第20話 庭の扉
【リツ視点】
入学して65日目。学園祭の朝。
1年A組の前の廊下には、もう行列ができていた。
整理券を持った人たちが廊下の端まで並んでいる。窓の外を見ると学園の門の前にも人がいた。王都の騎士団の人たちが列を作らせている。
コルネリアさんの「回転率が命ですわ」の意味が、少し分かった気がした。
教室の入り口の横ではアンネさんがロジーナさんの看板を両手で抱えて立っていた。看板の執事は、なぜか僕にそっくりだ。アンネさんの胸には今日も『セバスチャン』の名札がついている。
リゼットさんは廊下の端から端まで号外を配って歩いていた。今日のは行列の並び方の案内らしい。いつもより字が大きい。
ロジーナさんはお皿の係の合間に帳面に何か描いていた。のぞきこむと、燕尾服の男の子がお辞儀をしている。
僕だった。
ロジーナさんは両手で帳面ごと顔を覆った。
今日だけは、3mの決まりがお休みだ。学園長がそう決めてくれたらしい。みんなの顔が、いつもより近くに見える。
僕は燕尾服の襟を直して白い手袋をはめた。
鏡の前でもう一度だけ練習する。胸に手を当てて、深くお辞儀。
よし。
*
最初のお客さんは、整理券1番の女の子だった。
お母さんに手を引かれて入り口に立っている。8歳くらいだろうか。ほっぺたが赤くて、緊張した顔をしていた。
僕は深くお辞儀をした。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
女の子は目をまん丸にした。
それから大きな声で答えた。
「ただいま!」
こんなに元気よく「ただいま」と返してくれたのは、この子が初めてだ。
窓際の一番いい席に案内すると、女の子は椅子に座るより先に僕に向かって手を振った。
小さな手を、いっぱいに。
あれ、と思った。
この振り方を、僕は知っている。
殿方館の白い壁の横。座りこんだ人たちの中で1つだけこっちに振られていた小さな手。走りながら2回振り返した、あの手だ。
「もしかして……殿方館の前の通りで、手を振ってくれた子ですか?」
「うん! とのがた、2かい、ふりかえした!」
あのときの子だ。
あの日は顔までは見えなかった。見えたのは手だけだった。でも、この手だった。
「あのときは、ありがとうございました。すごくうれしかったです」
「わたしね、とのがたと、あそびにきたの」
女の子は僕の胸の名札を指さして1文字ずつ読んだ。
「り、つ。……りつどの!」
「はい。リツです」
紅茶を注いで、両手でハートを作る。
「おいしくなあれ」
「おいしくなあれ!」
女の子が真似をしてくれた。
お母さんは隣の席で、静かに倒れていた。
「おかあさん、また、やすんでる」
女の子は慣れた様子でそう言って紅茶を両手で飲んだ。
15分はあっという間だった。帰り際、女の子は入り口でもう一度振り返って小さな手をいっぱいに振った。
僕も振り返した。2回。
お母さんは女の子に手を引かれてまっすぐ前を見たまま帰っていった。
*
昼前に問題が起きた。
お菓子が、なくなった。
コルネリアさんが仕入れてくれた焼き菓子は1日ぶんで3000個。それが昼前に全部なくなった。お客さんが1人で3個も4個も追加で頼んだからだ。
「仕入れの見込みを、外しましたわ」
コルネリアさんが帳面を握りしめていた。帳面の数字の上に、インクの染みが1つ増えている。商人の娘が見込みを外すのは、たぶんとても悔しいことなのだと思う。
廊下にはまだ200人以上が並んでいる。
お茶だけ出すのは、さびしい。
「僕、何か作ります」
教室が静まり返った。
「寮の厨房に卵があるはずです。卵焼きなら、すぐ作れます」
「リツ殿」
コルネリアさんが珍しく強い声で言った。
「卵焼きは、その……おやめになったほうが」
「どうしてですか? 甘いのにするので、大丈夫ですよ」
コルネリアさんは何か言いかけて、口を閉じた。
リゼットさんが号外を配る手を止めた。
ロジーナさんは両手で顔を覆っている。
僕は厨房に走った。学園の中なので、走っても大丈夫だ。イルゼさんが2歩後ろからついてきた。
*
卵焼きを40本焼いた。
最初に焼いた日より、ずっと上手に巻けるようになっていた。殻も1回も入らない。
その間、イルゼさんは厨房の隅でずっと包丁を研いでいた。
1本研ぎ終わると、次の1本。厨房にある包丁を、たぶん全部。
切り分けようとして驚いた。包丁が、卵焼きにすっと入っていく。
「イルゼさん、すごく切れます! 切れ味がよくなりました!」
「……恐縮です」
イルゼさんは手を止めずに答えた。砥石の音が、しゃっ、しゃっと規則正しく鳴っている。
40本目を巻き終えて、僕はフライパンを置いた。
腕を組んで、並んだ卵焼きを見下ろす。
「勝ったな」
砥石の音が止まった。
「……何に、でございますか」
「なんとなく、言ってみたかっただけです。あとは片付けるだけです」
イルゼさんは少し黙ってから、また包丁を研ぎ始めた。
*
教室に戻って、1切れずつお皿に載せた。
お客さんに出すたびに、お客さんが動かなくなる。それでもみんな最後には食べてくれた。
食べ終わった人の何人かはテーブルに小さな花や手紙や刺繍のハンカチを置いていった。お代とは別に。
「お気持ちです」
みんな、そう言った。
「ありがとうございます! 律儀の律なので、お気持ちは全部大事にします!」
そう言ったら、置いていく人がもっと増えた。
この国の人は礼儀正しい。律儀の律としては、見習わないといけない。
何も置いていかなかった人の中に、1人だけ気になるお客さんがいた。眼鏡をかけた、きちんとした服の女の人だ。卵焼きを1切れゆっくり食べて、お代だけをきっちり払って、深く一礼して出ていった。
去り際に小さな声で「……受理するしかない」とつぶやいていた気がする。
何のことか、分からなかった。
*
昼過ぎ、廊下がざわっとした。
ざわっとしかけて、急に静かになった。
廊下じゅうの人がいっせいに音を消したのだ。こんなに大勢が一度に音を消すのは、初めて聞いた。
僕は入り口に出た。
廊下の真ん中に3人の男の子が立っていた。
白い手袋に高い襟。背の高い人と、少し背の高い人と、小柄な人。
アルフォンスさんと、ノルベルトくんと、エミールくんだった。
3人の後ろに殿方館の館長さんが立っていた。
僕は何も考えずに深くお辞儀をした。
「お帰りなさいませ!」
アルフォンスさんはしばらく僕を見ていた。燕尾服の僕を、上から下まで。
それから、少しだけ口の端を上げた。
「……ただいま、戻った」
――――――――――――――――――
【アルフォンス視点】
殿方館筆頭、アルフォンス。17歳。
本日、私は生まれて初めて、館の外へ遊びに出た。
*
その朝のことを書いておく。
朝食の席に館長が来た。館長が朝食の席に来るのは珍しい。
館長は私とエミールとノルベルトの前に1枚の紙を置いた。
学園祭の案内だった。ノルベルトが学園から連れ戻された日に、あの殿方が館長に手渡したものだ。館長はそれを胸のポケットにしまっていたはずだった。
紙は何度もたたんで開いたように、角が柔らかくなっていた。
「本日、学園祭への来訪を許可します」
ノルベルトが椅子から立ち上がった。エミールはパンを落とした。半分に割る前のパンである。
私は館長の顔を見た。
館長は私を見ていなかった。テーブルの上の案内を見ている。
「ただし、私が付き添います。それから」
館長は懐から鍵を取り出した。
庭の鍵だった。
「帰ってきたら、これを開けます」
私は何も言えなかった。
館長はそれ以上何も言わずに部屋を出ていこうとした。扉の前で、一度だけ立ち止まる。
「……アルフォンス。6歳のときのあなたを、私は抱き上げて、庭を閉じました」
館長の背中が少しだけ震えていた。
「あれから11年。あなたは、自分で起き上がれる年になりました」
扉が閉まった。
*
学園に着くまでのことはあまり覚えていない。
白い馬車の窓から、初めて王都の街を見た。赤い馬車ばかりが走っていた。あの殿方の言う「3倍」の馬車だ。ノルベルトは窓に張りついて、ずっと「赤い」「赤い」と言っていた。箱の中からは見えなかった色だそうだ。
エミールは窓の外に何かが見えるたびに「うわ」と言った。
館長は向かいの席で膝の上に両手を置いていた。一度だけ、何も持っていない右手を口元へ運びかけて、やめた。茶器があれば、茶を飲むときの仕草である。
学園の廊下には淑女があふれていた。
私たちが歩くと、淑女たちは壁に張りつくように道を開けた。誰も声を上げない。全員が平静を保っていた。
1年A組の入り口に、あの殿方が立っていた。
黒い燕尾服を着て。白い手袋をはめて。
「お帰りなさいませ!」
お帰りなさい、と言われた。
殿方館の外で。
帰る場所は館しかないと思っていた私に、あの殿方は「お帰りなさい」と言った。
「……ただいま、戻った」
そう答えるのが正しい気がした。
*
あの殿方は私たちを教室の奥に連れていった。
「せっかくだから、一緒に執事をやりましょう!」
断る理由を探した。品位。心得。館長の付き添い。
見つからなかった。
気がつくと私は燕尾服を着ていた。商会の娘が予備を3着用意していたらしい。
「殿方がお越しになる見込みも、帳面に入れておりましたの」
商会の娘はそう言ってから小さく「回転率が命ですわ」とも言った。意味は分からない。
あの殿方は私たちに執事の作法を教えた。
「お客さんが来たら、深くお辞儀して、『お帰りなさいませ、お嬢様』です」
エミールが小さな声で練習した。「おかえりなさいませ、おじょうさま」。
ノルベルトは大きな声で練習した。入り口に並んでいた淑女が3人、そろって壁のほうを向く。
私は、1度だけ言った。
入り口に立った淑女は整理券を握りしめたまま動かなくなった。席に案内しても動かない。茶にも手をつけない。15分のあいだ、ずっとそのままだった。
商会の娘が帳面を見て、何かを書き直した。
「……回転率が、落ちましたわ」
それが何かは知らぬが、私のせいらしい。
「あと、何でもできる執事は、聞かれたらこう答えるんです」
あの殿方は胸に手を当てた。
「あくまで、執事ですから」
私はその姿勢を真似た。
「……あくまで、執事ですから」
あの殿方が手を叩いて笑った。
「完璧です、アルフォンスさん!」
私は何でもできる執事ではない。茶を注ぐのも、今日が初めてである。それでも、そう答えるのが作法なのだという。
悪くない作法だと思った。
*
午後、館長が入り口に立った。
整理券は持っていない。付き添いの立場で、入り口の脇から黙って中をのぞいている。
私は入り口に出た。
館長の前に立って深くお辞儀をした。
「お帰りなさいませ、館長」
館長は、動かなかった。
灰色の髪をひとつにまとめた頭が少しだけ揺れている。
35年、この人は殿方館で殿方を迎えてきた。毎朝、私の部屋の扉を叩いて「おはようございます、アルフォンス」と言ってきた。
私がこの人を迎えるのは、初めてである。
「アルフォンス、あなたは——」
館長は言いかけて、やめた。
それから、小さな声で言った。
「……ただいま、戻りました」
あの殿方が窓際の一番いい席に館長を案内した。紅茶を注いで両手で小さなハートを作った。
「おいしくなあれ」
館長はそれを見て、声を出して笑った。
館長の笑い声を、私は初めて聞いた。
*
夕方、学園祭が終わった。
片付けの前に、あの殿方が言った。
「最後に、みんなで決めポーズをしましょう!」
あの殿方は腰をひねって片手を顔の前にかざした。美術の授業で生徒会長殿に止められたと、手紙に書いてあった姿勢だ。
「本当は、ゴゴゴゴ……って音が出るといいんですけど」
ごごごご、とは何か。
聞く前に、教室の淑女たちの口が動いていた。
「……ごごごご」
小さな声だった。1人ではない。教室じゅうの淑女が平静な顔のまま口々に「ごごごご」と言っていた。2歩後ろの護衛の騎士も、言っていた気がする。
ノルベルトがすぐに真似をした。エミールは、少し遅れて。
私は、少しだけ迷った。
それから、真似をした。
殿方が4人、教室の真ん中で腰をひねって、指の隙間から前を見ていた。
ごごごごの声が止んだ。
教室にいた淑女は、全員床に座りこんでいた。
あの殿方が私を見て言った。
「GG!」
「……GG」
「GG!」
「じーじー!」
4人の声がそろった。
それから、あの殿方はエミールとノルベルトの前に立った。
「エミールくん、ノルベルトくん。僕と、友達になってください」
ノルベルトは返事より先にあの殿方の手をつかんでいた。手袋のままだった。
「なる!」
エミールは私を見た。私はうなずいた。
「……なり、ます」
殿方同士の友の契りに、前例が2つ増えた。
*
夜、殿方館に帰った。
館長は約束どおり、庭の扉の鍵を開けた。
暗い庭に、白い花がぼんやりと浮かんでいる。
ノルベルトが真っ先に走り出した。エミールが続いた。
私も、走った。
噴水の角を曲がる。夜の芝生は少しだけ冷たい。息が上がる。心臓がうるさい。
振り返ると、扉のところに館長が立っている。
館長は、手を振っている。
あの殿方が初めて館を訪れた日、門を出て走っていく背中が窓から見えた。殿方は振り返って、私に手を振った。私は振り返しそうになって、一歩下がった。通りの小さな子は、振り返していたのに。
今夜は、下がらなかった。
私は、手を振り返した。
*
部屋に戻って引き出しを開けた。
品位の指導の報告書の控えが入っている。所感の欄が空欄のままの報告書だ。
私はペンを取ってその空欄に書き足した。
所感:走るとは、生きている心地である。
それから、あの殿方に手紙を書いた。
短い手紙だった。それでも、いつもよりほんの少しだけ長い。
『リツ殿へ。庭の扉が開いた。今夜、3人で走った。館長が、手を振っていた。私も、振り返した。ただいま。 アルフォンス 追伸 ごごごご、とは何か』
窓辺の白い花瓶には、押し花がもう43枚並んでいる。
明日の朝、44枚目が届く。
――――――――――――――――――
【イルゼ視点】
学園祭の日の昼、私は寮の厨房で包丁を研いでいた。
剣は腰にある。だが厨房で剣を抜くわけにはいかない。手入れの代わりになるものが、ほかになかった。
*
殿方が卵を割っておられる。
1個目から殻が入らない。あの朝から、ずいぶん上達された。
止めろ、イルゼ。
止めて何と言う。「その卵焼きは求婚です」と? 言えるか。学園長は通知を控えると決められた。私は護衛官だ。護衛官の職分に、卵焼きの差し止めはない。
しゃっ。砥石が鳴る。1本目。
では、せめて食べる者を減らせぬか。廊下には200人以上が並んでいる。卵焼きは40本。1本を3切れに切れば120切れ。
計算してどうする。
しゃっ。2本目。
コルネリア殿は止めようとした。そして止められなかった。商いの娘が止められなかったものを、私が止められる道理はない。道理はないが、止めたい。止めたいが、止めて何と言う。
話が最初に戻った。
落ち着け、イルゼ。お前は王国騎士だ。
王国騎士が、厨房で、包丁を研いでいる。
しゃっ。3本目。
あの朝も、私はこの厨房にいた。味見を、と差し出された1切れを、目を閉じて受け取った。甘かった。
申請書のその1行には、線を3本。
しゃっ。4本目。
「イルゼさん、すごく切れます! 切れ味がよくなりました!」
殿方が振り返って、うれしそうにおっしゃった。
私が研いだ包丁で、殿方は卵焼きを切り分けておられる。殿方の手料理を、120切れに。
護衛官の職分に、それを止める項目はない。包丁を研ぐ項目も、ない。
厨房の包丁は12本あった。12本とも研いだ。13本目を探したが、なかった。
40本目を巻き終えた殿方が、腕を組んで「勝ったな」とおっしゃった。
何に勝たれたのかは存じ上げない。ただ、負けたのは私のほうだという気がした。
*
卵焼きは昼過ぎまでに1切れ残らずなくなった。
食べ終えた淑女たちがテーブルに花を置いていく。手紙を置いていく。刺繍のハンカチを置いていく。
「お気持ちです」
返礼である。
殿方は「律儀の律なので」と1つずつ礼を言っておられた。礼を言われた淑女は、もう1つ置いていった。
1つ置かれるたびに、コルネリア殿の帳面のインクがにじんだ。のぞくつもりはなかったが、2歩の距離からは見えてしまう。にじんでいたのは「返礼:多数」と書かれた欄だった。
コルネリア殿はペンを置いて、その欄を指で押さえた。押さえても、染みは広がっていく。
眼鏡の淑女が1人、卵焼きを1切れゆっくり召し上がっていた。お代をきっちり払い、深く一礼して、何も置かずに出ていく。
置かなかった。
置けば、受理される。置かなければ、されない。あの淑女は、それを知っている顔をしていた。
私と同じく、置かない理由のある人なのだろう。
*
夕方、殿方が4人、教室の真ん中で妙な姿勢をとられた。
その前に、リツ様が「ゴゴゴゴ……って音が出るといいんですけど」とおっしゃった。
気がつくと、私の口も動いていた。
ごごごご。
落ち着け。護衛官の職分に、ごごごごはない。
教室の淑女は全員、床に座りこんだ。私は座らなかった。剣の柄を握っていたからである。手袋の革が、1度だけ鳴った。
*
その夜、私はリツ様の部屋の前で剣の手入れをした。
昼に12本研いだ手で、13本目を研いでいる気がした。
扉の向こうから声が聞こえた。
「友達が、3人になった」
しばらくして、もう一度。
「3人……」
3回目は、もう眠そうな声だった。
アルフォンス殿と、エミール殿と、ノルベルト殿のことだろう。
*
2日後、婚姻院から通知が届いた。私は報告書を書いた。
報告書(第5報)
件名:学園祭について
報告者:専属護衛官 イルゼ
1.執事喫茶、来客数1200名。
2.焼き菓子3000個、昼前に完売。
3.殿方、卵焼き40本を焼く。当職は止めず。
4.殿方館の殿方3名、来訪。執事を務める。殿方館の館長殿、声を出して笑う。
5.殿方4名にて、謎の姿勢をとる。教室の淑女全員、床に座りこむ。
6.殿方、エミール殿およびノルベルト殿と友の契りを交わす。殿方同士のため、婚姻院への申請はなし。
備考1:本人は「りちぎのりつ」を自称。(※自称)(※本人談)(※要検証)
備考2:婚姻院より通知。友の契りの申請、新たに23件受理。婚約者は計52名となった。
備考3:受理の通知書の担当者欄に、婚姻院申請受付係クラリッサ殿の署名あり。同殿の申請は、なし。
備考4:当職、寮の厨房にて包丁12本を研ぐ。殿方より「切れ味がよくなりました」との評を得た。業務に支障なし。
備考4は書く必要がなかった。
消そうとして、やめた。報告書に嘘は書けない。
*
報告書を封筒に入れて、私は寮の廊下に出た。
リツ様の部屋の扉は、今夜は静かだった。
婚約者は、52名である。
友達は、3名である。
どちらも本当のことだ。リツ様がご存じなのは、友達のほうだけである。そしてリツ様にとっては、そちらのほうがずっと大事なのだと思う。
私は扉の前で小さく頭を下げた。
それから2歩下がって、見張りについた。
今夜は、ちゃんと目を開けていようと思う。




