第13話 天井まで回せば
【リツ視点】
入学して33日目の放課後。購買部の前に、見慣れない木の箱が置かれていた。
箱の上には八角形の木の筒が横向きに載っている。取っ手を回すと筒がからからと回って、小さな穴から玉が1つ転がり出る仕組みらしい。
福引きだ。
箱の横に貼り紙があった。
秋の福引き週間 1回 銅貨1枚
特賞 王都の老舗菓子店の焼き菓子詰め合わせ
3等 便箋と封筒
4等 鉛筆1本
はずれ ちり紙1枚
僕は立ち止まった。
ガチャだ。
前世の病室で、僕はソシャゲを3つ掛け持ちしていた。課金はほとんどできない。そのかわり毎日ログインして無料の石をこつこつ貯め、限定キャラが来るたびに全部使って回していた。
回す前には儀式がある。手を洗う。ベッドの上で正座する。看護師さんが来ない時間を選ぶ。当たったときは小さくガッツポーズをして、点滴の管が揺れて、結局看護師さんに怒られた。
焼き菓子の詰め合わせ。いつもの3人と分けたら、きっと楽しい。
3等の便箋も欲しい。アルフォンスさんへの手紙は毎日書いているので、便箋はいくらあっても足りない。
「イルゼさん。僕、回してきます」
2歩後ろでイルゼさんが短く息を吸った。
「……殿方手当の範囲で、お願いいたします」
「はい。10回だけです」
購買部のおばさんに銅貨を10枚渡した。
「10連でお願いします!」
「じゅうれん……?」
「10回まとめて回すことです。まとめて回すと、なんとなく当たりやすい気がするんです」
「……気が、するだけですか」
「気がするだけです」
儀式をしようとして、ここに水場がないことに気づいた。廊下で正座をするわけにもいかない。しかたがないのでハンカチで手を3回拭いてから取っ手を握った。
*
1回目。からから、ころん。白い玉。
「はずれです。ちり紙1枚」
2回目。白い玉。ちり紙。
3回目も白。4回目も白。5回目から9回目まで、全部白。
机の上に白いちり紙が9枚、きれいに積み重なっていく。
10回目。
筒の穴から、青い玉が転がり出た。
「あ、確定演出……」
前世のガチャでは、最後の1回で玉の色が変わるのはいいものが出る合図だった。虹色なら最高、金色ならその次。
青は、どうだったっけ。
「おめでとうございます。4等、鉛筆1本です」
「……じゃなかった」
鉛筆1本と、ちり紙9枚。
「……爆死だ」
思わず声に出た。
ちり紙9枚を両腕に抱えると腕の中が真っ白になった。前世で読んだボクシング漫画の最後のページが浮かぶ。リングの隅の椅子に座って真っ白になって、静かに笑っている主人公。
「真っ白に……燃え尽きたぜ……」
おばさんがちり紙の山と僕の顔を見比べた。
「……まだ燃えてはおりませんが」
「気持ちの問題です。それに物欲センサーが働いてたと思うので、しかたないです」
「ぶつよく……?」
「欲しいと思っているときほど出ないんです。故郷では、そういう目に見えない仕組みがあるって言われてて」
おばさんはなぜか神妙な顔でうなずいた。
「……分かります」
何か思い当たることがあるらしい。
気がつくと後ろに行列ができていた。15人くらい。全員が女の子で、全員がこっちを見ていなかった。
でも全員の耳がこっちを向いている気がする。列の真ん中あたりで、金色の巻き毛が背の高い子の陰にすっと隠れた。気のせいかもしれない。
「でも、大丈夫です。天井まで回せば、必ず来るので」
「てんじょう?」
「何回外れても、あきらめずに回し続けたら最後には必ず当たる仕組みのことです。たとえば100回回したら特賞が確定する、みたいな」
おばさんはしばらく黙っていた。
後ろの行列も黙っていた。さっきより、もっと黙っていた。
「……当店の福引きには、ございませんが」
「あ、そうですよね。故郷の話です」
さすがに異世界のガチャに天井はないらしい。
僕は銅貨をもう10枚出しかけた。
「リツ様」
イルゼさんの手が、僕と銅貨の間にすっと入った。
「本日の手当の上限です」
「……あと10回だけ」
「上限です」
「天井まで、あと90回なんですけど」
「天井はございません。先ほど店主殿がそう申されました」
正論だった。
ちり紙9枚と鉛筆1本を抱えて購買部を後にする。振り返ると、行列が倍になっていた。
*
寮に戻る前に教室に寄った。
ロジーナさんがまだ残っていて、帳面に何か描いている。
「ロジーナさん。これ、よかったら。4等なんですけど絵を描く人が持っていたほうがいいと思って」
ロジーナさんは鉛筆を見つめた。それから僕を見て、また鉛筆を見た。
「……あの、この前、色鉛筆が、見つからなくて」
「え、そうなんですか。じゃあちょうどよかった」
ただの黒い鉛筆なので、色はないけれど。
ロジーナさんは鉛筆を両手で受け取って、そのまま両手で顔を覆った。指の間から鉛筆が1本、まっすぐ上に突き出している。
「あの、ロジーナさん?」
「……だいじょうぶ、です」
顔を覆ったまま返事をされた。耳が赤い。いつものことだ。
*
その夜、部屋の前でイルゼさんに呼び止められた。
「リツ様。昼間の『爆死』とは、何でございますか」
「えっと、福引きでたくさん回したのに何も当たらないことです。爆発して死ぬくらいの衝撃、っていう意味で」
イルゼさんの顔がさっと青くなった。
「……死ぬ、のですか」
「死にません」
「爆発、するのですか」
「しません。たとえです」
「殿方の故郷では、福引きで人が」
「死にません。ガチャで人は死にません」
「では、何が死ぬのですか」
少し考えた。
「……お財布、ですかね」
イルゼさんは真剣な顔でうなずいた。
「では、リツ様のお財布は私がお守りいたします」
ガチャで人が死なないと分かってもらうまでに、20分かかった。
部屋に入ってしばらくすると、中庭のほうから空気を切る音がした。窓からのぞくと、月明かりの下でイルゼさんが剣を振っている。
数えてみた。50回。80回。100回。
100回を超えても終わらない。30分たっても、まだ振っている。
僕のお財布のために、あんなに。
少し申し訳なくなって僕はアルフォンスさんへの手紙に「今日、福引きで爆死しました」と書いた。説明が要るかもしれないと思い直して「死んでません」と書き足した。
*
次の日の朝、福引きの箱に新しい貼り紙がしてあった。
お知らせ
当店の福引きに、天井を導入しました
100回で特賞確定
殿方の故郷の仕組みにならいました ヴァーレン商会購買部
すごい。
ひと晩で、この国にも天井が実装された。
頭の中でファンファーレが鳴る。前世でも、天井がつくお知らせが来た日は病室で1人で拍手をしたものだ。
教室に入るなり僕はコルネリアさんのところへ行った。3m手前で止まるのは、もう体が覚えている。
「コルネリアさん! 購買の福引き、天井ができてました!」
「……さようですか」
「ひと晩で導入ですよ。神運営だ!」
「かみ、うんえい……?」
「お客さんのことをちゃんと考えてくれるいいお店のことです。故郷では、そういうお店を神って呼ぶんです」
コルネリアさんはなぜか窓の外を見ていた。
耳が少しだけ赤い。今日は暑いのかもしれない。
「でも天井って本当に大事なんですよ。当たりが100回に1回でも、100回引いて当たるとは限らないので」
コルネリアさんがゆっくりこちらを向いた。
「……限らない、のですか」
「はい。100回に1回の当たりを100回引いても、当たる見込みは3回に2回くらいなんです。前に本で読みました。だから天井がないと、運の悪い人はずっと当たらなくてそのうちやめちゃうんです」
コルネリアさんは黙って帳面を開いた。
ものすごい速さで計算が始まる。数字が帳面の端から端まで埋まっていく。商人の娘は、確率の話が好きなのかもしれない。
「……3回に2回」
「はい」
「残りの3回に1回の方は、天井がなければ、ずっと」
「当たらないまま、です」
コルネリアさんのペン先が、帳面の1行で止まった。
そこだけ大きな字で書いてあったので、3m離れていても読めた。『3回に1回』。
ペン先からインクがじわりと染み出して、その行の上で丸く広がっていく。
「あの、コルネリアさん。インクが」
「……存じておりますわ」
コルネリアさんは帳面を閉じた。
なぜか、ほんの少しだけ悲しそうな顔をした気がした。
その日の休み時間、購買部の前の行列は校舎の端まで伸びていた。
みんな、ガチャが好きなんだなあ。
――――――――――――――――――
【クラリッサ視点】
王都婚姻院、申請受付係。クラリッサ。34歳。
学園から最初の申請書が届いて3週間。12年間暇だった私の窓口は、暇ではなくなった。
*
あの19通のあとも申請はぽつぽつと続いた。数日おきに1通か2通。いずれも殿方の卵焼きを口にした淑女からで、婚約者は23名になった。
それから問い合わせの行列ができた。
「殿方の卵焼きは、どこで手に入るのですか」
1日100人。私は1日100回「手に入りません」と答えた。
申請書の用紙は行列の淑女たちに1枚ずつ持っていかれた。「念のため」だそうだ。何の念のためなのかは聞かなかった。残っていた41枚は2週間でなくなった。
ここまでは、まだよかった。
*
その朝、窓口を開けると申請書が312通届いていた。
学園の申請が届くまでの12年間、私の受付件数は合わせて7件である。それがひと晩で312通。
落ち着きなさい、クラリッサ。受付係は数えるところから始める。
数えた。312通。もう一度数えた。312通。3回目は数えるのをやめた。
41通は行列に持っていかれた本物の用紙。残りの271通は手書きの写しである。誰かが用紙の書式を一字一句写して回したらしい。罫線まで手で引いてあった。私が引くよりまっすぐだ。
最初の1通を開いた。
友の契り 申請書
申請者:王立セレスタ学園 2年 ****
対象の殿方:リツ殿
申請の理由:
1.当該殿方は、「天井まで回せば、必ず来る」と述べられた。(添付:学園新聞号外第5号)
2.「何回外れても、あきらめずに回し続けたら、最後には必ず当たる」との意と解する。
3.よって申請者は、本日より毎日申請を行う。
4.100回目の申請をもって、受理されるものと解する。
私は4の行を3回読んだ。
100回目で、受理。
そんな規定は婚姻法386条のどこにもない。全部読んだので知っている。12年、暇だったので。
2通目を開いた。同じだった。3通目も同じ。王都の商家から、騎士団の宿舎から、郊外の村から。書いた場所はばらばらなのに、4の行だけが一字一句同じである。
落ち着きなさい、クラリッサ。1人が毎日1通。100回目で受理と解するなら100日。312人が100日。
3万1200通。
用紙はもう1枚もない。私の手首は2本しかない。
落ち着きなさい。計算をやめなさい。計算は受付係の仕事ではない。
添付の号外も、全部同じだった。
セレスタ学園新聞 号外 第5号
見出し:殿方いわく「天井まで回せば、必ず来る」
殿方リツ殿は、購買部の福引きにて10回続けて外れた際、「天井まで回せば、必ず来る」と述べられた。
殿方によれば、天井とは「何回外れても、あきらめずに回し続けたら、最後には必ず当たる仕組み」であるという。
なお殿方は、外れが続く現象を「物欲センサー」と呼んでおられる。欲しいと思うほど出ない、見えない仕組みであるとのこと。
また殿方は、外れのちり紙9枚を抱えて「真っ白に燃え尽きた」と述べられた。(※燃えてはいない。購買部に確認済み)
購買部は、福引きへの天井の導入を検討中とのこと。
私は号外を置いて目を閉じた。
殿方は福引きの話をしておられる。どう読んでも福引きの話である。ちり紙の話である。
それがなぜ婚姻院に届くのか。
答えは分かっていた。この国の淑女は、殿方のおっしゃることを全部ご自分に向けた言葉として受け取る。12年この窓口に座っていればそれくらいは分かる。
あきらめずに回し続けたら、必ず当たる。
それを、殿方が言った。何百年も殿方に会うことすらできなかった淑女たちに向かって。
*
私は312通を1通ずつ確かめた。
婚姻法第3条の条件を満たしているかどうか。殿方の手料理を口にして、返礼を献じたかどうか。
満たしていたのは6通。
残りの306通には「不受理」の印を押した。
不受理の印は練習したことがない。12年間、受理の印の角度ばかり練習していたからだ。
1通目の不受理は、少し曲がった。
50通目で、まっすぐになった。
100通目で、どの角度で押せば手首が楽かが分かってきた。
200通目。上達したくなかった。
落ち着きなさい、クラリッサ。不受理の印は1つしかない。306回押せば、ひびも入る。
……私の手首にも入りそうだ。
306回目で印の柄に本当にひびが入った。手首のほうはまだ入っていない。たぶん。
受理した6通には、それぞれ同じ一文が書き添えてあった。
『申請が遅れたことを詫びる。天井まで待つつもりだったが、殿方の言葉で、待つのをやめた』
6人とも、あの日学園で卵焼きを口にした淑女である。条件はとうにそろっていたのに、今日まで出していなかった。
あきらめずに回し続ける、の意味をこの6人は逆に取ったのだ。
回さなければ、当たらない。
だから、回した。
6通には受理の印を押した。12年練習した角度で。3週間前の3通目のようには曲がらない。306回の不受理で手首が慣れていたからだと思う。慣れたくはなかった。
婚約者登録簿を開いて6人の名前を書き加えた。名前はここには書かない。守秘義務である。
婚約者登録簿
殿方:リツ殿
登録された婚約者:29名
根拠:婚姻法第3条
備考:本日、不受理306通。うち手書きの写し271通。不受理印の柄、1本破損。
*
昼過ぎには、窓口の前の行列が広場まで伸びた。
みんな申請書を持っている。用紙ではなく、手書きの写しだ。
1人目の淑女が窓口に申請書を差し出した。
「本日の分です」
「失礼ですが、殿方の手料理は」
「口にしておりません」
「では、不受理です」
「承知しております。明日も参ります」
2人目も3人目も、同じことを言った。
明日も参ります。
行列の中にはいろいろな淑女がいた。騎士団の制服の人。商家のおかみさん。杖をついた80歳過ぎのおばあさん。
それから、母親に手を引かれた8歳くらいの女の子。
女の子は背伸びをして、窓口に紙を差し出した。紙には大きな字でこう書いてあった。
とものちぎり しんせいしょ
りゆう:とのがたが、てを、ふってくれたので。てんじょうまで まわします
「……殿方の手料理は、食べましたか」
「まだ」
「では、不受理です」
「しってる」
女の子はきっぱりと言った。
「とのがた、わたしに、てをふったの。だから、あしたもくる。てんじょうまで、まわす」
殿方館の前の大通りを殿方が走り抜けた日のことは、王都じゅうの噂になっている。座りこんだ淑女たちの中で、1人だけ殿方に手を振った子どもがいた、という噂も。
この子なのだろう。
女の子の後ろで、母親が申し訳なさそうに頭を下げた。下げた頭がそのままゆっくり下がっていき、膝が折れる。母親は窓口の前の石畳に静かに座りこんだ。
行列の淑女たちは少しだけ場所を空けた。今日だけで、もう何人も座りこんでいる。慣れたらしい。
女の子は母親の隣にしゃがんで、背中をとんとん叩いた。
「おかあさん、またやすんでる」
「……ちょっと、休んでいるだけよ」
私は不受理の印を押しかけて、少しだけ手を止めた。
それからいつもより少しだけていねいに押した。ひびの入った柄がきしりと鳴った。
*
私は窓口の上に貼り紙をした。
『当院に、天井はございません』
夕方には、その貼り紙の下に誰かが小さく書き足していた。
『まだ』
消そうとして、やめた。書き足した者を探すのもやめた。行列の全員が同じ顔をしていたからだ。
窓口を閉める前に、行列の誰かが聞いた。
「本日、受理されたのは何通ですか」
私は少し考えた。
申請者の名前は言えない。守秘義務がある。だが、数は名前ではない。
「6通です。登録は合わせて29名になりました」
行列がしんとした。
それから全員が、いっせいに「明日も参ります」と言った。
行列の横では、学園の制服を着た短い黒髪の少女が、帳面に何か大きく書きつけていた。いつからいたのかは分からない。
数は名前ではない。……たぶん。
*
夜、窓口を閉めたあとで院長室に呼ばれた。
婚姻院長は60歳を過ぎた方である。この方の下で私は12年働いてきた。院長はいつも静かで、何事にも動じない。
院長の机の上に、号外第5号が置いてあった。
「クラリッサ」
「はい」
「天井、とは」
「……何回外れても、あきらめずに回し続けたら、最後には必ず当たる仕組み、だそうです」
院長はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「導入は、可能か」
「院長」
「冗談だ」
院長は号外を折りたたんで、机の引き出しにしまった。
この方の冗談を聞いたのは、12年で初めてだ。
笑うところだったのかもしれない。12年窓口で平静を保ってきた顔は、急には動かない。院長室を出てから、廊下で1回だけ口の端が動いた。誰も見ていなかった。
*
次の朝、私は申請書の用紙を発注した。
1万枚。
発注書に数字を書きながら手が少し震えた。不受理の印のせいではない。……半分くらいは、そのせいである。
3週間前、残り41枚の在庫を見て足りるだろうかと思った。
今度は、たぶん足りると思う。
たぶん。
――――――――――――――――――
【コルネリア視点】
——婚姻院に312通が届いた日の夜、学園の寮では。
ヴァーレン商会の三女、コルネリア。
購買部の福引きに天井を入れたのは、わたくしである。
*
一昨日の放課後、わたくしは福引きの行列の7番目にいた。背の高い2年生の陰に立っていたので殿方からは見えていなかったはずだ。……巻き毛が少しはみ出していたかもしれない。
殿方は「天井まで回せば、必ず来る」とおっしゃった。
落ち着きなさい、コルネリア。相場が動いた。目の前で動いた。動いたものは、その日のうちに押さえる。
その夜のうちに購買部の店主へ手紙を書いた。購買部はヴァーレン商会の出店で、店主は母の代からの番頭である。わたくしの字を見れば夜中でも起きる。
『福引きに天井を。100回で特賞確定。明朝までに』
リゼットには号外に「導入を検討中」とだけ書かせた。決まったと書けば、明日を待つ客が来ない。検討中と書けば、今日回す客と明日を待つ客の両方が来る。商いの基本である。
翌朝、殿方は教室で「神運営だ!」とおっしゃった。殿方の故郷では、よい店を神と呼ぶそうだ。
神。殿方が、わたくしの店を、神と。
落ち着きなさい。わたくしの店ではない。母の店である。わたくしは三女である。
……三女の店を、神と。
窓の外を見るしかなかった。帳面を開けばインクが染みると分かっていたからだ。結局、染みた。
*
今夜、殿方のおっしゃった数字を手で確かめた。
外れる見込みは100回に99回。それが100回続く見込みは、0.99を100回掛け合わせればいい。
帳面が3ページ埋まった。途中で2回、桁を間違えた。わたくしが計算を間違えるのは去年の春以来である。2回とも殿方の顔が浮かんだ行だった。
答えは0.366。
外れ続ける見込みが、だいたい3回に1回。殿方の本は正しい。
3回に1回の淑女は、100回引いても当たらない。200回引いても当たらない者は当たらない。天井がなければ、ずっと。
天井を入れたのは売り上げのためだ。それは間違いない。福引きは今日1日で銅貨2400枚を売り上げた。帳面にはそう書いた。字は震えていない。
ただ、殿方が「やめちゃうんです」とおっしゃったときの顔は、帳面に書けなかった。
あれは、確率の話をしている顔ではなかった気がする。
*
扉が叩かれた。
リゼットだった。外出届を出して放課後に王都の婚姻院まで取材に行っていたらしい。靴が埃だらけで、帳面の字がいつもの倍の大きさになっている。
「コルネリア。行列、広場まで伸びてた。窓口の人が言ってたよ。今日の受理は6通、合わせて29名」
「……そう」
「6通って、たぶんうちのクラスの子だよね。第3条を満たせるのは、あの日に卵焼きを食べた31人だけだもん」
「そうなりますわね」
「あと、8歳くらいの女の子が『てんじょうまで、まわす』って。お母さんが窓口の前で座りこんでた」
リゼットは大きな字のページをしばらく見ていた。
「これは、号外にしない」
「あら。売れますわよ」
「売れるから、しない」
リゼットはそれだけ言って「おやすみ」と出ていった。あの子はときどき商人より商人らしいことを言う。
*
1人になってから、引き出しを開けた。
白紙の申請書の封筒。その隣に、ハンカチに包んだ赤い飴。
31から29を引いた。
2。
今夜初めて1回で合った。
あの日卵焼きを口にして、まだ申請していない淑女は2人。そのうちの1人は、わたくしである。もう1人が誰なのかは知らない。
天井まで回せば、必ず来る。
わたくしは天井を売った。今日も王都で何百人もの淑女が、わたくしの売ったものを信じて回し続けている。
わたくしは、まだ1回も回していない。
封筒に指をかけた。入学2日目に婚姻院の窓口でもらってきた日から、中身はずっと白紙のままだ。
落ち着きなさい、コルネリア。本当に欲しいものほど、相場をよく見てから買う。商人の心得である。
相場はまだ見ている途中だ。
封筒を閉じた。引き出しを閉じた。
帳面を開くと、さっきの『3回に1回』の行に、小さなインクの染みがもう1つ増えていた。いつ落としたのか、覚えていない。




