第23話 笑う殿方
【リツ視点】
入学して76日目の休日。王都の秋の展覧会が始まった。
ロジーナさんの絵が飾られる日だ。
遊戯部の4人で見に行くことにした。生徒会の代表としてエレオノーラ先輩も来てくれた。イルゼさんはいつもどおり2歩後ろにいる。
馬車の中で、ロジーナさんは一言もしゃべらなかった。両手を膝の上でぎゅっと握ったまま、窓の外ばかり見ている。
「緊張してますか」
「……はい」
「大丈夫ですよ。いい絵ですから」
「……はい」
ロジーナさんの耳が赤くなった。いつものことだ。
向かいの席ではリゼットさんが帳面を膝に広げていた。まだ何も始まっていないのに、もう2ページ目に入っている。コルネリアさんの足元には折りたたんだ小さな机が1つ積んであった。
「コルネリアさん、その机は?」
「商いの基本は、机1つからですわ」
美術館に机を持っていく理由は教えてもらえなかった。
*
王都の美術館は白い石の大きな建物だった。
中に入ると、最初の部屋の壁一面に殿方の肖像画が並んでいた。何十枚どころか、100枚以上ある。
「ローデ家の、お見合いの絵の歴史です」
ロジーナさんが小さな声で教えてくれた。
白い手袋。高い襟。まっすぐ前を見て口を閉じている。
端から端まで歩いても、全員が同じ顔だった。髪の色と年が少しずつ違うだけ。目の高さも口の線も、ぴたりとそろっている。
「コピー機で刷ったみたいだ……」
「こぴーき?」
「同じ絵を、何枚でも刷れる箱のことです。故郷にあったんです」
説明すればするほど失礼になっていく気がする。
「証明写真、のほうが近いかもしれません。故郷で身分証に貼る絵なんですけど、笑っちゃいけない決まりがあるんです」
ロジーナさんは少しだけ考えてうなずいた。
「……それと、同じです。ローデ家の決まりも、3つあって。正面から。笑わずに。手袋を」
「じゃあ、ロジーナさんの絵は3つとも破ってますね」
ロジーナさんは両手で顔を覆った。
褒めたつもりだったのに。
*
一番奥の部屋の前に行列ができていた。
廊下を折り返して、階段の下まで続いている。300人はいると思う。
そして列に並んでいる人は、全員が白い手袋をはめていた。
「イルゼさん。この国、手袋が流行ってるんですか」
「……4日前に、布告が出ましたので」
「布告?」
「手袋どうしであれば、殿方と握手をしても挨拶とみなす、と」
そういえば、女王様と手袋のまま握手をした。あれが布告になったらしい。
僕も今日は手袋をはめている。人の多いところへ行くのだからと、朝の寮の玄関でイルゼさんにはめさせられた。指の先までしっかり引っぱってもらった。
僕が前を通るたびに、列の人たちの手袋がほんの少しずつ前に出てくる気がした。
「じゃあ、先輩とも握手できますね」
僕は振り返ってエレオノーラ先輩に右手を出した。
先輩の右手は、白い手袋の中でぎゅっと握られていた。布の上からでも指の形が分かる。拳だ。
「……後ほど」
「先輩、手、つりました?」
「つって、おりません」
手袋の上からでも、つっているようにしか見えなかった。
*
僕たちは関係者の入り口から奥の部屋に入れてもらった。
部屋の真ん中の壁に1枚の絵がかかっていた。
『笑う殿方』
麻雀をしているときの僕だ。少し首を傾けて、誰かに話しかけようとしている顔。美術室で見たときより額縁がずっと立派になっていた。
絵の前には縄が張ってあって札が立っている。
『お手を触れないでください』
その下に手書きの小さな紙が貼り足してあった。
『ご本人にも、お手を触れないでください』
ご本人。
たぶん僕のことだ。
部屋の出口では、コルネリアさんがさっきの机を広げていた。『笑う殿方』の写しの予約を受けつけているらしい。机の謎が解けた。リゼットさんはその横で行列の人数を数えては帳面に書きこんでいる。
「コルネリアさん、それ……」
「ローデ家のご当主のお許しが出ましたら、すぐにでも刷りますわ」
まだ許しは出ていないらしい。予約はもう200件を超えていた。
*
絵の前の人たちは、絵を見て、僕を見て、また絵を見た。
3回目に絵を見るころには、みんな手袋の手を胸の前で握りしめている。
前世のテレビで骨董品を鑑定する番組をよく見ていた。いい品物が出てくると、鑑定士のおじさんが必ず言う台詞がある。
僕は絵の前に立ってその口調を真似た。
「いい仕事、してますねぇ」
出口のコルネリアさんがペンを構えてこっちを見た。次に値段を言うと思ったらしい。
ロジーナさんがまた両手で顔を覆った。今日2回目だ。
エレオノーラ先輩は背筋を伸ばしたまま、目だけをそらした。右手はまだ拳のままだった。
それからもう1つ思い出した。
「そういえば、故郷の美術館にも、目が追いかけてくる絵があったんですよ」
絵の前を右に3歩動くと、絵の僕と目が合った。左に3歩動くと、また目が合った。
「ほら、こっちに来てもこっちに来ても、ちゃんと目が合います」
行列の先頭の人たちがそろって右に3歩動いた。それから左に3歩動いた。
5人が座りこんだ。
「……リツ殿。それ以上は、おやめいただけますか」
エレオノーラ先輩の声が少しだけかすれていた。
*
そのとき、絵の前の縄のところで誰かが倒れた。
背の高い女の人だった。栗色の髪をきっちり結い上げていて、上着の胸ポケットに筆が何本もさしてある。
倒れても右手に筆を握っていた。
よく見ると、その筆は半分しかなかった。
「……お、お母さま」
ロジーナさんが小さく言った。
ロジーナさんのお母さんらしい。
イルゼさんがすぐに駆け寄って、お母さんを抱え上げた。廊下の長椅子に寝かせると、お母さんはすぐに目を開けた。それから胸ポケットから新しい筆を1本抜いて左手に握った。なんだか、お守りみたいだ。
僕は長椅子の横で深くお辞儀をした。
「ロジーナさんのお母さんですね。隣の席のリツです。ロジーナさんには、いつもお世話になってます」
手袋の右手を差し出した。布告が出たのなら、たぶん大丈夫だと思う。
お母さんは僕の手を見つめてから、自分の手を見た。手袋をしていなかった。
「……少々、お待ちを」
お母さんは懐から絵の具だらけの手袋を出して、はめた。
それから僕の手を握った。
握ったまま、また長椅子に倒れた。
左手の中で、ぽきりと小さな音がした。
*
お母さんが2回目に目を覚ますのを待っている間に、気がついた。
絵の前に、もう1人ずっと動かない人がいる。
灰色のフードをかぶった女の人だった。フードの陰から黒い髪が少しだけ見えている。行列には並んでいなかったのに、いつの間にか絵の真ん前に立っていた。
その隣に背の高い女の人が立っていた。白髪まじりの短い髪で、顔に古い傷がある。背筋がものすごくまっすぐだ。
「あれ、ゲルトルートさんですよね」
「人違いです」
即答だった。
「でも、その傷」
「人違いです。失礼いたします」
失礼いたします、の言い方までゲルトルートさんだった。
フードの人は、ずっと絵を見ていた。
僕は少し近づいて横顔をのぞいた。
「……あの。女王様に、似てるって言われませんか」
フードの人は絵を見たまま答えた。
「よく言われる」
声までそっくりだった。世の中には似ている人が3人いるというけれど、本当なのかもしれない。
2歩後ろで、イルゼさんが剣の柄を握ったまま目を閉じていた。
フードの人は最後にもう一度だけ絵を見た。
それからロジーナさんのお母さんが寝ている長椅子のほうへ歩いていった。
――――――――――――――――――
【ヘンリエッテ視点】
ローデ家当主、ヘンリエッテ。41歳。
殿方の肖像を描いて25年。描いた殿方は400人を超える。
本日、私は娘の絵の前で倒れた。2回。
予言されていたらしい。あとで娘から聞いた。
*
ローデ家の絵は婚姻院のために描く。
縁組みが決まると殿方館の窓辺に通い、殿方を何日もかけて写す。その絵が淑女の家に送られる。淑女は一生に一度だけ、その絵で殿方の顔を知る。
だから、ローデ家の描く殿方は笑わない。
淑女の家に届く絵は、殿方の品位そのものでなければならない。白い手袋。高い襟。まっすぐな目。閉じた口。400人全員をそう描いた。母も祖母も、そう描いた。
ただ1度だけ、そうでない絵を描いたことがある。
19歳の春だった。母の助手として殿方館に通っていたころ、窓辺の老いた殿方が、窓枠に止まった小鳥を見て少しだけ笑った。
私はその顔を夢中で描いた。
母は絵を見て言った。
「殿方の笑みは、描くものではありません。見るものです」
絵は婚姻院には出さなかった。
捨てることもできず、丸めて屋敷の屋根裏の箱にしまった。
22年、一度も開けていない。
*
娘の絵が展覧会に出ると聞いたのは、7日前だった。
題は『笑う殿方』。
私は題を聞いただけで筆を1本折った。
娘はローデ家の四女である。小さいころから口数が少なく、家の写しの前にばかり座っている子だった。描くのは上手だが、誰にも絵を見せたがらない。
その娘が、笑う殿方を描いた。
そして王都の展覧会に出した。
今朝、私は行列の最後尾に並んだ。当主の名を出せば奥に通してもらえる。そうしなかったのは、ほかの淑女と同じ距離からあの絵を見たかったからだ。
2時間並んで縄の前に立った。
殿方が笑っていた。
首を少し傾けて、誰かに話しかけようとしている顔で。卓の向こうの誰かに、次の牌のことを言おうとしている顔で。
筆遣いはまだ若い。影のつけ方も甘い。額縁の釘が1本曲がっている。
それでも、生きていた。
落ち着きなさい、ヘンリエッテ。41歳。当主。400人を描いた手である。娘の習作ひとつで揺らぐ手ではない。絵はまず構図を見る。次に光。それから——
……筆が折れた。2本目だ。
握っていたつもりはなかった。並んでいる間に胸ポケットから抜いて、ずっと指の間で回していたらしい。
しかも絵から3mのところにご本人がおられた。
ご本人が絵と同じ顔で笑っておられた。「いい仕事、してますねぇ」と何かの口真似をなさり、右に3歩、左に3歩と動かれる。そのたびに、絵の殿方とも本物の殿方とも目が合った。
私の描いた400人の殿方は、1人も生きていなかった。そのとき初めて気がついた。
気がついたら、床の上にいた。
*
目を覚ますと、殿方が私に手を差し出していた。
「隣の席のリツです」とおっしゃった。
娘の隣の席。では、娘は毎日この顔の隣に座っているのか。落ち着きなさい。落ち着いて、まず筆を握りなさい。当主のたしなみである。
私は胸ポケットから3本目を抜いて左手に握った。
差し出されたのは手袋の手だった。布告のことは聞いている。挨拶である。挨拶なのだ。
私は懐から手袋を出してはめた。仕事用の、絵の具だらけの手袋だった。当主の手袋がこれしかないことを生まれて初めて悔やんだ。
殿方の手を握った。
温かい。
400人を描いて、私は一度も殿方の手に触れたことがなかった。殿方館の窓辺から、3m離れて写すのが決まりである。手袋の白は何百回も塗った。その下が温かいことを、私は知らなかった。
左手の中で、3本目が折れた。
2回目に倒れた理由は、それである。
胸ポケットに残っている筆は、あと1本。
*
次に目を覚ましたとき、長椅子の横にフードの淑女が立っていた。
私はすぐに起き上がって片膝をついた。
20年前、即位の肖像を描く母の助手として、私はこの方の前に40日座った。顔を見間違えるはずがない。
「陛下」
「通りすがりの者である」
陛下はフードを少しだけ上げて私を見下ろした。
「ローデ。余の即位の肖像には、そなたも筆を入れたな」
「はい」
「笑っておらなんだ」
「女王は、笑わぬものでございますので」
「余もそう思っておった」
陛下は奥の部屋の絵のほうを見た。
「4日前までは」
私は何も言えなかった。
「あの絵を描いたのは、そなたの娘か」
「はい」
「……そなたの娘か」
「はい」
同じことを2回聞かれた。2回目のほうが、声が少しだけやわらかかった。
陛下は私に背を向けて出口のほうへ歩き出し、歩きながら一言だけ言った。
「次の肖像は、娘に描かせよ。笑っておるものを」
付き添いの背の高い騎士が「失礼いたします」と頭を下げて陛下の後を追った。
殿方がその騎士の背中に向かって手を振っていた。騎士は振り返らない。耳が赤かった。
*
夕方、美術館が閉まる前に娘を呼んだ。
ロジーナは私の前に立って帳面を胸に抱えていた。叱られると思っているのだろう。小さいころから、この子はそういう顔をする。
「ロジーナ」
「……はい」
「その帳面、見せなさい」
ロジーナは少しだけ迷ってから帳面を差し出した。
4冊ある。一緒に差し出された筆箱には、筆が1本と、短い鉛筆が1本だけ入っていた。ほかの筆がどうなったのかは聞かなくても分かる。
血筋である。
私は1冊目から開いた。
机を寄せて教科書を見せる殿方。牌を並べる殿方。卵焼きを配る殿方。書見台を抱えて走ってくる殿方。燕尾服でお辞儀をする殿方。
どのページの殿方も、笑っていた。
4冊目の最初のページの隅に小さな丸が1つ描いてあった。少しだけ四角い丸だった。
何の丸かは、そのときは聞かなかった。
「……全部、笑っているわね」
「……ごめんなさい」
「謝ることではありません」
私は4冊の帳面を娘に返した。
「家に帰ったら、屋根裏に一緒に来なさい。見せたいものがあるの」
ロジーナが顔を上げた。
「22年前に描いた絵よ。殿方が1人、小鳥を見て笑っている」
娘は何も言わなかった。
ただ、両手で顔を覆った。
私の娘だから、分かる。あれは泣いている顔ではない。
うれしいときの顔だ。
*
帰る前に私はもう一度だけ奥の部屋に戻った。
絵の前の札は朝のままだった。
『お手を触れないでください』
『ご本人にも、お手を触れないでください』
殿方はまだ部屋の隅にいた。連れの生徒たちを待っているらしい。
行列の淑女たちは殿方から3歩離れたところで、白い手袋の手を胸の前で握りしめていた。布告は出ている。それでも、この札がある限り誰も手を出せない。
今日、殿方の手の温かさを知っているのは、この部屋で私だけだった。
それは少し不公平だと思った。
私は胸ポケットから最後の1本を抜いて、2枚目の紙の下に1行だけ書き足した。
『ただし、手袋どうしの握手は、この限りではない』
ローデ家当主の署名を添えた。最後の1本は、折れなかった。
淑女たちが札を読んだ。白い手袋の手が、いっせいに少しだけ前に出た。
殿方は少し驚いた顔をしてから笑って、一番前の淑女の手を握った。
次の淑女の手も握った。その次も。
行列の一番最後には、銀の髪の令嬢が並んでいた。ブランシュ公爵家の長女である。「学園の彫像」と呼ばれていると聞いたことがある。殿方と一緒に来ていた方だ。
順番が来ると、令嬢は右手を差し出した。
拳のままだった。手袋の中で、指が1本も開いていない。
殿方は手を出したまま待っておられた。令嬢も拳を出したまま待った。
拳は、開かなかった。
そこで閉館の鐘が鳴った。
「続きは、また今度ですね、先輩」
令嬢は「……はい」とだけ答えて、拳を胸に戻した。
その日、美術館の閉館は1時間遅れた。
――――――――――――――――――
【ロジーナ視点】
——その夜、ローデ家の屋根裏では。
屋根裏の階段は、のぼるたびにきしむ。
小さいころ、一度だけ1人でのぼって叱られた。ローデ家の屋根裏には当主しか開けない箱がある。そう教えられて育った。
今夜はお母さまが燭台を持って先をのぼっている。学園の外泊の許しは、お母さまが学園長あてに一筆書いて取ってくださった。
階段の下では、おばあさまの部屋の灯りがまだついていた。お母さまはそちらを一度だけ振り返って何も言わずにのぼっていった。
箱は一番奥の、梁の下にあった。
お母さまが蓋の埃を手のひらで払う。22年ぶんの埃で、燭台の火が揺れた。
中には、丸めた紙が1枚だけ入っていた。
お母さまが紐をほどいて床の上に広げる。
窓辺の、年をとった殿方だった。
白い手袋。高い襟。ローデ家の決まりどおりの姿で、ただ1つだけ違う。窓枠に止まった小鳥のほうへ少しだけ顔を向けて、殿方は笑っていた。
お、お母さまが。
笑う殿方を。
22年前に……!
落ち着いて、ロジーナ。落ち着いて。お前はローデ家の四女。わたしの絵は、ローデ家で最初の笑う殿方ではなかった。それは、うれしいことだ。うれしいことのはずなのに、なぜ手がこんなに震えるのか。
筆を持っていないのに、右手が筆を折る形になっている。
何も持っていない指の中で、何かがぽきりと鳴った気がした。
「19歳の春に描いたの」
お母さまは絵から目を離さずに言った。
「おばあさまに、殿方の笑みは描くものではない、見るものだ、と言われて。それきり、ここにしまっておいた」
わたしは絵を見た。筆遣いが若い。影のつけ方が甘い。小鳥の羽が1枚多い。
それでも、この殿方は生きていた。
「……お母さまの絵も、笑ってます」
「あなたの絵もね」
お母さまは、わたしが抱えてきた帳面を膝の上に開いた。4冊目の、最初のページ。書見台を抱えて走ってくる殿方。
その隅を、絵の具のしみた指先がとん、と叩いた。
少しだけ四角い、小さな丸。
「これは何?」
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★作者より
お読み頂きありがとうございます。
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よろしければそちらも是非ご覧下さい。
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