第19話 執事喫茶
【リツ視点】
入学して58日目の朝。イルゼさんが2歩後ろに戻ってきた。
昨日1日いなかっただけなのに、背中のあたりが少しすうすうしていた。いつもの鎧の音が後ろで鳴ると、なんだか安心する。
「イルゼさん、HPはどうですか」
「……半分ほどかと」
「じゃあ、また宿屋ですね」
「……検討いたします」
イルゼさんはまっすぐ前を見たまま答えた。
*
ホームルームでハイデマリー先生が言った。
「7日後は学園祭です。1年A組の出し物を決めます」
学園祭。
案内の紙をもらった日からずっと待っていた。僕は思わず背筋を伸ばした。
青春小説で何十回も読んだ行事だ。クラスで出し物を決めて放課後に準備をして、前の日は遅くまで残る。当日はみんなで盛り上がる。
前世の高校の学園祭は病室の窓から花火の音だけ聞いた。
「何か案のある方は」
教室はいつものように静かだった。
誰も手を挙げない。たぶん僕から話しかけないと、みんな発言しにくいのだと思う。学園長通達の第3項だ。
僕は手を挙げた。
「喫茶店はどうですか!」
「……きっさてん?」
「お茶とお菓子を出すお店です。故郷の学園祭の定番なんです」
前世の青春小説では喫茶店にもいろいろな種類があった。普通の喫茶店。和風の甘味処。それから、メイド喫茶と執事喫茶。
このクラスは僕以外の全員が女の子だ。
でも女の人が給仕するお店なら、王都で何軒も見た。この国では珍しくもなんともない。
だったら。
「執事喫茶にしましょう! 僕が執事をやります!」
教室の空気が止まった。
ハイデマリー先生の手からチョークが落ちた。
「……しつじ、とは」
「お客さんのお世話をする、男の人の給仕係です。お茶を運んで、お辞儀をして、『お帰りなさいませ、お嬢様』って言うんです」
30人が同時に息を止めた気がした。
誰も何も言わない。
でも、誰も反対もしなかった。
前のほうの席でリゼットさんが帳面に何かを書き始めた。字がだんだん大きくなっていくのが後ろからでも見えた。コルネリアさんは帳面の上でペンを止めていて、インクの染みがじわじわ広がっている。ロジーナさんは両手で顔を覆っていた。
「……反対の方は」
ハイデマリー先生の声がかすれていた。
誰も手を挙げなかった。
1年A組の出し物は、執事喫茶に決まった。
先生が黒板に係を書いていく。看板の絵はロジーナさん。仕入れと衣装はコルネリアさん。宣伝はリゼットさん。看板を持って廊下に立つ係はアンネさんになった。廊下側の一番前の席の子で、先生が言い終わる前に手を挙げていた。
執事は、僕。
黒板の一番下に先生の字で小さく「殿方」と書いてあった。
*
準備は楽しかった。
まだ生徒会の承認は下りていない。それでも、3m離れたまま相談するだけで楽しかった。
2日目、僕は大事なことを思い出した。
「そうだ。執事の名前は、だいたいセバスチャンなんです」
「せばすちゃん?」
コルネリアさんが帳面から顔を上げた。
「故郷の本だと、執事はみんなセバスチャンなんです。たぶん、そういう決まりなんだと思います」
次の日の朝。教室に入ると5人が胸に名札をつけていた。
全員、セバスチャンだった。
お茶を運ぶ係の子も、お皿を洗う係の子も、セバスチャンだった。アンネさんの名札もセバスチャン。看板にまで小さく「セバスチャン」と書き足してある。
「あの、セバスチャンは執事の名前なので、僕が……」
コルネリアさんが3m向こうの机に僕の分の名札を置いて、すっと下がった。
『リツ』と書いてあった。
「リツ殿のお名前を変えるわけにはまいりませんわ。記録に残りますので」
執事喫茶の執事が、僕だけ執事の名前じゃなかった。
その日の夕方、教室の扉に生徒会の許可証が貼られた。
『1年A組の出し物を承認する。準備と予行に限り、通達第1項を免除する』
エレオノーラ先輩の字だった。少しだけ震えていた。
*
次の日は、採寸からだった。
「殿方のお体を、淑女が測るわけにはまいりませんので」
「……私も、淑女ですが」
「騎士様は、任務ですわ」
コルネリアさんはそう言って巻き尺をイルゼさんに渡した。エレオノーラ先輩から借りてきたものらしい。美術の時間にイーゼルの円を測った、あの巻き尺だ。
イルゼさんは巻き尺を持ったまま3秒固まった。
「……肩幅、失礼いたします」
イルゼさんの手がものすごく震えていた。巻き尺が肩の上でぷるぷる揺れて、なかなか数字が読めない。
「イルゼさん、寒いですか?」
「……いいえ」
腕の長さを測るのに10分かかった。
数字はコルネリアさんが3m離れたところで帳面に書き取っている。書き取りながら、なぜか帳面の端に小さく何かを書き足していた。
放課後はみんなで机を並べ替えて白い布をかけた。
帰り道、学園の中庭を歩いていると遠くからリゼットさんの声がした。
「リツ殿!」
ちょうど3m向こうにリゼットさんが帳面を構えて立っていた。
「号外の見出しの確認です! 『殿方、給仕す』でよろしいですか!」
「執事喫茶でお願いします!」
「『殿方、執事す』!」
「喫茶も入れてください!」
「『殿方、給仕す その名も執事喫茶』!」
「それでお願いします!」
中庭にいた人たちが全員こっちを見ないようにしていた。
その夜、寮の裏から素振りの音が聞こえてきた。数えるつもりはなかったのに、眠るまでに500回を超えていた。
*
次の日の朝、号外が配られた。
セレスタ学園新聞 号外 第7号
見出し:殿方、給仕す その名も『執事喫茶』
1年A組の学園祭の出し物が「執事喫茶」に決定。殿方リツ殿が執事として茶を運ばれる。
殿方いわく、来店した客を「お帰りなさいませ、お嬢様」と迎えるとのこと。
なお、執事の名はセバスチャンと定まっている。殿方を除く。
入場の方法は追って知らせる。
僕が言ったことが全部入っていた。リゼットさんはすごい。
その次の日の昼休み、コルネリアさんが黒板に紙を貼った。
「お客様の数が、見込みを大きく超えましたの。抽選と整理券にいたしますわ。お1人さまお茶1杯、15分まで」
「15分ですか」
「回転率が命ですわ」
商人の娘の顔だった。かっこいい。
*
僕は執事の練習をした。
前世の漫画で何度も読んだ執事がいる。何でも完璧にこなして、主人に「どうしてそこまでできるの」と聞かれると胸に手を当ててこう答える。
「あくまで、執事ですから」
鏡の前で練習した。胸に手を当てる角度。お辞儀の深さ。
イルゼさんが2歩後ろで鏡越しに目をそらしていた。
*
衣装ができあがった。
黒い燕尾服に白い手袋。胸には銀の鎖の懐中時計。制服の詰襟よりは少しだけ首元が開いている。名札は『リツ』のままだ。
着替えて教室に戻ると、30人が一斉にこちらを見て、一斉に目をそらした。
セバスチャンたちも全員そらした。
似合っていないのかもしれない。
*
前日。入学して64日目。
授業が終わってから、リハーサルをした。
お客さん役はクラスの子たちが交代でやってくれた。
僕は入り口で深くお辞儀をした。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
お客さん役の子がその場で膝をついた。
次の子も、膝をついた。
3人目は入り口に入る前から膝をついていた。
「あの、膝はつかなくて大丈夫です。普通に席に座ってください」
練習にならなかった。
仕方がないのでお茶を出す練習に移る。
紅茶を注いでテーブルに置く。そのとき、前世の本で読んだメイド喫茶のおまじないを思い出した。料理がおいしくなるように、両手でハートを作って言う呪文だ。
執事がやるものではないかもしれない。でも、お茶がおいしくなるなら、やっておいて損はない。
僕は両手で小さなハートを作って、紅茶に向けた。
「おいしくなあれ」
お客さん役の子がカップを両手で持ったまま動かなくなった。
カップの中の紅茶だけが小さく揺れている。
しばらくして、教室の扉が開いた。
エレオノーラ先輩だった。生徒会の腕章をつけて、手に書類を持っている。後ろには野外実習で同じ班だったヘルガさんが立っていた。
「生徒会の、監査です」
僕は入り口に向き直って深くお辞儀をした。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
先輩の手から、書類が落ちた。
先輩は膝をつかなかった。背筋を伸ばして立ったまま、まっすぐ前を見ていた。
さすが、生徒会長だ。
それから小さな声で言った。
「……た、ただいま、戻りました」
教室じゅうが静かになった。
セバスチャンたちの手から、お盆が1枚ずつ落ちた。
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【エレオノーラ視点】
ブランシュ公爵家の長女、エレオノーラ。
学園祭の前日、私は生まれて初めて「ただいま」と言った。
殿方に。
*
1年A組の出し物の申請書が生徒会室に届いたのは、6日前だった。
出し物の名前の欄にはこう書いてあった。
『執事喫茶』
説明の欄にはこうあった。
『殿方が執事として、お客様に給仕いたします』
私は申請書を5回読んだ。
殿方が。給仕を。
落ち着きなさい、エレオノーラ。
まず「執事」を辞書で引いた。載っていない。
次に恋歌を引いた。載っていない。13歳の冬に78回読んだ恋歌にも、茶を運ぶ殿方は1人もいない。恋歌の殿方は盾にはなっても、茶は運ばない。
盾になる殿方は、あの野外実習の日、本当に現れた。
では茶を運ぶ殿方も、7日後に本当に現れるのか。
現れる。申請書にそう書いてある。殿方の字で。
落ち着きなさい。これは殿方の字ではない。担任のハイデマリー先生の字である。殿方の字はもっと丸い。……なぜ私は殿方の字の丸さを知っているのか。知っているのである。理由は問わないでいただきたい。誰に頼んでいるのか。
申請書の下の、見込みの欄も見た。
見込みの来客数は、最初「12」と書かれていた。線で消されて、横に「1200」。商会の娘の字である。桁を2つ書き違えたらしい。
あの娘が数字を書き違えるのを、私は初めて見た。
承認するべきか。却下するべきか。
生徒会長として、私は3日悩んだ。
却下すれば、殿方は悲しまれる。殿方は学園祭を何か特別なもののように楽しみにしておられる。部室でそうおっしゃっていたと、リゼットに聞いた。
承認すれば、学園が持たない。
3日目の夕方、私は学園長室を訪ねた。
学園長は申請書を3秒見て言われた。
「承認なさい。学園祭の当日に限り、通達第1項は停止します」
「よろしいのですか」
「殿方が茶を運ぶ姿を見られるのは、この国でこの学園だけです」
学園長の指が机の上の印を2回とんとん叩いた。
口の端が1mm上がった気がする。
私は承認の署名をした。準備と予行のための許可証もその場で書いた。
右手は、まだ開いた。
*
承認の翌日から、問題が起き始めた。
まず、入場券である。
学園祭は例年なら生徒の家族しか来ない。ところがリゼットの号外第7号が出た途端、王都じゅうから問い合わせが来た。
入場券は例年の30倍の申し込みがあった。
商会の娘が抽選と整理券の仕組みを一晩で作った。整理券には番号と時刻が書いてあり、1人あたり茶1杯、15分まで。本人は「回転率が命ですわ」と言っていた。意味はよく分からない。
抽選の当選者の名簿は、生徒会でも確かめた。
王都じゅうの淑女の名前が並んでいた。商家の娘、騎士、貴族の令嬢。その中に、王都婚姻院の申請受付係の名前があった。クラリッサ、とあった。
婚姻院の職員が、なぜ学園祭に。
考えかけて、やめた。考えると、引き出しの奥のほうに思いが行く。
それから母親の付き添いつきで、8歳の女の子の名前もあった。整理券の番号は、1番だった。
申し込みの紙の備考の欄に、母親の字で1行だけ書き添えてあった。
『娘が、あの殿方と遊ぶと申して聞きません』
抽選は公正に行われた。商会の娘がそう言っていた。私は、それ以上は聞かなかった。
次に、警備である。
当日の警備には王都の騎士団から20名が来ることになった。それでも足りるかどうか、誰にも分からない。
それから、もう1つ。
殿方館の館長から、学園長あてに書状が届いた。
学園長は書状を読んで私に1行だけ見せてくださった。
『殿方館の者の来訪の可否は、当日の朝に決めます』
来訪。
殿方館の殿方が館を出て、学園に来るかもしれない。
私はその書状の写しを生徒会室の引き出しにしまった。号外60部と、ハンカチの隣に。
*
採寸の日の夕方、イルゼ殿が巻き尺を返しに来られた。
「お借りしました」
「……どうも」
イルゼ殿はそれだけ言って早足で帰っていかれた。
私は巻き尺を机に置いた。
置いて、見た。
殿方の肩幅の目盛りのところだけ、温かい気がする。
落ち着きなさい。巻き尺に体温は残らない。残らないはずである。そもそも測ったのはイルゼ殿で、巻き尺が殿方の肩に触れたのは、ほんの数秒である。
イルゼ殿の手の震えを考えると、10分かもしれない。
私は巻き尺を肩幅の目盛りに触れないように巻き取った。巻き取ってから、引き出しにしまいかけて、やめた。机の上に置いた。
ヘルガが無言で、差し出しかけた引き出しの鍵を引っこめた。
*
前日、私は予行の監査に入った。
生徒会長の務めとして、当日の運営に問題がないか確かめなければならない。そう自分に言い聞かせて書類を持って1年A組の扉を開けた。
ヘルガを連れていったのは、私が倒れたときに運ばせるためである。備えは万全だ。
殿方が入り口に立っておられた。
黒い燕尾服。白い手袋。胸に銀の鎖。名札には『リツ』。
その後ろに、『セバスチャン』の名札をつけた淑女が5人いた。
殿方の故郷では、執事は皆その名を名乗るのだという。号外で読んだ。殿方と同じ係の名を胸に下げる。夫婦が同じ家名を名乗るのと何が違うのか。落ち着きなさい。殿方の名札はリツである。セバスチャンではない。5人はただの、セバスチャンである。
殿方は深くお辞儀をされた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
書類が手から落ちた。
お帰りなさいませ。
公爵家の屋敷に帰れば、侍女たちが毎日そう言う。私は16年間、その言葉を聞いて育った。何の重みもない、ただの挨拶だった。
それを、殿方が言った。
この国で、殿方が淑女を「迎える」ことはない。殿方は迎えられるものである。館の奥で、扉の向こうで、淑女が会いに来るのを待つもの。
その殿方が扉の前に立って、私を迎えた。
お帰りなさい、と。
膝が、折れそうになった。
ブランシュ家の歴代当主の肖像画を思い浮かべようとした。初代様の顔がどうしても出てこなかった。13代目のお祖母様も、14代目の母も出てこない。
頭に浮かんだのは、医務室の天井と、教科書の逆さまの文字と、凍ったツノイノシシと、左手で受け取った甘い卵焼きと、3人で見た1枚の絵だった。
全部、殿方のことである。
私は膝をつかなかった。背筋を伸ばしたまま、立っていた。
学園の彫像として。
ただ、口だけが勝手に動いた。
「……た、ただいま、戻りました」
教室じゅうが静まり返った。
殿方は少し驚いた顔をされて、それから笑われた。
「はい。おかえりなさい、先輩」
おかえりなさい。
お帰りなさいませ、ではなく。
侍女の挨拶ではなく、家族の言葉だった。
私は落ちた書類を拾おうとした。
右手が、開かなかった。
書類の角をつまもうとして、指が1本も動かない。拳のまま、床の上で止まっている。
「先輩、また手、つりました?」
「……つって、おりません」
「でも」
「つって、おりません」
ヘルガが無言でしゃがみ、書類を全部拾い集めた。
*
監査の結果は生徒会室に戻ってから書いた。
左手で、である。
字は震えて斜めに傾き、ところどころ読めなかった。ヘルガが無言で隣の机に座り、同じ記録を清書した。
監査記録
対象:1年A組 執事喫茶
1.衛生:問題なし。
2.導線:入り口にて客が膝をつくため、渋滞の恐れあり。
3.給仕:殿方が紅茶に「おいしくなあれ」との呪文を唱えられた由(客役の生徒より聴取)。効果は未確認。
4.名札:セバスチャン5名。殿方1名(リツ殿)。
5.生徒会長:入り口にて「ただいま」と発言。
所見:当日、学園が持つかどうかは不明。
5の項目は書くべきか迷った。
書いた。監査記録に嘘は書けない。
ヘルガも清書で一字も省かなかった。
清書が終わると、ヘルガは私の右手を取った。
何も言わずに、指を1本ずつ開いた。親指。人差し指。中指。薬指。小指。
手のひらに、爪の跡が5つ残っていた。
「……ありがとう、ヘルガ」
ヘルガは1回だけうなずいて書類をまとめに戻った。
私は記録を引き出しにしまおうとして、手を止めた。
引き出しの中に、殿方館の館長からの書状の写しがある。
『来訪の可否は、当日の朝に決めます』
明日の朝。
私は引き出しを閉めた。
明日、殿方は誰を「お帰りなさいませ」と迎えるのだろう。
淑女たちだけだろうか。
それとも。




