第18話 イルゼの休日
【リツ視点】
ノルベルトくんの馬車と並んで門まで走ったあとで振り返った。
イルゼさんが2歩後ろで膝に手をついて、肩で息をしていた。毎朝5周走るときは息ひとつ乱さずについてくる人だ。
イルゼさんが息を切らしているのを僕は初めて見た。
*
その夜、寮の部屋で考えた。イルゼさんはいつ寝ているんだろう。
夜中に水を飲もうとして扉を開けると、イルゼさんがいる。朝に顔を洗いに出てもいる。休日も殿方館に行く日も王都に出かける日も、2歩後ろにいる。
この世界に来てもうすぐ2か月。その間、イルゼさんは1日も休んでいない。
ゲームなら、HPのゲージがとっくに赤くなっている。警告の音が鳴りっぱなしのころだ。
*
次の日の昼休み、学園長室に行った。
「イルゼさんに休みをあげたいんです。故郷では有給休暇っていうんです。働いた人がちゃんと休める日です」
オティーリエ学園長はまばたきを1回した。
「護衛官の代わりは、どうなさいますか」
「それは、えっと」
考えていなかった。
「東部警備隊から交代の者を呼びましょう。日は明後日。休日ではなく平日になさい。殿方が教室に座っておられる日が、いちばん護衛の手がかかりませんので」
「じゃあ僕、ちゃんと授業に出ます! 1回も立ち歩きません!」
「……殿方はふだんから立ち歩いておられませんが」
「気持ちの問題です」
学園長の口の端がほんの少し動いた気がした。
部屋を出たところで、イルゼさんがようやく口を開いた。
「リツ様。私は休みを必要としておりません」
「必要な人ほど、そう言うんです」
前世の病室で看護師さんに何度も言われた台詞だ。言う側に回るのは初めてだった。
*
休みの前の夜、僕は紙を1枚用意した。
前世で遠足のしおりを何回も読んだ。遠足には行けなかったけれど、読むだけで楽しくなる紙だった。イルゼさんはたぶん休み方を知らない。だったら、しおりがあればいい。
休日のしおり(イルゼさん用)
1.朝寝坊
2.甘いもの
3.剣のことを忘れる
※剣はお留守番です。
「明日のしおりです。この3つをやってください」
扉の前で渡すと、イルゼさんは紙を3秒見つめた。それからかかとをそろえた。
「……拝命いたします」
しおりって、拝命するものだったかな。
*
入学して57日目の朝。
寮の前にヴァーレン商会の赤い早馬車が止まっていた。普通なら2日かかる東部の砦から、夜通し走ってきたらしい。3倍速いと一晩で着く。
降りてきたのは2人の騎士だった。
「東部警備隊、副官のドーラです。本日1日、イルゼ隊長の代わりを務めます」
「く、訓練生のミアです!」
見覚えがある。この世界に来た最初の日、砦の中庭で兜を落とした人と、壁に額をつけた人だ。
「お久しぶりです! あの日は、お世話になりました!」
僕が頭を下げると、ドーラさんの手から兜が落ちた。ミアさんは寮の壁のほうへゆっくり歩いていった。2人とも全然変わっていない。
ゲームで言えば、今日1日だけのパーティメンバー入れ替えだ。
イルゼさんは玄関で直立していた。紺色の地味な上着に、長いスカート。腰に剣はない。鎧を着ていないイルゼさんは初めて見る。
ただ、朝露で濡れた石段の中でイルゼさんの足元だけが乾いていた。
……いつから立っていたんだろう。しおりの1番は、朝寝坊なのに。
「リツ様。やはり私は」
「だめです。イルゼさん、HPが減ってます。宿屋に泊まって一晩休めば全回復です。今日は宿屋の日です」
「……やどや?」
「休む日、っていう意味です。僕は放課後、ドーラさんとミアさんと紙飛行機を飛ばします。紙を折って飛ばす遊びなので、危なくないです」
「かみ、ひこうき?」
イルゼさんは何か言いかけて、小さく頭を下げた。
「……行ってまいります」
門を出ていくまでに、イルゼさんは何度も振り返った。
*
その日、1年A組の教室には騎士が2人いた。
ドーラさんは僕の席からちょうど3歩後ろに立った。
「隊長は殿方の2歩後ろと伺っております。私は副官ですので、3歩とさせていただきます」
ミアさんは教室の後ろの壁を向いて立った。1時間目も2時間目も3時間目も、ずっと壁を向いていた。
「……あの、そちらの騎士殿は」
ハイデマリー先生が1回だけ聞いた。
「訓練生は壁と一体化しております。お気になさらず」
ドーラさんが真面目に答えると、ミアさんの背中が小さく「すみません」と言った。
休み時間に、ミアさんが壁を向いたまま、大きな声のひそひそ話で教えてくれた。
「イルゼ隊長は砦にいたころも一度もお休みを取られたことがないんです。わたしたち、隊長が寝ているところを見たことがありません」
「隊長は騎士学校を首席で出られた方です。首席になるために、休むことを覚えなかったのだと思います」
ドーラさんが静かに付け足した。
休むことを、覚えなかった。
僕は、休むことしか覚えられなかった。
*
放課後、門の近くの前庭に3人で並んだ。
部室の常設許可証は遊戯部の活動中だけ有効だ。2人は部員じゃないから、外で3mずつ離れて並ぶ。紙飛行機なら、離れていても一緒に遊べる。
紙は部室の書き損じと、僕の歴史の答案用紙。赤い字で大きく「12」と書いてある。一番丈夫そうなので、これにした。
「まず、縦に半分!」
「縦に半分!」
ドーラさんは書類みたいに角をそろえて、折り目を爪で3回なぞった。紙飛行機はまっすぐ飛んで、まっすぐ落ちた。ドーラさんが歩幅で測ってうなずく。
「20歩。規定どおりです」
何の規定かは分からない。
ミアさんはぎゅっと目を閉じて投げた。紙飛行機はふわっと上がって、空中で大きく輪を描くと、戻ってきてミアさんのおでこにぽすっと当たった。
「ひゃい」
自分の紙飛行機に撃ち落とされる人を僕は初めて見た。
最後は僕の番。答案用紙の紙飛行機の翼に、ふと思いついてペンで書いた。
『イルゼさん、HP回復してますか?』
届くわけはない。でも、書きたかった。
思い切り投げたところへ、風が吹いた。紙飛行機はぐんぐん上がって、門の上を越えていく。
「あっ」
門の外は学園の外だ。僕の館の外。走れないし、外出の許可もない。
「リツ殿。門の外へのお出ましには、学園長の許可証が要ります」
ドーラさんが規定どおりの声で言った。
「……ですよね。誰かが、拾ってくれたらいいなあ」
ついでに、12点だと気づかない人だといいな、とも思った。
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【イルゼ視点】
王国騎士、イルゼ。26歳。
本日、休暇。学園は平日である。休むのは私1人だ。
騎士学校に入って10年。休暇というものを私は取ったことがない。
*
昨夜、殿方から命令書を賜った。しおり、と殿方はおっしゃった。殿方の故郷では命令書をそう呼ぶのだろう。
項目は3つ。造作もない。
そう思った。
*
項目1。朝寝坊。
午前4時に目が覚めた。いつもどおりである。
まだ取り返せる。目を閉じた。寝ればいいのだ。寝る。眠る。休む。
落ち着け、イルゼ。休日の型その1。
……そんなものはない。私は師範代なので知っている。淑女の平静の型は2つ。剣の型は36。休日の型は、0である。
天井の板を数えた。27枚。数え直しても27枚。
4時20分に起きた。項目1、失敗。
剣を腰に差そうとして、手が空を切った。
※剣はお留守番です。
剣を置けと。騎士に。殿方に手袋を外せと申すようなもので——いや、この方は外しておられる。毎日。
では、置くしかない。
私は剣を部屋に置いて玄関に立った。午前5時。休暇なので見張りではない。ただ立っていただけである。
*
門を出るまでに7回振り返った。数えてしまった。
王都の大通りを歩く。どこへ行けばいいのか分からない。休日に私が何をしていたかなら、思い出せる。素振りである。
腰が軽すぎる。歩くたびに、左の腰が「ない」と言っている。
*
項目2。甘いもの。
広場の茶店に入った。どの卓でも淑女たちがまーじゃんを打っていて、奥から「ロン。……御無礼」という声がする。壁には新しい貼り紙があった。
王国まーじゃん大会(仮)参加者募集
主催:ヴァーレン商会
(仮)のまま客を集めるあたりが、商会の娘らしい。
茶と焼き菓子を頼んだ。来た焼き菓子を半分に割り、匂いをかぎ、端を少しかじって、30数えた。
異常なし。
……毒見をしてしまった。これは毒見であって、甘いものではない。項目2は保留とする。
隣の卓の淑女が「1人足りないのですが、いかが」と声をかけてきた。首を振った。打ち方はリツ様の後ろで全部覚えている。だが、リツ様のいないところで打つ気にはなれない。
2杯目の茶を飲みながら、ふと手元を見た。
右手の匙を小さく上下に振っていた。
素振りの型だった。数えると、37回目。数えながら振っていたらしい。
項目3。剣のことを忘れる。失敗。匙で。
匙を置き、両手を膝に置いた。両手は膝の上で、まだ少し素振りをしたがっていた。
*
大通りの武器屋は、通り過ぎるだけのつもりだった。
店先でおかみさんが剣を磨いていた。先月、リツ様が短剣を手に取られたとき、カウンターの下に沈んでいった方だ。
気がつくと、店の中にいた。
油を布にしみこませる。刃の根元から先へ、一度で拭く。返して、もう一度。
今日いちばん落ち着いた。それが問題なのだとは、うすうす分かっている。
気づけば1時間。
「お客さん、今日はお休みかい。たまには剣のことなんか忘れなよ」
命令書の項目3と同じことを、武器屋のおかみさんにまで言われた。よほどのことである。
項目3、2度目の失敗。
*
婚姻院の前には、今日も行列ができていた。貼り紙の『当院に、天井はございません』の下に、誰かが小さく『まだ』と書き足している。
その横を、足早に通り過ぎた。
あの列に並ぶことは、私にはできない。
*
昼過ぎ、自分がどこにいるのかに気がついた。
学園の門の向かいの、並木の陰だった。
門の向こうに1年A組の窓が見える。窓際の、後ろから2番目。リツ様の席である。
ガラスの向こうの黒い髪は、前を向いておられた。教室の後ろには、壁を向いて立つ騎士の姿が小さく見える。ミアだ。
私はそれを並木の陰から見ていた。
途中で騎士団の巡回に2回声をかけられた。学園をのぞく不審な者がいる、という通報があったらしい。2回目は騎士学校の後輩だった。
「先輩……何をなさっているのですか」
「……休暇です」
後輩は何も言わずに敬礼して去った。
これは休暇ではない。分かっている。ただ、ほかに行きたい場所がどこにもなかった。
*
放課後の鐘のあと、門の内側から声が聞こえてきた。
「まず、縦に半分!」
リツ様の声だった。背筋が伸びた。休暇中である。伸ばす必要はない。伸びた。
門の上の空に白いものがふわりと上がった。鳥にしては角が多い。かみひこうき、とはあれのことだろうか。
白いものは風に乗って門を越え、並木の上を回って、私の足元に落ちた。
紙を鳥の形に折ったものだった。翼に、見慣れた字がある。
『イルゼさん、HP回復してますか?』
えいちぴー。今朝、減っているとおっしゃった、あれである。
翼の裏には、赤い字で大きく「12」とあった。何かの答案らしい。見なかったことにした。淑女の平静である。
門の向こうから「誰かが、拾ってくれたらいいなあ」という声がした。
拾いました、と言いに行けばいい。20歩である。
行けなかった。今日の私は、ここにいるはずのない者だ。
翼が折れないように、紙の鳥をそっと胸のポケットに入れた。
指先に、小さな丸いものが触れた。
*
リツ様が初めて王都にお出かけになった日、いただいた黄色い飴だった。任務中ですので、としまったまま28日。
今日は、任務中ではない。
長椅子に座って、飴を口に入れた。
甘かった。
項目2、遂行。
*
甘い、という言葉を前にも書いたことがある。
リツ様が卵焼きを焼いた朝、私は厨房で味見を頼まれた。1切れ、口に入れた。
その夜、婚姻院への申請書を書いた。婚姻法第3条。殿方が友を求めることを公に表し、手ずから作った食を分け与え、淑女がそれを口にしたとき。
返礼の欄は空けた。何を書けばいいのか分からなかった。
理由の欄の最後に1行だけ書いた。
『味見を頼まれ、口にした。甘かった』
読み返して、線を引いた。1本では足りない気がして、もう1本。それから3本目。
3本引いても、字はまだ読めた。読めるように引いたのかもしれない。それは今でも分からない。
翌朝それを送ってから、男性保護法の条文を思い出した。第21条。護衛官は、その護衛対象と婚姻の関係にあってはならない。
婚約者になれば、リツ様の2歩後ろに立てなくなる。
私は使いを走らせて、申請を取り下げた。
後悔はしていない。婚約者になるより護衛官でいることを、私は自分で選んだのだ。
ただ、飴が甘いと、少しだけ思い出す。
胸のポケットの中で紙の翼がかさりと鳴った。
*
並木から門までは20歩である。20歩で帰るのは、休暇として何かが違う気がした。夕方、私は大通りをひと回りしてから、正面の門をくぐった。
玄関の前にリツ様が立っておられた。後ろにドーラとミアが3mずつ離れて並び、ミアのおでこが少し赤い。
「おかえりなさい、イルゼさん!」
おかえりなさい。
落ち着け、イルゼ。殿方が、門で淑女を待っておられた。古い恋歌にある。戦から帰った騎士を殿方が門で待つ歌で、淑女なら誰でも寝る前に一度は読む。最後の一節で騎士は殿方の前に膝をつき——
読むな。今、最後まで思い出すな。
騎士学校の寮でも東部の砦でも、私にそう言った者はいなかった。
「休めましたか?」
「……はい」
嘘だった。リツ様は私の顔をじっと見て、少し困ったように笑われた。
「休めなかったんですね」
「……休み方が、分かりませんでした」
騎士が殿方の前で嘘をつき通すことは、できない。
「しおり、どうでした?」
「項目1、失敗。項目2、遂行。項目3、失敗。……2度」
リツ様は吹き出してから、うなずかれた。
「僕は逆なんです。前の……故郷では、ずっと休んでばかりで。休み方しか、知らなかったんです」
びょうしつ、という言葉は使われなかった。だが、たぶんそのことだと思った。
「だから、今度は一緒に練習しましょう。イルゼさんは休む練習。僕は、がんばる練習」
一緒に、練習。
返事ができなかった。代わりに、少しだけ深く頭を下げた。
胸のポケットの紙のことは、言わなかった。
*
その夜、報告書を書いた。休暇の報告書を書く決まりはない。だが、書かずにいられなかった。
報告書(休暇)
件名:休日のしおりの遂行について
報告者:専属護衛官 イルゼ
1.朝寝坊:失敗。午前4時に起床(平常どおり)。
2.甘いもの:遂行。飴1つ。甘かった。茶店の焼き菓子は毒見に該当するため数えない。
3.剣のことを忘れる:失敗。武器屋にて1時間。茶店にて匙による素振り37回。
4.その他:学園の門の向かいにて殿方を見守る。3時間。騎士団の巡回より職務質問2回。
5.拾得物:紙製の鳥1羽。届け出の要なしと判断。
所感:休暇、失敗。次回、殿方と共に練習の予定。
書き終えて、いつもの見張りの場所に座る。玄関の椅子だ。
腰に手をやると、剣がない。部屋に置いたまま、取りに行くのを忘れていた。
剣のことを、忘れていた。
……項目3。
少しだけ、目を閉じた。
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【リツ視点】
夜中に目が覚めて、水を飲みに廊下へ出た。
玄関の椅子に、イルゼさんが座っていた。いつもなら、僕が扉を開けた瞬間にこっちを向く。でも今夜は動かない。
「イルゼさん?」
へんじがない。ただの……いや、寝てるだけだ。
ゲームの癖で、ひどいことを考えてしまった。ごめんなさい、イルゼさん。
椅子の背にもたれて、腕を組んで、小さく寝息を立てている。この世界に来て2か月。イルゼさんが寝ているところを、僕は初めて見た。
胸のポケットから、白い紙の角がのぞいていた。折り目のついた三角の先に、僕の字で「HP」と見える。
……拾ってくれたの、イルゼさんだったんだ。今日はずっと王都にいたはずなのに。
聞きたかったけれど、起こしたくなかった。
玄関の壁に、紺色のマントが掛けてあった。最初の日、草原でイルゼさんが僕にかけてくれたマントだ。「羽織っていてください」と、2回言われた。
僕はそれをイルゼさんの肩にかけて、前を合わせ、首元の留め金を留めた。あの日、イルゼさんが僕にしてくれたのと同じように。
「羽織っていてください」
小さな声で、2回言った。
イルゼさんは起きなかった。HP、ちゃんと回復しますように。
部屋に戻って、ログイン36日目の手紙を書いた。
『アルフォンスさんへ。今日、イルゼさんがお休みでした。休み方が分からなかったそうです。でも今、玄関で寝ています。初めて見ました。宿屋の日、たぶん成功です。 リツ』
押し花は、紺色の花にした。




