第31話 しりとり
【リツ視点】
入学して112日目の朝。目を覚ますと、天井がぐるぐる回っていた。
寮の部屋の天井だ。木の板に節が3つ並んでいて、真ん中の1つが少しだけ顔に見える。毎朝見ている天井だ。
「……知ってる天井だ」
前世でよく読んだ台詞の、逆を言ってみた。病室で目を覚ますたびに、知らない天井だったらいいのにと思っていた。今は知っている天井で、それがうれしい。
体が熱い。喉が痛い。鼻が詰まっている。起き上がろうとしたら、頭の中で水の入った桶が傾くみたいにぐらりとした。
僕は布団の中で両手をぎゅっと握った。
これは、きっと風邪だ。
*
前世の僕はずっと病気だった。
でも風邪をひいたことはほとんどない。病室から出なかったし、看護師さんはいつもマスクをしていたし、お見舞いに来る人もいなかったから。風邪は外を走り回って、人と会って汗をかいて、それでひくものだ。
健康な人の病気だ。
「イルゼさん! 僕、風邪をひきました!」
扉の外で、がたんという音がした。
「……今、何と」
「風邪です! 熱が出てます! 喉も痛いです!」
扉がものすごい勢いで開いた。イルゼさんが立っていた。いつもより顔が白い。
僕は布団から両手を出して、ガッツポーズをした。
「健康な証拠です!」
イルゼさんは3秒固まってから扉を閉めた。
扉の向こうで、廊下を全力で走っていく足音がした。速い。寮の廊下であんな音を聞いたのは初めてだ。
*
医務室の先生が来て、3m離れたところから僕の顔色を見た。
「ただの風邪です。3日寝ていれば治ります」
ただの風邪。
いい響きだ。
「先生、今日の授業は」
「お休みです」
僕は布団の中でもう一度両手を握った。
風邪で学校を休む。
前世の本で何回も読んだ場面だ。朝に熱を測って、お母さんが学校に電話をして、昼間のテレビを見ながら布団の中でごろごろする。窓の外を、自分以外のみんなが登校していく。少しだけさびしくて、少しだけ特別な日。
前世の僕には、休む学校がなかった。籍だけはあったけれど、一度も行ったことのない学校は、休んでも休んだことにならない。
「僕、学校を休むの、初めてです!」
「……お大事に」
先生は首をかしげて帰っていった。
*
昼前に、扉の外からイルゼさんの声がした。
「リツ様。医務室より、薬草をお持ちしました」
「やくそう!」
ゲームなら、ステータスの欄に「かぜ」と出ているところだ。毒でも麻痺でもない、状態異常の「かぜ」。やくそうを1つ使えば治る程度の。
扉が少しだけ開いて、床の上に草の束が置かれた。
12種類あった。
全部に名札がついている。苦いもの。すごく苦いもの。煎じると苦いもの。
「……やくそうって、1個で全回復するものじゃないんですか」
「医務室の先生が、全部煎じて飲むようにと」
「全部?」
「全部です」
ゲームの勇者は、毎回これを飲んでいたのかもしれない。急に尊敬した。
*
お昼に、イルゼさんが小さな鍋を持ってきた。扉の前の床に置いて、3歩下がる。
鍋の中は、おかゆだった。少しだけ塩が入っていて、上に刻んだ青菜がのっている。湯気がまっすぐ立っていた。
「イルゼさんが作ったんですか」
「騎士学校で習いました」
「おかゆの作り方をですか」
「砦では、よく誰かが寝込みますので」
ひとさじ食べた。
温かかった。病院のおかゆより、少しだけしょっぱい。それから、ほんの少し焦げた匂いがした。
「おいしいです」
扉の向こうで、何かが床に落ちる音がした。からん、からん、からん。3回跳ねてから止まった。たぶん、お盆だと思う。
「イルゼさん?」
「……問題、ございません」
お盆を拾う音がした。そのあと、もう一度落とす音がした。
*
おかゆを全部食べたら、少し元気が出た。
元気が出ると、楽しいことを考えたくなる。
「イルゼさん。僕、この風邪が治ったら、みんなで鍋をするんです」
扉の向こうで、イルゼさんが息を止めた気がした。
言ってから気がついた。今のは前世の物語でよくある、言ってはいけない台詞だ。戦いの前に「この戦いが終わったら」と言った人は、だいたい帰ってこない。
「あ、今のなしです! 死亡フラグです! 取り消します!」
「……しぼう、ふらぐ?」
「故郷では、すごく不吉な言い方なんです。言った人が、次の回でいなくなるやつです」
「……取り消せるのですか」
「取り消せます。たぶん」
扉の向こうは、しばらく静かだった。
*
昼過ぎには退屈になった。
熱でぼんやりして、本を読む気になれない。手紙を書こうとしたら字が斜めになった。
それでもログイン91日目の手紙だけは書いた。アルフォンスさんへの手紙が途切れたら、連続ログインの記録が止まってしまう。
『アルフォンスさんへ。風邪をひきました。ただの風邪です。うれしいです。学校も休みました。初めてです。 リツ』
押し花は机の引き出しにある。取りに行こうとしたら、また頭がぐらりとした。扉越しに頼むと、イルゼさんは扉から1歩だけ入ってきた。目を閉じたまま引き出しを開けて、黄色い花を1枚出してくれる。
目を閉じているのに、ちゃんと黄色いのを選んでいた。
それでも、まだ退屈だ。
前世の病室にも、こういう時間がたくさんあった。そういうとき、僕は画面の向こうの誰かとチャットをした。顔の見えない相手と、言葉だけでつながる遊び。
「イルゼさん。しりとりしませんか」
「……しりとり?」
「前の人が言った言葉の、最後の文字から始まる言葉を言うんです。『ん』で終わったら負けです」
扉の向こうで、少しの沈黙があった。
「……扉越しで、よろしければ」
「じゃあ、僕から。しりとりの『り』で、りんご」
「……ご。護衛官」
「イルゼさん、『ん』で終わってます」
「……っ」
*
2回目。
「りんご」
「ご……ごう、かく……合格」
「く。くつした」
「た。……盾」
「て。てんじょう」
「う。……馬」
「ま。まばたき」
「き。……き」
長い沈黙があった。
「……騎士団」
「イルゼさん、また『ん』です」
「騎士の言葉は、『ん』で終わるものが多いのです」
剣。騎士団。護衛官。言われてみればそうかもしれない。
*
3回目は、少し続いた。
「りんご」
「ご。……御前試合」
「い。いるか」
「か。兜」
「と。とびばこ」
「こ」
そこで止まった。
さっきの「き」よりも、ずっと長い沈黙だった。扉の向こうで、イルゼさんが何度も息を吸っては止めているのが分かる。
「イルゼさん?」
「……こ。……こ……」
「ゆっくりでいいですよ」
「……籠手」
ようやく出てきた。籠手は、騎士の手を守る防具だ。
「て。てがみ」
「み。見張り」
「り。りす」
「す。……すずめ」
そうやって続けているうちに、1時間がたっていた。
熱は下がっていないのに、頭のぼんやりが少しだけ晴れていた。画面のチャットと違って、扉の向こうの声には息の音がまじる。イルゼさんが考えているあいだの、小さな「……」まで聞こえる。
前世のチャットにも「……」はあった。でもそれは、誰かが打った3つの点だった。
*
放課後の鐘が鳴ってしばらくして、扉の向こうの気配が変わった。
イルゼさんの声のほかに、小さな声が聞こえる。
「……ら。らっぱ」
コルネリアさんの声だった。
「ぱ。……パン、ではなく……ぱ、ぱらそる」
リゼットさんの声。
「……る。るす、ばん……じゃなくて、るり」
ロジーナさんの声。
僕は布団から這い出して、扉を少しだけ開けてみた。
廊下に行列ができていた。
僕の部屋の扉から3m離れたところから、廊下の端まで女の子たちがずらっと並んでいる。先頭にイルゼさんが座っていて、その後ろにコルネリアさんとリゼットさんとロジーナさん。その後ろに1年A組のみんな。列は階段の下まで続いていた。
全員が手に帳面を持っていた。前の人の言葉を書き写して、自分の言葉を考えているらしい。
「あの……みなさん、何をしてるんですか」
コルネリアさんが答えた。
「しりとりの、順番待ちですわ」
列のいちばん後ろで、誰かが帳面に新しい紙を足していた。
――――――――――――――――――
【イルゼ視点】
専属護衛官、イルゼ。
本日、私はしりとりで7回負けた。
すべて「ん」である。
*
今朝、リツ様が「風邪をひきました」とおっしゃったとき、私は扉を開けた。
開けるべきではなかった。殿方の寝所である。それでも開けた。
リツ様はときどき「病室」という言葉を使われる。何のことか、誰も聞けていない。ただ、リツ様の故郷の話には「ずっと寝ていた」「休んでばかりいた」という言葉が何度も出てくる。
その方が、熱を出して寝ている。
そう思った瞬間、手が勝手に扉を開けていた。
リツ様は布団の中から両手を突き上げて、「健康な証拠です」とおっしゃった。
意味が分からなかった。
分からないが、笑っておられる。
私は扉を閉めて医務室まで全力で走った。騎士学校を出てから、あれほど速く走ったのは初めてである。医務室の先生は私の顔を見て、私のほうを先に寝台へ寝かせようとした。
*
昼に、粥を作った。
寮の厨房を借りた。砦では、誰かが寝込むたびに私が作ってきた。米と水と塩。青菜を少し。37人に作って、文句を言われたことは一度もない。言わせなかったのかもしれない。
鍋を扉の前に置いて、3歩下がった。
扉の向こうで、匙が鍋の縁に当たる音がした。
「おいしいです」
落ち着け、イルゼ。
粥だ。砦で37人に作ってきた、ただの粥である。米と水と塩である。少し焦がした。焦がしたのに。
……殿方が、私の粥を、おいしいと。
古い恋歌に、病の殿方へ粥を運んだ淑女の歌がある。淑女なら誰でも寝る前に一度は読む。毎晩、扉の前に粥を置き、毎晩、空の椀を下げる。7日目の夜に扉の向こうから「おいしい」と聞こえて、それから——
結末は言わない。
言わないが、私は今、盆を落とした。
拾った。
また落とした。
2度目は、結末を思い出しかけたせいである。
*
盆を拾ってから、もう1つのことに気がついた。
殿方が淑女の手料理を口にした。これは婚姻法の何条に当たるのか。
第3条は逆である。殿方が手ずから作った食を、淑女が口にしたとき。殿方の側が食べた場合のことは、書いていない。
書いていなかったはずだ。
はずだ、では護衛官は務まらない。今夜、確かめることにした。
*
「この風邪が治ったら、みんなで鍋をするんです」
リツ様がそうおっしゃったとき、私は息を止めた。
騎士学校で習ったことがある。出陣の前に、帰ってからの約束を口にしてはならない。不吉だからだ。砦の古参は、その約束を口にした新兵の兜を黙ってかぶせ直してやる。
殿方の故郷にも同じ言い伝えがあるらしい。しぼうふらぐ、とおっしゃった。言った者が次の回でいなくなる、と。
次の回とは何か。分からない。分からないが、いなくなるのは困る。
リツ様はすぐに取り消された。
取り消せるのかと聞いた。たぶん取り消せる、とおっしゃった。
私はその「たぶん」を、一晩じゅう考えることになる。
理由は2つあった。1つ目は、そのときに分かった。2つ目は夜に分かった。
*
しりとりは午後から始まった。
1回目は「護衛官」で負けた。2回目は「騎士団」で負けた。
騎士の言葉は「ん」で終わる。剣。盾は「て」で終わるが、盾を持つ者は団に属し、団は「ん」で終わる。騎士学校の10年が、すべて「ん」に向かっている。
3回目に「とびばこ」が来た。
こ。
こ。
こ……。
頭の中に浮かぶ言葉が、全部「こん」で始まっていた。
婚約。婚姻。婚礼。婚約者。婚姻院。婚姻法。
落ち着け、イルゼ。「こ」で始まる言葉は、この国に何千とある。子ども。小石。小麦。小鳥。ほら、ある。あるではないか。
……婚約。
ちがう。今のは口に出していない。出していないな。出していない。扉の向こうのリツ様は「ゆっくりでいいですよ」とおっしゃった。聞こえていない。よかった。
それに婚約も婚礼も婚約者も、最後は「ん」ではない。負けにすらならない。「ん」で負けにしてくれるのは、婚姻と婚姻院だけである。なおさら悪い。
私は自分の右手を見た。籠手をはめていなかった。
「……籠手」
助かった。騎士の言葉に、初めて助けられた。
その回の負けは、しばらく続いたあとの「眼前」。4回目は「御恩」、5回目は「鍛錬」、6回目は「先陣」。
*
放課後の鐘のあとで、廊下に商会の娘が来た。
見舞いの果物かごを抱えている。扉の前に座りこんだ私に気づくと、小声で聞いた。
「騎士様。何をなさっておいでですの」
「しりとりです」
商会の娘は少しだけ考えてから、果物かごを置いて廊下の床に座った。
「……わたくしも、よろしいですか」
次に新聞部の娘が来た。その次に絵描きの娘。
気がつくと、廊下は行列になっていた。
誰も騒がなかった。全員が淑女の平静を保ったまま扉から3m離れて座り、自分の番を待った。前の者の言葉を聞いて、自分の言葉を小さな声で言う。それを殿方が扉の向こうで聞いて、次の言葉を返される。
殿方と、言葉だけでつながる遊び。
顔は見えない。間には扉が1枚ある。
それでも行列は階段の下まで伸びた。新聞部の娘は、並んだ者の言葉を全部帳面に書き取っていた。字がだんだん大きくなっていく。
夕方、生徒会長が来た。行列の最後尾に黙って並び、1時間待った。
順番が来ると、少しだけ咳払いをして言った。
「……き。騎士道」
騎士の言葉で「ん」を避けた。見事である。私にはできなかった。
扉の向こうの殿方の言葉は「う。うさぎ」だった。
次は、後ろの1年生の番である。
生徒会長はそれを分かっていたはずだ。それでも口が開いた。
「ぎ……」
そこで止まった。
生徒会長の右手が、何かを握る形のまま閉じていた。何も持っていないのに。
生徒会長は閉じた右手を胸の前に置いたまま、黙って後ろの1年生に順番を譲った。それから廊下の角を曲がっていった。
角の向こうから小さな音が5回聞こえた。左手で、右手の指を1本ずつはがす音である。
*
夜になって、行列は解散した。
商会の娘が去り際に、扉の横の空の鍋に目を留めた。
「騎士様。そのお鍋は」
「粥です。私が作りました」
「……殿方が、お召し上がりに?」
「全部」
商会の娘のペン先が、帳面の上で止まった。インクが小さく丸く広がった。
「騎士様のお粥は、婚姻法の何条ですの」
「……今夜、確かめます」
商会の娘は少しだけ眉を上げて、帳面を閉じて帰っていった。
私だけが扉の前に残った。
*
報告書を書いた。
項目を並べ、参加者の数を新聞部の娘の帳面から写す。179名。総語数1047語。新聞部の娘は、こういう数だけは正確である。
備考の3まで来て、ペンが止まった。
当職の粥を、殿方が口にされた件。
法典を開いた。護衛官に任じられた日に、騎士団から1冊渡されている。婚姻法、全386条。
1度目。第1条から順に読んだ。第3条で止まり、もう一度読んだ。殿方が手ずから作った食を淑女に分け与え、淑女が口にして返礼を献じたとき。逆はない。最後の第386条まで読んでも、ない。
2度目。今度は「食」の字だけを探した。8か所あった。どれも殿方が作る側である。
ない。
ないので、何も起きない。
安心した。
……少しだけ、残念だった。
残念だと思った自分を確かめるために、3度目を読んだ。そういう理由で法典を読む騎士は、たぶん私のほかにいない。
3度目は、何も探さずに読んだ。
第98条。第99条。
第100条で、目が止まった。
婚姻法 第100条
婚約者が100名を超えたときは、婚姻院は3日以内に、殿方本人にその旨を通知しなければならない。
本人に。
読み直した。本人に、と書いてある。
保護責任者に、ではない。学園長でも護衛官でもない。殿方本人に、である。
リツ様は、婚約者がいることをご存じない。友の契りの意味も、卵焼きの意味も、まだご存じない。素手の握手の意味だけは殿方館で知った、と帰りの馬車でおっしゃった。「分かったら教えてください」とも。私は返事をしなかった。
今、婚約者は99名である。
第7報に私が書いた。3度書き直して、書いた数だ。
天井まで、あと1。
そして100を超えるまで、あと2。
*
それで「たぶん」の2つ目の理由が分かった。
この風邪が治ったら、みんなで鍋。
鍋は1人では食べない。殿方は、みんなで、とおっしゃった。殿方の手作りの鍋を、みんなが食べる。この国の淑女は、殿方の手料理をいただいて何も返さずにいられるほど、行儀が悪くない。
野営訓練の芋煮で、2年B組の19名がそうなった。
鍋が1つあれば、100は1日で超える。超えれば3日以内に、殿方本人に届く。
殿方の故郷では、帰ってからの約束を口にした者がいなくなるという。
この国では、その約束を果たした日に、殿方の知らない数が殿方に届く。
取り消せます。たぶん。
私はその「たぶん」を、取り消してほしいと思った。それから、それを決めるのは私ではないと思った。
*
扉の前に座り直して、剣を研いだ。
砥石は騎士学校に入った年から使っているものだ。真ん中がすり減って、少し反っている。10年分の形である。
刃を当てる。押す。引く。
扉の向こうから咳が聞こえた。
手が止まった。
風邪に剣は効かない。分かっている。分かっていて、手が止まる。咳がやむのを待って、また刃を当てた。
押す。引く。咳。止まる。
夜半までに、手は23回止まった。数えてしまった。
刃はとっくに研ぎ終わっていた。研ぐところがないのに、まだ研いでいる。
*
夜中に、扉の向こうから小さな声がした。
「イルゼさん、起きてますか」
「はい」
「しりとりの続き、いいですか」
「……はい」
「さっき、先輩が『ぎ』で困ってたので。僕なら……ぎんが」
銀河。
「銀河の歴史が、また1ページ……」
リツ様は小さな声でそう付け足された。何の歴史かは分からない。ずいぶん大きな歴史のようだった。
殿方の故郷の言葉は、ときどききれいだ。
「が……」
私は少しだけ考えた。剣でも騎士団でも護衛官でもない言葉を。
騎士の言葉でない言葉を、私はあまり持っていない。
「……がまん」
「イルゼさん、『ん』です」
「承知しております」
扉の向こうで小さな笑い声がした。それから咳が1つ。
「イルゼさんは、我慢しなくていいですよ」
「……」
「風邪がうつったら、次は僕が扉の前でしりとりします」
それきり声が聞こえなくなった。
寝息が聞こえる。
私は扉に背中を預けたまま、しばらく動けなかった。
我慢しなくていい、とおっしゃった。
何を我慢しているのか、リツ様はご存じない。99という数も、第100条も、3本の線を引いた20通目の申請書も、ご存じない。ご存じないまま、我慢しなくていいとおっしゃる。
私は砥石を膝の上に置いて、両手で包んだ。
しばらく、そうしていた。
*
夜明け前に報告書を書き上げた。
報告書(第8報)
件名:殿方の風邪について
報告者:専属護衛官 イルゼ
1.殿方、風邪をひく。医務室の見立てでは、ただの風邪。
2.殿方、風邪をひいたことを喜ぶ。理由は不明。(※「健康な証拠」とのこと)
3.殿方、学園の授業を初めて欠席。これも喜ぶ。
4.殿方、「この風邪が治ったら」と述べ、直後に取り消す。(※「しぼうふらぐ」とのこと)
5.扉越しのしりとり、参加者179名。総語数1047語。
6.当職、7敗。すべて「ん」による。
備考1:殿方の療養中、殿方の手料理を口にした者はなし。
備考2:婚約者、99名のまま。
備考3:当職の粥を殿方が口にされた件、婚姻法に該当条文なし。(※3度確認した)
備考の3を書いて、少しだけ息をつく。
安心したのか、残念だったのか。自分でも分からなかった。
3度目に目が止まった条文のことは、書かなかった。報告書は起きたことを書くものである。まだ起きていないことは、書けない。
*
その日の夕方、殿方館から見舞いの手紙が届いた。いつもは3日に1通の返事が、リツ様の手紙が着いたその日のうちに来た。
『リツ殿へ。風邪とは何か。走れるのか。治ったら、庭で走ろう。 アルフォンス』
殿方館の殿方も、「治ったら」の約束をしていた。
走る約束なら、いい。庭を走っても、誰の数も増えない。
私はその手紙を、リツ様の枕元にそっと置いた。目を閉じて引き出しを開けるより、少しだけ難しかった。
リツ様はまだ眠っておられる。熱は少し下がったようだ。
知っている天井の下で、ちゃんと眠っておられた。




