第32話 二人三脚
【リツ視点】
入学して118日目。学園の休日を1日使って、冬の体育祭が開かれた。
風邪はすっかり治っていた。3日で治る、と言われたとおり3日で治った。ただの風邪は、ちゃんと治る。やくそうは12種類とも苦かった。
校庭には赤組と白組の旗が立っていた。全校生徒が赤か白の鉢巻きをしている。冬の空は高くて、吐く息が白い。
僕の鉢巻きは赤だった。
しかも端に小さく「3倍」と刺繍がしてある。朝、寮の前でコルネリアさんが「見本ですわ。お代は結構です」と渡してくれたものだ。
僕は鉢巻きをきゅっと締めた。
「赤なので、3倍速く走ります!」
赤組の陣地の女の子たちが、一斉に下を向いた。
ただ、赤組の陣地はやけに広かった。
赤組のほうが、白組よりずっと人数が多いのだ。数えてみたら、赤組は150人、白組は29人だった。
「組分けって、くじじゃないんですか」
隣のコルネリアさんに聞くと、コルネリアさんは帳面から目を上げずに答えた。
「本来はくじですわ。ただ、殿方が赤組だと分かった日に、赤組への移籍の申し出が殺到いたしまして」
「移籍?」
「ついでに、ヴァーレン商会の『3倍鉢巻き』が初日に400本売れましたわ」
コルネリアさんの鉢巻きにも、小さく「3倍」と刺繍してあった。リゼットさんのにも、ロジーナさんのにも。
白組の29人は、くじで白組になったあと、どんなに頼まれても動かなかった人たちらしい。
その中に、エレオノーラ先輩とヘルガさんもいた。
白組の陣地は、29人なのにきちんと4列に並んでいた。ヘルガさんが並べたのだと思う。
*
開会式の前に、僕はいいことを思いついた。
「コルネリアさん。僕、赤組のみんなに、はちみつレモンを作ります!」
コルネリアさんのペンが止まった。
「……はちみつ、レモン?」
「レモンを薄く切って、はちみつに漬けるんです。故郷の部活では、差し入れの定番なんです。疲れが取れるんです。150人分なら、レモンが……」
「王都のレモンは本日、品切れですわ」
速かった。僕が数を数え終わる前だった。
「え。全部ですか」
「全部ですわ。今朝、商会の者が確かめましたの。王都じゅうの八百屋と市場を」
「じゃあ、はちみつだけでも」
「はちみつも、ただいま、確認中ですわ」
コルネリアさんは帳面に目を落としたまま言った。帳面の上で、インクの染みがじわじわ広がっていく。ペン先が紙に当たったままだ。
「……そうですか。残念です」
「残念、ですわね」
コルネリアさんはやっとペンを上げた。染みは手のひらくらいの大きさになっていた。
冬だから、レモンもお休みなのかもしれない。
*
殿方が体育祭に出るかどうかで、学園は10日もめたらしい。
最後は学園長が決めた。殿方の出場は2種目まで。二人三脚とリレー。
「殿方の二人三脚は、組に関係なく、くじで相手を決めます」
エレオノーラ先輩が全校生徒の前で言った。生徒会長として、くじの箱を用意してくれたのだ。上にふたのついた木の箱で、中には全校の女の子179人の名前の紙が入っている。
先輩はふたを取って、箱をヘルガさんに差し出した。
くじを引くのは生徒会書記のヘルガさんだ。背の高い、ほとんどしゃべらない2年生。人狼のときにも、丁寧に死んだふりをしてくれた。
ヘルガさんは箱に手を入れて、1枚引いた。
紙を開く。
しばらく黙っていた。
それから小さな声で読み上げた。
「……エレオノーラ」
校庭が静まり返った。
先輩は全校生徒の前で、背筋を伸ばしたまま固まっていた。
「先輩! よろしくお願いします!」
先輩の右手が、箱のふたをぎゅっと握った。
握ったまま、動かない。
「先輩、手、つりました?」
「……つって、おりません」
「でも、ふた」
「……つって、おりません」
ヘルガさんが黙って先輩の指を1本ずつ開いて、ふたを箱に戻した。慣れた手つきだった。
*
二人三脚は、隣の人と足首を紐で結んで走る競技だ。
紐はイルゼさんが結んでくれた。僕の右の足首と、先輩の左の足首。イルゼさんは紐を結びながら、ずっと遠くの空を見ていた。手元を一度も見ないのに、結び目はきれいだった。
「結ぶの、上手ですね」
「騎士学校で習いました」
「二人三脚をですか」
「……捕縛術です」
捕縛。
「きつくないですか、先輩」
「……問題、ございません」
先輩の声は平静だった。でも、結ばれた足首が少し震えていた。冬だからかもしれない。
「掛け声を決めましょう。いち、に、いち、に、で、結んだほうの足から出します」
「承知いたしました」
練習で歩いてみた。
「いち、に、いち、に」
隣で先輩も小さな声で数えていた。
「……初代、2代目、初代、2代目」
「先輩、それ何ですか」
「ブランシュ家の歴代当主です。数えていると、落ち着くのです」
よく分からないけれど、足はそろっていた。3代目から先は出てこない。初代と2代目だけで、ちょうど2拍子になるらしい。
*
「位置について。よーい」
号砲が鳴った。
最初の10歩は完璧だった。
11歩目で先輩の足が止まった。
僕の腕が先輩の肩に回っていたからだと思う。二人三脚では肩を組むのが普通だ。前世のテレビで見た運動会では、みんなそうしていた。
先輩は前のめりに倒れた。僕も一緒に倒れた。
芝生の上で、先輩はまっすぐ空を見ている。動かない。
僕は前世で読んだ古い漫画を思い出した。倒れたボクサーに、コーチがリングの外から叫ぶ場面だ。
「立て、立つんだ……先輩!」
先輩の目が、ゆっくりこっちを向いた。
「……リツ殿。それは、どなたの真似ですか」
「故郷の、すごく有名な人です。片目に眼帯をしてて」
「……眼帯?」
先輩は少しだけ息を吐いて起き上がった。
「……14代目、13代目、12代目」
今度は逆から数えていた。
2回目は、まっすぐなところで転んだ。僕がまた肩を組みかけて、途中で気づいて手を引っこめたら、先輩のほうがよろけたのだ。
3回目に転んだとき、僕は芝生に手をついて言った。
「これで3回目ですね。3倍です」
先輩は芝生に顔を伏せた。肩が小さく揺れている。起き上がったとき、先輩の顔はいつもの顔だった。
僕たちは3回転んで、3回起き上がって、最下位でゴールした。
ゴールの線を越えたとき、先輩がほんの少しだけ笑った気がした。
*
ゴールのあとで、イルゼさんが紐をほどいてくれた。
ほどけた紐の端を、先輩が右手で握っている。
握ったまま、また開かなくなっていた。
ヘルガさんがやってきて、先輩の指を1本ずつ開いた。それから紐をきれいにたたんで、先輩の左手に握らせた。
左手のほうは、ちゃんと開いたり閉じたりできるみたいだ。
*
最後の種目は組対抗のリレーだった。
僕は赤組のアンカーだ。
ところが、走り始めてすぐに変なことが起きた。
白組の走者たちが、赤組の走者を抜かないのだ。抜けるところまで追いついても、なぜか速度を落とす。赤組のアンカーが殿方だからだと思う。
僕にバトンが回ってきたとき、白組はすぐ後ろにぴったりついていた。
僕はバトンを握って、奥歯をぐっと噛んだ。
「加速装置!」
前世のアニメの、奥歯のスイッチだ。押すと、周りが止まって見えるくらい速くなる。
走り出した。周りは止まって見えなかった。いつもどおりの、普通の速さだ。
隣のレーンで、白組のアンカーもバトンを受け取った。ヘルガさんだった。
ヘルガさんは僕を見て、それから少しだけ速度を落としかけた。
「ヘルガさん! 本気で走ってください!」
ヘルガさんの目が、少しだけ大きくなった。
次の瞬間、ヘルガさんの姿が消えた。
違う。速すぎて、横に並べなかったのだ。
ヘルガさんは長い脚で地面を蹴って、僕の前に出た。そのままどんどん離れていく。加速装置が本当にあるとしたら、たぶんヘルガさんの奥歯だ。
僕は全力で走った。前世では一度も走れなかった分まで走った。それでも追いつけなかった。
コースの外側を、イルゼさんが2歩後ろの距離のまま並走している。息ひとつ乱れていない。
ヘルガさんが先にゴールした。
僕は2位でゴールして、そのまま芝生に倒れた。息が苦しい。心臓がうるさい。空が青い。
6日前は、布団の中で天井を見ていた。今日は、芝生の上で空を見ている。
僕は拳を空に突き上げた。
「我が生涯に、一片の悔いなし!」
校庭の女の子たちが、ばたばたと座りこんだ。
――――――――――――――――――
【エレオノーラ視点】
ブランシュ公爵家の長女、エレオノーラ。
本日、私は殿方と足首を結ばれた。
くじで。
*
くじの箱を用意したのは私である。
生徒会長として、組分けのくじは動かせない。だから私は白組のままでいた。殿方が赤組と分かった日、生徒会室の扉の前に赤組への移籍の申し出が積まれた。私はそれを1枚ずつ受理して、自分の分は書かなかった。
さすが私である。公正である。
白組は29人。ヘルガも残った。理由は聞いていない。
殿方の二人三脚の相手も、くじにすると決めた。紙は179枚。全校の淑女の名前を、私が1枚ずつ書いた。自分の名前も書いた。書かないのは公正ではない。
1枚だけである。179分の1。
商会の娘に計算させるまでもない。当たるはずがない。
*
開会式の前に、殿方が商会の娘に何かおっしゃった。
「赤組のみんなに、はちみつレモンを作ります!」
殿方の手作りの品を、赤組の150人に。
私の右手が、閉じかけた。
婚姻法第3条。殿方が友を求めることを公に表し、手ずから作った食を淑女に分け与え、淑女が口にして返礼を献じたとき。
殿方は入学の日から友を求めておられる。あとは食と、返礼である。殿方の手から何かを受け取って、何も返さない淑女はこの国にいない。
止めなければならない。生徒会長として。
口を開くより先に、商会の娘が言った。
「王都のレモンは本日、品切れですわ」
速かった。
赤組の陣地の後ろに、木箱が12個積んであった。どれにも『ヴァーレン商会』の焼き印が押してある。中身は見えない。見えないが、木箱のすき間から、冬の校庭にしては妙に明るい香りがしていた。
商会の娘の帳面には、手のひらほどのインクの染みができていた。
あの娘は、王都のレモンを買い占めたのだ。今朝のうちに。殿方が思いつくより先に。
何のためかは分からない。商いのためではないと思う。150人分のレモンを売らずに積んでおく商いを、私は知らない。
私は右手を開いたまま、何も言わなかった。
あの娘も、何かを数えているのだと思う。
*
「……エレオノーラ」
ヘルガの声が、私の名前を読んだ。
落ち着きなさい、エレオノーラ。
あなたはブランシュ家の長女。学園の彫像。1年のとき石膏像と間違えられて布をかけられた淑女である。布をかけられても動かなかった。
……足首を、結ぶ。
殿方と。
古い恋歌に『結び紐』という歌がある。祭りの夜、殿方が自分の足首と淑女の足首を1本の紐で結んで、「ほどけるまで、そばに」とおっしゃる歌だ。淑女なら誰でも一度は寝る前に読む。
13歳の冬は、恋歌の冬だった。盾の歌を78回。『結び紐』は——
数えるな。
数えるな、エレオノーラ。数えるなら当主を数えなさい。初代様。2代目様。3代目様……
殿方が「よろしくお願いします!」とおっしゃった。
気がつくと、右手が箱のふたを握っていた。
握ったまま、開かない。
「先輩、手、つりました?」
「……つって、おりません」
2回言った。2回とも嘘である。手のことで嘘をつくのは、もう数えていない。手のこと以外では、まだ1度だけだ。
ヘルガが指を開いてくれた。いつもどおり、親指から。
*
イルゼ殿が紐を結んだ。
イルゼ殿は空を見ている。私も空を見たかった。だが紐を結ばれる足首を見ずにいる方法を、私は知らなかった。
白い紐が殿方の足首と私の足首を1周して、もう1周して、結ばれた。
ほどけるまで、そばに。
ほどけるまで。
落ち着きなさい。これは捕縛術である。イルゼ殿がそうおっしゃった。私は捕縛されたのだ。何の罪で。考えるな。
練習で歩いた。殿方の「いち、に」に合わせて、私は当主を数えた。
初代様、2代目様、初代様、2代目様。
淑女の平静の型その2。心の中で、自分を支える言葉を唱える。公爵家の娘なら歴代当主の顔でもよい、と教本にある。
2拍子で済むなら、2人で足りる。3代目様から先には、出番を待っていただいた。
*
号砲が鳴った。
10歩は完璧だった。さすが私である。
11歩目で、殿方の腕が私の肩に回った。
腕である。
殿方の、腕である。肩の上に、ある。
頭の中の画廊で、肖像が順番に揺れた。初代様の額縁が傾く。2代目様の額縁が傾く。
13代目のお祖母様の肖像に、ぴしり、とひびが入った。
生涯に一度も嘘をつかず、一度も殿方に肩を抱かれなかったお祖母様である。画廊でいちばん頑丈な額縁である。それが、真ん中から。
足が止まった。
芝生が近づいてきた。
*
空が見えた。
冬の空は高い。芝生は冷たい。足首は、まだ殿方とつながっている。
「立て、立つんだ……先輩!」
殿方の声がした。
立て、とおっしゃる。
恋歌では、転んだ殿方を淑女が起こすものだ。殿方が淑女に「立て」とおっしゃる歌はない。78回読んだ歌にも、数えなかった歌にもない。
「……リツ殿。それは、どなたの真似ですか」
「故郷の、すごく有名な人です。片目に眼帯をしてて」
眼帯の方が、殿方の故郷では淑女を起こすのだろうか。分からない。分からないが、立つしかない。
初代から数え直せば、13代目でまたお祖母様に着く。ひびの入ったお祖母様に。
だから逆から数えた。
14代目。母。
母の肖像は、なぜか少しだけ笑っている気がする。昔からそういう気がしていた。今日は、その笑っている顔が要った。
「……14代目、13代目、12代目」
お祖母様には、2番目に来ていただいた。ひびが入ったままでも、額縁は落ちていなかった。
*
2回目は、殿方が肩を組みかけて、途中で気づいて手を引かれた。
組まれなかった肩のほうが、重い。よろけた。
3回目は、殿方が芝生に手をついておっしゃった。
「これで3回目ですね。3倍です」
笑ってはいけない。淑女は殿方の冗談に笑ってはならない。
芝生に顔を伏せた。肩が揺れた。芝生の匂い。
顔を上げたときには、いつもの顔に戻した。戻せたと思う。
最下位だった。
ゴールの線を越えたとき、私の口の端は少しだけ上がっていたかもしれない。殿方には見えなかったと思う。たぶん。
*
イルゼ殿が結び目をほどいた。
紐がほどけた。
ほどけるまで、そばに。
ほどけた。
気がつくと、ほどけた紐の端を右手が握っていた。握ったまま、開かない。
ヘルガが来た。何も言わずに、親指から1本ずつ開いた。それから紐をたたんで、私の左手に握らせた。
右手に戻すと、また開かなくなる。ヘルガはそれを知っている。
*
リレーでは、ヘルガが殿方の前を走った。
白組の走者は、ずっと赤組を抜かなかった。殿方より前を走る淑女はいない。そう教わってきた。私もそう教わった。私の起草した通達には書いていないが、書くまでもないことである。
殿方はバトンを握って「かそくそうち!」とおっしゃった。何かの呪文のようだった。速さは変わらなかった。
それから「ヘルガさん! 本気で走ってください!」と。
ヘルガが、殿方の前に出た。
この国で初めてのことだと思う。生徒会長として、記録に残すべきことである。記録係はヘルガだ。自分のことを、あの子はどう書くのだろう。
ゴールしたヘルガは振り返らなかった。私はそれを知っている。あの子は村の庭を走るときも、一度も振り返らなかった。
殿方は芝生に倒れて、拳を空に突き上げておられた。
「我が生涯に、一片の悔いなし!」
校庭の淑女が座りこんだ。私は座らなかった。白組の陣地の端で、ヘルガが戻ってくるのを待っていた。
*
夕方、紐を持って生徒会室へ向かった。
左手に紐。右手は空けておいた。
廊下の窓から、片付けの済んだ校庭が見えた。芝生に白い線がまだ残っている。私たちが3回転んだ線である。
次は。
次の体育祭も、くじである。179分の1である。次は、ない。
それでも、次は転ばない、と思った。
思っただけで、右手が少し閉じかけた。
――――――――――――――――――
【ヘルガ視点】
生徒会書記、ヘルガ。2年A組。会長と同じ組。
口数は少ない。
だから書くことにする。
*
くじを引いた。
会長の名前が出た。
仕組んではいない。箱の中の紙は179枚。会長の名前は1枚だけ。会長が自分で書いた1枚である。
私は紙を開いてしばらく黙った。読み上げたら会長がどうなるか、分かっていたからだ。
読み上げた。
会長は固まった。
私は会長と同じ村で育った。会長は公爵家の娘。私は公爵家の庭師の娘。ずっと隣にいる。1年のとき、石膏像と間違えられた会長に布がかけられた日も、隣にいた。布をはがしたのは私である。
会長が固まるのは、うれしいときだ。
*
リレーの白組のアンカーは、私だった。
走るのは得意だ。村では庭の端から端まで毎日走っていた。会長の帽子が風で飛ぶたびに、拾いに。
赤組に移らなかった理由は簡単だ。会長が白組だったからである。
前の走者たちと同じく、私もバトンを受け取ったときは速度を落とすつもりだった。
殿方が叫んだ。
「ヘルガさん! 本気で走ってください!」
人狼のときのことを思い出した。
あのとき私は自分に票を入れて、最初に追放された。理由は誰にも言わなかった。
会長を最後まで卓に残したかったからだ。殿方と会長が、最後まで同じ卓にいられるように。
その会長が、最後に殿方に票を入れた。手加減をしなかった。
殿方は喜んだ。
だから走った。
*
殿方の前に出た。
振り返らなかった。振り返ったら、たぶん足が止まる。
ゴールしてから振り返ると、殿方は芝生の上で拳を突き上げていた。たぶん、満足したという意味だと思う。
殿方は起き上がって、こちらに手を振った。
「ヘルガさん、速すぎます! GG!」
私は頭を下げた。
それから、何か言わなければと思った。
口数は少ない。でも、言った。
「……次は、負けません」
言ってから気づいた。勝ったのは私だった。
殿方は笑って「次は僕が勝ちます」とおっしゃった。
*
夕方、生徒会室で体育祭の記録を書いた。
体育祭記録
書記:ヘルガ
1.殿方、赤組。本人いわく「3倍速い」。実際は2位。
2.二人三脚、殿方と会長。3回転倒、最下位。会長、ゴール後も紐を手放さず。
3.リレー、白組の勝ち。アンカー、書記。殿方の前を走る。
4.殿方、「我が生涯に、一片の悔いなし」と述べ、芝生に倒れる。悔いはない模様。
5.騎士殿、コースの外を並走。記録外だが、殿方より速かった。
6.王都のレモン、本日品切れ。(※商会の倉庫にはあった)
書き終えて顔を上げると、会長が窓辺に立っていた。
左手に、足首の紐を持っていた。
「……ヘルガ」
「はい」
「くじは、本当に、くじだったのですね」
「はい」
「……そうですか」
会長は引き出しの鍵を開けた。
号外60部。ハンカチ。館長の書状の写し。監査記録。
その上に、紐をたたんで置いた。
いちばん奥にある封筒には、触れなかった。私はその封筒があることを知っている。中身は知らない。知らなくていいことを、書記は知らない。
「本気で走ったのですね」
「はい」
「殿方は、喜んでおられましたか」
「はい」
会長はしばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……私も、次は転びません」
意味は少しだけ分かった。
*
引き出しを閉める前に、会長の唇が小さく動いた。
数えていた。
初代、2代目、と数えるときの口の形ではなかった。当主は14代までしかいない。会長が数えていた数は、14を過ぎても止まらなかった。
数はずっと先まで続いていき、どこかで止まる。
どこで止まったのかは、見なかったことにした。
書記として、記録には書かないことにした。




