった。……学園祭の日と、だるまさんがころんだの日を除けば。
……『館長に見つかる』。
私は罰の名前になったのか。
ふりだしに戻る。つまり私に見つかることは、それまでの道のりを全部失うほどの災難であるらしい。サイコロの目ひとつで私は災難になれる。
遺憾である。ひどく遺憾である。
しかもノルベルトは、箱をかぶっていても見つかる、と付け足した。経験者の言葉だ。否定はできない。
*
そのマスに止まったのは、アルフォンスだった。
あの子が駒を最初のマスに戻すのを、私は扉の陰から見ていた。見ていたところをノルベルトに見つかった。
「あっ! 館長の頭の上に『!』が出た!」
野良の殿方の手紙に書いてあった遊びである。見つかると、頭の上に大きな「!」が出る。
ノルベルトが箱で館を抜け出した朝、私は自分の頭の上に何かが出た気がした。
出ていたらしい。今日も。
私は扉の陰から出るしかなかった。
「……お茶をお持ちしただけです」
手には何も持っていなかった。
*
縁組みの封書を届けさせたのは、私である。
婚姻院から届いたのは3日前。私はそれを3日間、机の引き出しにしまっていた。殿方の客がいる日に届けさせると決めていたからだ。
1人で読ませたくなかった。
引き出しには、封書の下にもう1枚、紙が入っている。
婚姻院から回ってくる婚約者登録の写しである。殿方の縁組みに差し障りがないよう、殿方の婚約者の登録はすべて写しがこの館にも届く。館の殿方の欄は、いつも空いている。縁組みの日まで、淑女の名が書かれることはないからだ。
空いていない欄が、1つだけある。
館の外の殿方。野良の殿方の欄である。
19。23。29。52。71。
写しが届くたびに数字は増えた。王都の大会の決勝から2日後に届いた写しには、こうあった。
99。
昨夜、私は封書と写しを並べて机に置いた。
アルフォンスの封書には、20人。本人は相手の顔を知らない。
野良の殿方の写しには、99人。こちらは、本人が数を知らない。
茶を飲もうとして手を伸ばした。机の上に茶はなかった。
*
だから籠のふたが開いたとき、私にはすぐに分かった。
殿方が手ずから焼いた菓子である。殿方は「どうぞ」と言って、侍女たちに差し出した。
婚姻法第3条。殿方が自ら友を求めることを公に表し、手ずから作った食を淑女に分け与え、淑女が口にして返礼を献じたとき。
この殿方は、友を求めると何十回も公に言っている。手ずから作った食は籠の中にある。淑女は壁際に5人。
テクラの手が前に出た。30年、盆の上の茶を乱さなかった手が、わずかに。
100本目のピンが、テクラの手袋の先にあった。
「侍女は勤務中です」
口から出たのは、それだけである。
ほかに言いようがなかった。第3条を説明すれば、殿方は知ってしまう。それを知らせるのは私の役目ではない。
テクラは私の顔を3秒見た。ノルベルトが箱で出ていった朝と同じ3秒である。それから殿方の手から籠を受け取って殿方たちの前に置いた。30年勤めた侍女長は、理由を聞かない。
殿方は「お仕事が終わったら」とおっしゃった。
私は、本日の勤務は殿方がお帰りになるまで続くと答えた。
事実である。今、そう決めた。
*
『こうのとりが来る』
エミールがそのマスに止まって、両手で口を押さえた。
私はエミールの手紙を知っている。館から出す手紙もすべて私が検める。だるまさんがころんだの日の夜、あの子は初めて母君に手紙を書いた。
『わたしは、とりに運ばれて母上のところに行ったのですか』
答えを、私は知っている。
とりではありません。あなたを運んだのは——
言いかけて、やめた。
それは私が言うことではない。年に1度の面会で、母君が言うことだ。あの手紙の返事は、まだ届いていない。
*
封書を読んだアルフォンスは、20人と言った。顔は知らない、と。
野良の殿方が聞いた。
「それって、強制イベントですか」
いべんと、という言葉は分からない。強制、は分かる。
アルフォンスは聞き返した。
「強制とは何か」
あの子には、分からなかったのである。
選ぶという場面があったことがない、とアルフォンスは言った。だから強制かどうかも分からない、と。
私は87人の殿方を見送ってきた。87人とも、強制とは何かを知らないまま門を出ていった。
知らずに済むように育てたのは、私である。
*
野良の殿方が「サイコロは自分で振るんです」と言った。
アルフォンスは「待ったは、なしだな」と言って、サイコロを振った。
5が出た。
『友達ができる。2マス進む』
アルフォンスはそのマスに駒を置いて、少しだけ笑った。
私はあの子が6歳のときに庭を閉じた。11年たってあの子は自分の足で走り出した。それから半年もたたずに、すごろくで友達のマスに止まって笑っている。
ふりだしに戻ったはずの駒が、ずいぶん先まで進んでいた。
*
すごろくは日が傾くまで続いた。
ノルベルトが『風邪をひく。1回休み』に止まって、両手を挙げた。
「やった! 健康な証拠だ!」
野良の殿方の口癖らしい。アルフォンスが「それは喜ぶところなのか」と聞くと、2人が同時に「喜ぶところです」と答えた。
野良の殿方は『商会の娘に借りができる。3マス戻る』に止まった。エミールが左手で隠しながら書いたマスである。手紙に書いてあった話を覚えていたらしい。
「借りは、返さないといけないので……」
殿方は真剣な顔で、駒を3マス戻していた。
最初に上がったのはエミールだった。
駒には、こうのとりの子が1人と、縁組みのピンが20本と、友達のマスでもらった小さな札が2枚。
エミールは上がりのマスで、駒をしばらく両手で包んでいた。
私はお茶を淹れに行った。
今度は本当に持っていった。
*
夜、アルフォンスが館長室に来た。
縁組みの封書を手に持っていた。
「館長。1つ、聞きたい」
「何でしょう」
「縁組みの相手に、縁組みの前に会うことはできぬか」
私は答えられなかった。
前例がない。殿方の心得にも、婚姻法にも、そんな条文はない。たぶん誰も聞いたことがないからだ。
「……前例がございません」
「そうか」
アルフォンスはうなずいた。それから、少しだけ迷うように言った。
「リツ殿の故郷には、すごろくがある。止まったマスに何が書いてあるかは、振るまで分からぬ。だが、振るのは自分だ、と」
「……」
「私は、20人の誰の顔も知らぬまま、ピンを20本さされるのは……少し」
アルフォンスはそこで言葉を止めた。
「少し、いやだ」
あの子が「いやだ」と言うのを、私は11年ぶりに聞いた。
6歳のとき、庭を閉じた日以来である。
*
アルフォンスが部屋を出ていったあとで、私はペンを取った。
婚姻院の院長あての手紙を書いた。
『殿方館の殿方より、縁組みの相手に縁組みの前に会えぬかとの問い合わせあり。前例なし。ご検討を乞う。 殿方館館長 ヴィルヘルミーネ』
書き終えてから、もう1行足した。
『なお、当館にすごろくなる遊戯あり。館長に見つかるとふりだしに戻るマスあり。遺憾である』
封をしてから談話室に行った。
すごろくの板が片付けられずに置いてある。また遊びに来るので置いていきます、と野良の殿方は言っていた。護衛の騎士が背負ってきた板である。帰りは背負わずに済んだらしい。
板の端に、馬車の駒が並んでいた。
ピンの穴が4つしかない駒だ。20本でさえ、穴が足りなかった。
あの野良の殿方の駒には、99本のピンが要る。
本人は知らない。
20本でさえ穴が足りなかった駒に。
私は1人でサイコロを振ってみた。
駒は私の名前のマスに止まった。
『館長に見つかる。ふりだしに戻る』
自分で自分に見つかった。
私は駒をふりだしに戻した。
それから、もう一度振った。




