第12話 3人で見よう
【リツ視点】
王都に出かけた次の日の朝、僕は教室で飴を2つ配った。
1つはロジーナさんに。隣の席なので、3mの決まりは最初から関係ない。
「昨日、王都で買ったんです。黄色いの、どうぞ」
ロジーナさんは飴を両手で受け取ると、しばらく見つめてからそっと口に入れた。
食べてくれた。
コルネリアさんはハンカチに包んでしまったし、イルゼさんは胸のポケットにしまったままだ。3人目にして、やっと食べてもらえた。
「……あまい、です」
「よかった」
ロジーナさんの耳がまた赤くなった。
もう1つはリゼットさんに。3m手前から腕を伸ばしても届かないので、前の席の子に頼んで机の端に置いてもらった。リゼットさんは飴を見つめたまま、帳面に「飴(黄)」と書いていた。
ついでに3m離れたまま王都の露店のことも伝えておいた。
「リゼットさんの号外、王都で写しが売られてました! 1枚、銅貨2枚で!」
リゼットさんのペンが止まった。
「……安い」
怒るところはそこらしい。帳面の次の行に何か書き足していたけれど、その行だけ字がすごく大きかった。
*
3時間目は美術だった。
美術室に入ると、イーゼルが30台、きれいな円の形に並んでいた。円の真ん中に椅子が1つだけ置いてある。
「本日は、人物画の授業です」
美術担当のベアトリクス先生が言った。白髪まじりの穏やかそうな先生だ。
「そして本日のモデルは……殿方に、お願いすることになりました」
僕のことだった。
「学園長の許可も得ております。生徒会の立ち会いのもとで行います」
入り口にエレオノーラ先輩が立っていた。右手に巻き尺を持っている。
イーゼルの円は、どこから測っても真ん中の椅子からちょうど3m。先輩が朝のうちに1台ずつ測ったのだと、ベアトリクス先生が教えてくれた。30台、全部。
生徒会長は本当に大変だと思う。
先輩の右手は、巻き尺をぎゅっと握ったままだった。この前の許可証のときと同じだ。生徒会の仕事は、手がつりやすいのかもしれない。
「モデルって、じっとしていればいいんですよね」
「はい。お好きな姿勢で、そのままお座りください」
お好きな姿勢。
僕の頭の中で、前世で読んだ漫画のページがいっせいにめくれた。
モデルといえば、ポーズだ。
僕は椅子から立ち上がり、片足を引いて腰をひねった。右手を顔の前にかざして、左手を腰に添える。首を斜めに傾けて、指の隙間から前を見る。
あの漫画の、あの立ち方だ。病室で何度も真似して、看護師さんに「何してるの」と笑われた。
「こんな感じで、どうでしょう。本当は後ろに『ゴゴゴゴ』って文字がほしいんですけど」
美術室が凍った。
30本の筆が同時に止まった。ベアトリクス先生の手から木炭が落ちて床を転がっていく。
「……リツ殿」
入り口からエレオノーラ先輩の声がした。
「そのお姿は……殿方として、その、たいへん……おやめいただけますか」
僕はずっと言ってみたかった台詞を思い出した。
同じ漫画の、別の名場面。頼みごとをされたときに、きっぱり言い切る一言。
「だが断る」
美術室の空気がさらに一段冷たくなった。円のどこかで、ぽきりと乾いた音がした。
「……って、一度言ってみたかっただけです! すみません、やめます!」
僕は慌てて椅子に座り直した。普通に、膝に手を置いて。
エレオノーラ先輩は巻き尺を握りしめたまま、何も言わなかった。巻き尺の端が、小さく震えていた。
*
それから50分、僕は普通に座っていた。
じっとしているのは得意だ。病室では1日じゅう、ベッドの上でじっとしていたから。
ただ、20分くらいたったところで鼻がかゆくなった。
動けない。モデルが動いたら、30人の絵が全部ずれる。
動いたら負けだと思っている。
鼻のかゆみはそこから10分続いた。目だけで天井を見上げて耐える。かゆみが引いたとき、ちょっとだけ何かに勝った気がした。
退屈になると前を見て、目が合いそうな子に笑いかけた。
笑いかけるたびに、円のどこかで筆が床に落ちる音がした。かたん。右のほうで、かたん。左のほうで、かたん、かたん。
だんだん楽しくなってきて、順番に笑いかけてみた。音が円をひと回りした。
「……殿方。お顔は、そのままで」
ベアトリクス先生に小さな声で言われたので、やめた。
*
鐘が鳴った。
「よろしければ、皆の絵をご覧になりますか」
ベアトリクス先生に言われて、僕は円の外側を回った。
すごかった。
どの絵の僕も目がきらきらしている。背景には花。光の線が放射状に飛んでいる絵もあれば、背中に羽が生えている絵もある。
「少女漫画の表紙みたいだ……」
思わず声に出た。羽の絵を描いた子が、イーゼルの陰に隠れた。
僕って、こんな顔だったかな。
1枚だけ、違う絵があった。
ロジーナさんの絵だった。
*
ロジーナさんの絵には花も光の線もなかった。
描いてあったのは、普通に座っている僕だ。手袋はしていない。襟のボタンも1つ外れている。そして、笑っていた。少し首を傾けて、誰かに話しかけようとしているみたいな顔で。
「これが……僕?」
口から勝手に出た。前世のアニメで、変身した主人公が初めて鏡を見たときの台詞だ。言ってから自分でもおかしくなった。僕は変身していない。普通に座っていただけだ。
でも、そう言いたくなる絵だった。
僕は自分の顔をよく知らない。この世界に来てから、鏡はあまり見ていない。
でも、分かった。
これは、麻雀をしているときの僕だ。
「ロジーナさん、これ」
「……ご、ごめんなさい。座っておられるお姿じゃなくて、その……あのとき、の……」
ロジーナさんは真っ赤になって絵を隠そうとした。
隠させなかった。
「すごい。すごいです。僕、こんな顔してたんだ」
そのとき思い出した。
入学2日目。ロジーナさんと机をくっつけて教科書を一緒に見た日。エレオノーラ先輩に「次からは、もっと見やすいように工夫します」と言った。「先輩も、今度一緒に見ます? 3人でも大丈夫ですよ」とも。
あれからずっと用意していたものがある。
「ちょっと待っててください!」
僕は美術室を飛び出した。学園の中は僕の館の中なので、走っていい。廊下の向こうで、誰かが壁に張りついた。
教室から抱えて戻ってきたのは、木の板を組み合わせたものだ。
「書見台です!」
本を立てて置く台。2人で教科書を見たとき、首を傾けないと字が見えなかった。だから板を3枚組み合わせて、本を斜めに立てられるようにした。寮の物置にあった古い板を分けてもらって、夜に少しずつ作った。
結局教科書を忘れる人がいなかったので、今日まで出番はなし。
僕は書見台を美術室の机に置いて、ロジーナさんの絵を立てかけた。
「エレオノーラ先輩! こっち来てください!」
「……私は、生徒会の立ち会いで」
「約束したじゃないですか。今度、3人で見ようって」
エレオノーラ先輩は入り口で固まっていた。
それから巻き尺をポケットにしまおうとした。
しまえなかった。右手が巻き尺を握ったまま開かないらしい。先輩は左手で右手の指を1本ずつはがし始めた。人差し指。中指。薬指。小指までいったところで、巻き尺がやっと外れてポケットに入った。
手、やっぱりつってますよね。とは聞かないことにした。この前は「つって、おりません」と2回言われたので。
先輩がこちらに歩いてきた。
3mの円の内側に1歩入ったところで、足が止まった。
僕は待つ。
先輩は目を閉じて、何かを数えるみたいに唇を小さく動かした。それから、もう1歩。そこからは、もう止まらなかった。
来てくれた。
僕と、ロジーナさんと、エレオノーラ先輩。
3人で1枚の絵を見た。
書見台のおかげで、首を傾けなくてもちゃんと見える。
「いい絵ですね、先輩」
「……ええ」
先輩はそれだけ言った。空になった右手は、また握ったままだった。
ロジーナさんは両手で顔を覆っていた。耳まで真っ赤だ。
――――――――――――――――――
【ロジーナ視点】
1年A組、ロジーナ。ローデ家の四女。
ローデ家は代々、殿方の肖像画を描く家である。
婚姻院が縁組みを取り持つとき、淑女の家には殿方の肖像画が1枚送られる。お見合いの絵だ。母も祖母もその絵を描いてきた。殿方館に通い、窓辺に座った殿方を何日もかけて写す。
家には写しが何百枚も残っている。わたしは小さいころからそれを眺めて育った。
全部、同じ顔だった。
ローデ家の決まりは3つ。正面から描く。無表情に描く。手袋を描く。何百人もの殿方が全員その3つを守って、同じように前を見ている。
わたしはずっと思っていた。
殿方は、笑わないのだろうか。
*
入学の日、隣の席に殿方が座った。
「よろしくね」と言われた。右耳は、それから3日間熱いまま。
それから殿方は、毎日笑った。
机を寄せて教科書を見せてくれたとき。まーじゃんで牌を並べたとき。御無礼と言ったあと教室が静まり返って、困ったように笑ったとき。卵焼きを配りながら、うれしそうに笑ったとき。
家の何百枚の、どこにもない顔。
わたしは帳面の隅にその顔を描き始めた。隅では足りなくなって、ページの真ん中に描いた。1冊では、とても足りない。
まーじゃんのときは牌の絵ばかり見ていた。殿方の描いた九筒の丸が少しだけ四角かったから。あの四角い丸を描く手がどんなふうに動くのか知りたかった。それから、牌を見るふりをして、殿方の顔を見ていた。
帳面はもう3冊目になる。誰にも見せたことはない。
*
美術で殿方がモデルになると聞いたとき、わたしは筆を1本折った。
落ち着いて、ロジーナ。お前はローデ家の四女。殿方の肖像を描くのは家の仕事。筆を持つ手は震えない。
殿方が椅子から立ち上がった。
腰をひねって、片手を顔の前にかざして、指の隙間からこちらをご覧になった。
わたしは頭の中で家の写し何百枚をめくった。そんな姿勢の殿方の絵は、1枚もない。正面ではない。斜めである。斜めどころか、ねじれている。
落ち着いて。筆を持つ手は震えない。
……折れた。2本目。
生徒会長様が止めると、殿方は「だが断る」とおっしゃった。
断られた。生徒会長様が。殿方に。
……折れた。3本目。
筆箱に残っているのは、あと1本だけ。
それから殿方は「一度言ってみたかっただけです」と笑って、普通に座り直された。
その、笑った顔。
わたしは最後の1本を握って、決めた。
座っている殿方ではなく、笑っている殿方を描く。
*
家の決まりを、わたしは1つずつ破った。
正面から描く。……少し首を傾けた顔にした。殿方は人に話しかけるとき、いつも少し首を傾ける。正面を向いた殿方は、誰にも話しかけていない。
無表情に描く。……笑わせた。最初に破ると決めたのはここだ。今さら戻れない。
手袋を描く。……描かなかった。殿方は手袋をしていない。していないものは描けない。ローデ家は写す家である。写す家が、ないものを描いてどうする。
理屈は合っている。合っているはずなのに、1つ破るたびに、頭の中で母の顔と祖母の顔が順番に青くなっていった。
50分の間、周りの子たちは殿方を見て描いていた。
わたしはほとんど殿方を見なかった。見なくても描ける。3冊の帳面に、何十回も描いてきた顔だから。
殿方がときどき誰かに笑いかけた。そのたびにどこかで筆が床に落ちる音がする。途中で一度、その音が円をひと回りした。殿方が順番に笑いかけておられたのだと思う。
わたしの番が来たとき、わたしは顔を上げなかった。上げたら、最後の1本も折れる。
*
鐘が鳴って殿方が絵を見て回り始めた。
みんなの絵はきらきらしていた。花が咲いていて、光が飛んでいる。殿方は「少女漫画の表紙みたいだ」とおっしゃった。意味は分からないけれど、たぶん褒めていたのだと思う。
それから、わたしの絵の前で止まった。
「これが……僕?」
聞かれた。
ご本人に聞かれても困る。
はい、あなたです。毎日、あなたです。隣の席で、毎日その顔をしておられます。
言えなかった。言えるわけがない。
隠そうとした。隠させてもらえなかった。
「すごい。すごいです。僕、こんな顔してたんだ」
殿方は、ご自分の笑った顔を、知らなかった。
あんなに毎日笑っているのに。
*
殿方が美術室を飛び出していって、木の台を抱えて戻ってこられた。
しょけんだい、と殿方はおっしゃった。本を立てて読むための台だという。入学2日目に教科書を一緒に見たとき、首を傾けないと見えなかったから、夜に作ったのだと。
あの日のことを、覚えておられた。
机が来た日のことを。
殿方はその台にわたしの絵を立てかけて、入り口の生徒会長様を呼んだ。
「約束したじゃないですか。今度、3人で見ようって」
生徒会長様は、医務室で隣のベッドに寝ていた人だ。あの日、2人で天井を見ながら「次は3人で、っておっしゃいましたよね」と話した。
生徒会長様が円の内側に入ってこられた。1歩で止まって目を閉じて、それからもう1歩。
本当に、3人になった。
殿方と、生徒会長様と、わたし。
3人で、わたしの描いた絵を見ている。首を傾けなくても、ちゃんと見える。
わたしは両手で顔を覆った。それ以上は無理だった。
*
放課後、ベアトリクス先生に呼ばれた。
「ロジーナさん。あなたの絵を、王都の秋の展覧会に出品します」
「え」
「題は、あなたが決めなさい」
わたしは少しだけ考えて答えた。
「……『笑う殿方』で、お願いします」
ベアトリクス先生はしばらく黙っていた。
「この国の美術の歴史で、笑っている殿方の肖像画は、1枚もありません」
「……はい」
「それが、王都に飾られるのです。分かっていますか」
「はい」
分かっていた。母が見たら、筆を持ったまま倒れると思う。
それでも、描いてしまったのだから仕方がない。ローデ家は写す家である。わたしは、見たとおりに写しただけだ。
*
寮の部屋に戻って、4冊目の帳面を開いた。
最初のページには、書見台を抱えて走ってくる殿方。
それから口の中に残っていた飴の甘さを思い出して、ページの隅に小さく丸を描いた。
黄色く塗ろうとして、色鉛筆が見つからなかった。
しかたなく、九筒みたいに、少しだけ四角い丸にした。
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【エレオノーラ視点】
——その日の夕方、生徒会室では。
右手が開いたのは、夕方になってからである。
美術室を出たときには、もう巻き尺を握っていなかった。左手で1本ずつ指をはがして、ポケットにしまったからだ。右手は何も握っていなかった。
何も握っていないのに、開かないのである。
午後の授業はすべて左手で筆記した。字は少しも乱れなかった。さすが私である。隣の席の者が私の帳面を見て、黙って目をそらした理由は分からない。
*
生徒会日誌を開いた。
開いたばかりの右手でペンを持つ。指はまだ少しこわばっていた。
生徒会日誌
3時間目 1年A組 美術(人物画) 生徒会立ち会い
イーゼル30台を半径3mに配置
美術の授業:異常なし
書いてから、ペンが止まった。
異常なら、ある。
殿方が腰をひねられた。殿方が「だが断る」とおっしゃった。そして生徒会長が、通達第1項の円の内側へ。1歩目で止まり、2歩目からは数えていない。
通達第1項を起草したのは私である。
生徒会日誌に嘘は書けない。線を引いて直すべきだ。「なし」に引けば、異常があったことになる。「異常」に引けば、「なし」だけが残る。何がなかったのか分からない日誌になる。
どちらにも引けなかった。
とくに「異常」の2文字は、どうしても消せない。今日の私には、それが一番正確な言葉だったからである。
*
日誌を閉じて、目を閉じた。
美術室で円の内側に1歩入ったとき、足が止まった。私は秘伝を使った。歴代当主の肖像画を、初代様から順に思い浮かべる。2代目様、3代目様。13代目のお祖母様まで来て、ようやく次の1歩が出た。
14代目の母の肖像画は、今日もやはり少しだけ笑っている気がした。この前より、もう少しだけ。
気のせいである。
浮かんだのは、医務室の天井だった。入学したばかりの殿方に教科書を直された日、隣のベッドであの子が言った。「次は3人で、っておっしゃいましたよね」。
あれから28日。殿方は覚えておられた。台まで作って。
3人。
殿方と、あの子と、私。
私は、その3人目に数えられていたのである。生徒会長としてではなく。立ち会いの者としてでもなく。1枚の絵を、一緒に見る者として。
右手を開いて、閉じた。今度はちゃんと開いた。
巻き尺はポケットから出して、机の上に置いた。明日も使う。引き出しには、しまわない。
日誌の「異常なし」は、そのまま残してある。




