第25話 借りを返します
【リツ視点】
入学して83日目。休日。
朝から窓の外で音がしていた。
とん、とん、とん。
寮の部屋の窓を開けると、斜め下に部室の屋根が見える。遊戯部の部室は寮の古い物置だ。昨日の雨で天井から水が落ちてきて、棚の牌も札も盤も全部湿ってしまった。今は部室の窓辺に並べて干してある。
その屋根の上に、イルゼさんがいた。
鎧ではなく袖をまくった紺色の上着だった。口に釘を3本くわえて、右手に金づち。とん、とん、とん。3回で1本。リズムが正確すぎて時計みたいだ。
ときどき、その金づちが止まる。
止まるたびに、イルゼさんはこっちを見ていた。僕の部屋の窓を。
……休日なのに。
僕は窓から身を乗り出した。
「イルゼさん! 休日は、休む練習じゃなかったんですか」
金づちが止まった。
イルゼさんは釘を口から外して、屋根の上でまっすぐ立った。
「屋根の上で、休んでおりました」
「金づちを持ったままですか」
「……念のため」
何の念だろう。
「屋根も直せるんですか」
「騎士学校で習いました」
「屋根の直し方をですか」
「砦の屋根は、よく壊れますので」
護衛官は何でもできる。休むこと以外は。
ただ、僕も人のことは言えなかった。
机の上には、コルネリアさんの『殿方式語呂合わせ帳』が開いたままになっている。明日はコルネリアさんが歴史を教えてくれる日だ。予習をしておこうと思って朝ごはんのあとに開いた。
イルゼさんは休む練習。僕はがんばる練習。
語呂合わせ帳の3ページ目には、よだれの跡がついていた。
「……リツ様は」
「はい」
「3代目のあたりで、1時間ほどお休みになっておられました」
「見てたんですか」
「念のため」
2人とも、練習は失敗だった。
「次の休日に、持ち越しですね」
「……持ち越しといたします」
イルゼさんはまた釘をくわえた。とん、とん、とん。さっきより少しだけ音がゆっくりになった気がする。
*
次の日の放課後、部室の雨漏りは直っていた。
天井を見上げても、もう水は落ちてこない。遊戯部の古い机の真ん中に、水たまりの跡だけが白い輪になって残っている。
コルネリアさんが分厚い帳面を抱えて入ってきた。
「本日は、わたくしが歴史をお教えする番ですわ」
定期試験のあとで約束してくれたことだ。
僕の歴史は12点だった。語呂合わせを作るのに夢中で、女王様の名前を1人も覚えていなかった。その答案は紙飛行機になって門の外へ飛んでいった。
「歴代の女王陛下は、全部で56代ですわ。初代から順にまいります」
「お願いします!」
リゼットさんとロジーナさんも並んで座った。イルゼさんはいつもの部室の隅だ。
コルネリアさんの授業は分かりやすかった。1人ずつ名前と年号を言い、語呂合わせを添えて、何をした女王様かを説明してくれる。声がよく通る。商人の娘は説明がうまい。
初代、ルーメリア様。やさしい王国、831年。ここは大丈夫だ。
2代目。3代目。昨日寝たところを越えた。4代目。5代目。
7代目あたりで、頭がいっぱいになった。
「……すみません。3代目と5代目が、もう混ざってます」
コルネリアさんがペンを止めた。
僕は考えた。名前と年号と、何をしたか。1人につき覚えることが3つ。56人で168個。
前世で、それくらい全部覚えられたものがあった。
カードゲームだ。
病室で何百枚もカードを集めた。名前も攻撃力も効果の長い文章も、全部そらで言えた。対戦の相手はいなかったので、1人で両方の手札を持って遊んだ。それでも覚えられた。歴史の年号は1つも覚えられなかったのに。
「コルネリアさん。女王様を、カードにしませんか」
*
僕の説明を聞くと、コルネリアさんはものすごい速さで帳面に書き始めた。
カードには女王様の名前と在位の年。それから「攻撃力」と「守備力」。何をした女王様かは「効果」として書く。
「攻撃力とは、何の値ですの」
「強さです。なんとなくの」
「なんとなく?」
「なんとなくで、だいたい合ってるんです」
コルネリアさんのペン先から、インクがぽたりと落ちた。
*
次の日の朝、56枚のカードが部室の机に並んでいた。
絵はロジーナさんが描いてくれたらしい。コルネリアさんが一晩で文章を書いて、ロジーナさんが一晩で56人の女王様を描いた。2人とも目の下が少し青い。コルネリアさんは帳面に何か書いては消している。同じ計算を何度もやり直しているみたいだ。
僕は1枚目を手に取った。
初代女王 ルーメリア
在位:831年〜
攻撃力:2000 守備力:2000
効果:この女王が場にいる限り、王国は建国される。
「建国される?」
「建国なさったので」
ほかのカードもすごかった。
第7代女王 城壁のアガーテ
攻撃力:800 守備力:3000
効果:王都の城壁を築いた。守備表示のとき、守備力が倍になる。
第31代女王 芋のマティルデ
攻撃力:1200 守備力:1500
効果:飢饉のとき、王国じゅうに芋を植えさせた。墓地に送られたとき、民の手札を1枚増やす。
「芋の女王様がいるんですね」
「国民にいちばん人気のある女王陛下ですわ」
絵の芋の女王様は、両手で芋を抱えていた。大事そうに。王冠より芋のほうが大きく描いてある。
覚えられる。
芋の女王様は、もう忘れない。
最後の1枚だけ、絵の枠が空いていた。
第56代女王 エルフリーデ
攻撃力:? 守備力:?
効果:肖像、準備中。
思わず声が出た。
「シークレットレアだ!」
絵もない。数字もない。それなのに一番強そうに見える。こういうカードは、パックを100個開けても出ないやつだ。
コルネリアさんのペン先が止まって、帳面に黒い染みが広がった。
*
その日の放課後、僕たちは歴史のカードで対戦をした。
僕とコルネリアさんが向かい合って、28枚ずつ山札にする。リゼットさんが審判で、ロジーナさんは見学だ。
「僕のターン! ドロー!」
山札から1枚引いて高く掲げた。前世で何百回も見たアニメの真似だ。病室では1人で遊んでいたので、誰かに向かって言うのは初めてだ。
コルネリアさんの肩がびくっと跳ねた。
「第7代、城壁のアガーテを守備表示で出します! ターンエンド!」
「……たーん、えんど?」
「自分の番が終わりました、っていう意味です」
コルネリアさんは小さくうなずいて山札から1枚引いた。
「……わ、わたくしの、たーん。どろー、ですわ」
声は少しだけ小さかった。でもちゃんと言ってくれた。
リゼットさんの帳面の字が、急に大きくなった。
*
勝負は互角だった。
コルネリアさんは歴史に詳しいので女王様の効果の使い方がうまい。僕はカードゲームに詳しいので出す順番がうまい。
最後にコルネリアさんが、攻撃力2800の女王様で攻撃してきた。
僕の場には何もない。
いや、1枚だけある。前の番に伏せておいたカードだ。前世のアニメで、一番盛り上がる場面だった。
「罠カード、発動!」
伏せていたカードをひっくり返す。
第38代女王 ロスヴィータ
攻撃力:0 守備力:0
効果:婚姻法を定めた。この女王が表になったとき、場の殿方の手札を見た淑女は、婚約を申し込む。
「……あれ」
僕はカードの効果を声に出して読み直した。
「場の殿方の手札を見た淑女は、婚約を申し込む」
部室が静かになった。
「これ、罠っていうより、何ですか」
コルネリアさんは真っ赤になって帳面で顔を隠した。
場の殿方は僕しかいない。手札を見た淑女は、たぶん審判のリゼットさんだ。でもリゼットさんは何も申し込まずに、審判の帳面に「引き分け」と書いた。
罠カードは、誰にも効かなかった。
*
片付けのときに、コルネリアさんが歴史の小テストを出してくれた。
「第7代の女王陛下のお名前は」
「守備力3000の人です」
「……お名前を」
「城壁の、えっと……アガーテ様です!」
「第31代は」
「芋の人です。マティルデ様」
コルネリアさんは帳面に丸をつけた。それから小さな声で「芋の人」と繰り返して、帳面で口元を隠した。
20問のうち、20問正解。全部、効果から思い出した。
年号の語呂合わせを作ったのは僕なのに、覚えられたのはカードのほうだ。
*
カードを箱にしまおうとして、気がついた。
1枚足りない。
第38代のロスヴィータ様がいない。
机の下にもない。椅子の下にもない。干してある牌の間にもない。
部室の隅を見ると、イルゼさんがまっすぐ前を向いて立っていた。胸当ての隙間から、カードの角が少しだけ出ていた。
「イルゼさん」
「……毒見です」
「カードの毒見ですか」
「念入りに」
コルネリアさんとリゼットさんとロジーナさんが、同時に下を向いた。
肩が震えていた。たぶん、気のせいだ。
イルゼさんはカードを箱に戻すと、部室の隅に座って剣の手入れを始めた。
油を布にしみこませて、刃の根元から先へ。返して、もう一度。それをずっと繰り返している。
今日はなぜか、一度も僕のほうを見なかった。
そのかわり、磨かれた刃に窓の光がはね返って、何度も僕の目に当たった。
まぶしい。
目は合わせてくれないのに、光だけは合わせてくる。
――――――――――――――――――
【コルネリア視点】
ヴァーレン商会の三女、コルネリア。
本日、わたくしは借りを返すつもりで、借りを2つ増やした。
*
定期試験のあとで、帳面にこう書いた。
借り:1(歴史の授業にて返済予定)
殿方が語呂合わせと九九の節を教えてくださったおかげで、わたくしは学年1位を取った。今度はわたくしが殿方に歴史をお教えする。それで貸し借りなしになる。
商人は、借りを作ったままにしない。
そのはずだった。
*
授業の前の晩、わたくしは教える順番を3回組み直した。初代から第56代まで。語呂合わせを添え、事績を1行ずつ。殿方の理解の速さに合わせて、7代目で一度休憩を入れる計画だった。
殿方は7代目で止まった。
予定どおりである。そこまでは。
そこで殿方はおっしゃった。
「コルネリアさん。女王様を、カードにしませんか」
かーど、とは札のことだった。
殿方の説明を帳面に書き取った。名前。在位の年。攻撃力と守備力。効果。
書きながら手が震えた。
これは教材ではない。商品である。
歴代女王56代を札にして王国じゅうの学舎に卸す。札を集める楽しみがあり、札で戦う遊びもある。子どもは喜んで歴史を覚え、親は喜んで札を買う。56枚そろえたい子はそろうまで買う。同じ札が2枚出たら交換の相手を探す。探しているうちに、もう1組買う。
落ち着きなさい、コルネリア。相場を見なさい。
……相場が見えない。
比べるものがないのである。この国に、こんな札は1枚もない。値がつかないのではない。値の天井が見えない。天井知らず——
天井。
殿方いわく、天井まで回せば必ず来る。
何が来るの。
落ち着きなさい。今は授業中である。わたくしは先生である。殿方は以前、わたくしを先生みたいだとおっしゃった。「みたい」は見積もりであって——その話は前にもした。
攻撃力の値は「なんとなく」だそうだ。なんとなくで、だいたい合う。商人には一生かかっても言えない言葉である。
気がつくと、帳面にインクの染みが3つ並んでいた。
わたくしは借りを返すために授業をしていたはずだった。
それなのに、殿方からまた知恵をいただいていた。
*
その夜、ロジーナの寮の部屋の扉を叩いた。
「56人ぶんの絵を、明日の朝までに描いてくださいますか」
ロジーナは3秒固まってから「……はい」と言った。
朝までかかった。わたくしが効果の文章を書き、ロジーナが絵を描いた。歴代の女王陛下の肖像なら、ローデ家に写しがいくらでもある。ロジーナはそれを1枚も見ずに描いた。全部頭に入っているらしい。
「殿方以外の、お顔を描くのは……ひさしぶり、です」
ロジーナは描きながら、小さな声でそう言った。
あの子の帳面は、殿方の顔ばかりなのだから。
1つだけ困ったのは、第56代の札である。
当代の陛下の肖像を許しもなく札に描くわけにはいかない。不敬にあたる。
ロジーナは少し考えて、第56代の札だけ絵の枠を空けた。効果の欄には、わたくしが「肖像、準備中」と書いた。
*
問題は、夜中の3時だった。
第38代、ロスヴィータ陛下。婚姻法を定めた女王陛下である。
眠かった。手が勝手に動いた。婚姻法の効果を考えていたはずが、気がつくとこう書いていた。
場の殿方の手札を見た淑女は、婚約を申し込む。
書き終えたところで、ペン先からインクが1滴落ちた。
染みは丸く広がって、まん中が少しくびれた。重なった2つの手の形である。
婚姻院の申請書の隅に刷ってある、婚約の印と同じ形だった。
わたくしの引き出しの白紙の申請書にも、同じ印が刷ってある。
落ち着きなさい、コルネリア。インクに意図はない。インクは液体である。液体は低いほうへ流れるだけである。紙が少し傾いていた。それだけのことだ。
ロジーナが筆を止めて、こちらを見た。
わたくしは染みの上に札を1枚重ねた。
*
翌朝、部室で札を並べながら56枚を2つに分ける計算を3回間違えた。
27。29。それから、なぜか38。
38は札の番号である。計算ではない。
殿方は第56代の札を手に取って、目を輝かせた。
「シークレットレアだ!」
しーくれっとれあ。意味は分からない。ただ、殿方がいちばん喜ばれたのは、絵も数字もない、その1枚だった。
空いている枠に、いちばんの値がつく。
殿方の故郷の商いは、ときどき分からない。分からないが、帳面には書いておいた。
*
殿方との対戦は楽しかった。
殿方は「僕のたーん」「どろー」「たーんえんど」と1つずつ声を出して札を出される。わたくしもそれを真似した。どろー、ですわ。声が小さくなったのは恥ずかしかったからではない。少しだけ恥ずかしかったからである。
最後の場面で殿方は罠を発動された。
第38代、ロスヴィータ。
殿方はそれを声に出して読まれた。
「場の殿方の手札を見た淑女は、婚約を申し込む」
殿方の声で。婚約、と。
落ち着きなさい。読まれただけである。殿方は札の文を読まれただけで、申し込まれたのではない。申し込むのは淑女のほうである。札にそう書いた。書いたのはわたくしである。
わたくしは帳面で顔を隠した。
隠しながら、帳面の端に小さく書いた。
第38代の札、効果の文章を改めること。
でも改めないかもしれない。
そもそも、その札は今、騎士様の胸当ての中にある。
*
2日後、学園新聞の号外が出た。
セレスタ学園新聞 号外 第8号
見出し:殿方、歴代女王を札にする その名も『女王の札』
遊戯部にて、殿方リツ殿の発案による札遊び「女王の札」が誕生。歴代女王56代を1枚ずつ札にしたもの。
効果の文:ヴァーレン商会 コルネリア
絵:ローデ家 ロジーナ
札の攻撃力と守備力は、殿方いわく「なんとなく」で定める。
殿方、対戦のあとの小テストにて20問全問正解。
第56代の札は「肖像、準備中」。殿方いわく「しーくれっとれあ」。
なお、第38代の札は一時行方不明となったが、無事に見つかった。
リゼットは第56代の札の写しまで載せていた。空いた枠も、そのまま。
その日の夕方、王宮から商会に書状が届いた。
書状
宛先:ヴァーレン商会 コルネリア殿
1.「女王の札」を、王宮にて1000組買い上げる。
2.第56代の札の肖像は、ローデ家の四女ロジーナに描かせること。
3.肖像は、笑っておるものとする。
4.第56代の攻撃力と守備力は、余が自ら定める。
最後に陛下の署名があった。
王宮からの書状はいつもは書記官の字である。この書状は、署名と同じ字だった。
わたくしは書状を3回読んだ。
それからロジーナに見せた。
ロジーナは2の項目を読み、3の項目を読んだ。
握っていた筆が、ぱきりと鳴った。
ロジーナは折れた筆を机に置き、座ったまま両手で顔を覆った。耳まで赤い。
しばらくして、指の隙間から小さな声がした。
「……笑って、おられるところを……見たことが、ありません」
わたくしもない。この国の誰も、たぶんない。
*
その夜、帳面を開いた。
殿方取り分
女王の札:王宮より1000組の注文。購買部の予約、初日に800組
積立額:金貨35枚、銀貨12枚
積立額を3回足し直した。今度は1回で合った。
それから借りの欄を見た。
借り:1(歴史の授業にて返済予定)
返済はした。殿方は女王陛下の名前を1日で20人覚えられた。芋の女王陛下のことは、たぶん一生忘れないと思う。
でもそのかわりに殿方からまた知恵をいただいた。札の遊びには、語呂合わせの何倍もの値がつく。
借りは返すそばから増えていく。
わたくしは借りの欄を書き直した。
借り:2(女王の札の件、返済方法未定)
少し考えて、もう1つ足した。
借り:3(第38代の効果の文章の件、殿方にご迷惑をおかけした)
帳面の最後の頁には、別の件も書いてある。
王国まーじゃん大会:会場押さえ済み。王宮へ後援の願い、返事待ち
王宮からの書状は札の件だけだった。後援の件には一言も触れていない。どこかの山に積まれているのだろう。商いには、待つ時間もある。
書き終えて引き出しを開けた。
白紙の申請書の封筒が、赤い飴の隣にある。隅に、婚約の印が刷ってある。
借りを返したら、と思っていた。
借りは3つになった。
わたくしは引き出しを閉めた。
まだ出さない。
これは計算外ではない。
たぶん計算どおりである。
――――――――――――――――――
【ゲルトルート視点】
——号外第8号が出た日の昼、王宮では。
近衛騎士団長、ゲルトルート。
本日、陛下は執務室の扉に鍵をかけるとき、私を外に出されなかった。
*
学園新聞の号外は、刷られた日の昼には王都の露店に写しが並ぶ。陛下の執務机にも、毎回それが1部届く。誰が届けているのかは知らない。知らないことにしている。
本日の写しを手に取って、陛下は見出しを読まれた。
『殿方、歴代女王を札にする』
それから写しの下のほうを指でなぞられた。第56代の札の写しである。絵の枠が空いている。
「肖像、準備中、とあるな」
「はっ。そのように」
「……肖像、準備中、とあるな」
「はっ。そのように、ございます」
陛下が同じことを2回お聞きになるのは、図星のときか、何かをお決めになるときである。20年そばに立っていれば、それくらいは分かる。
「しーくれっとれあ、とは何か」
「存じません」
「……しーくれっとれあ、とは何か」
「存じませんが、殿方がいちばん喜ばれた札だと、号外にございます」
陛下は立ち上がり、扉まで歩いて鍵をかけられた。
私は、扉の内側にいた。
陛下が鍵をかけるのは、笑うときである。この20年、私はいつも扉の外で声だけを聞いてきた。
落ち着け、ゲルトルート。内側である。近衛は扉の外に立つものだ。内側にいてよいとは、どの規則にも書いていない。いてはならぬとも書いていない。規則に書いていないことが、この半月で増えすぎた。
陛下は笑われた。
扉の内側で陛下の笑い声を聞くのは、初めてである。
*
笑い終えると、陛下は書記官を呼ばずにペンを取られた。
王宮の書状は書記官が書く。陛下は署名だけをなさる。それが決まりである。
陛下は1行目を書き、2行目を書き、3行目の前で手を止められた。
「ゲルトルート。肖像というものは、笑っておってもよいのか」
「……前例は、存じません」
「では、余が前例である」
陛下は3行目を書かれた。肖像は、笑っておるものとする。
4行目の前で、もう一度手が止まった。
「攻撃力と守備力とは、何か」
「号外によれば、札の強さだそうです。殿方いわく、なんとなくで定める、と」
「なんとなく」
「なんとなく、と」
陛下は少しお考えになってこう書かれた。第56代の攻撃力と守備力は、余が自ら定める。
「今、お決めにならないのですか」
「決めぬ。余の強さは、なんとなくでは決まらぬ」
陛下は真顔であった。真顔で、なんとなく、とおっしゃった。
私は窓の外を見た。ここで笑うのは、近衛の職分ではない。
*
書状に署名を終えると、陛下は執務机の横の小卓に目を向けられた。
宰相の保留の山である。
宰相は急がぬ申請書をこの小卓に積む。積まれたものはだいたい1か月は動かない。山はもう、陛下の肘ほどの高さがある。
陛下は山の真ん中あたりに手を入れて、1枚を抜き出された。
山が傾いた。
落ち着け、ゲルトルート。山が傾いただけである。近衛は動じない。
……宰相は動じるだろう。宰相が10日かけて積んだ山である。
抜き出された紙には、こうあった。
申請書
件名:第1回王国まーじゃん大会 後援のお願い
申請者:ヴァーレン商会 コルネリア
会場:王都中央広場
参加の見込み:1000名以上
10日あまり前、大富豪の札の申請と一緒に届いたものだ。宰相は「急がぬ」と言って山に積んだ。
陛下はその紙を机に置き、後援の欄に署名された。
「商会には、明朝届けよ」
「はっ」
札の書状は今日のうちに。後援は明日の朝に。陛下は1日だけ、順番をずらされた。理由はお聞きしなかった。
ペンを置いてから、陛下は窓の外を見ておられた。王都中央広場のほうである。
「ゲルトルート」
「はっ」
「灰色の外套は、まだあるか」
展覧会の日に陛下がお召しになったものである。フードの深い、灰色の外套だ。
「私が、お預かりしております」
「そうか」
陛下はそれ以上、何もおっしゃらなかった。
私も何もお聞きしなかった。近衛の務めである。
ただ、その夜は外套にブラシをかけた。
念のため。




