第7章:引き裂かれる忠誠、あるいは新たな盟約
団長執務室の重厚な扉が閉まり、シンの足音が廊下の彼方に消えても、室内に立ち込める濃密な沈黙は破れなかった。
誰もが言葉を失う中、それまで退屈そうに壁に寄りかかっていたガーブが、ぽつりと声を上げた。
「んーん……。良く分かんなかったけどさ。シンがその『アギラドス』ってやつなら、この国の兵隊とか街とか、全部シンの思い通りに使えるってこと?」
無邪気とも言えるその問いに、オットーは小さく息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げながら答えた。
「ガーブさん、理屈の上ではその通りです。そして、シン君がその可能性に全く気づいていなかったわけでもないでしょう。ですが……彼はあなたやハンス、ヤミル、クリスと同じ『傭兵』として、“おやじ”の仇を討ちたいのですよ」
オットーは静かに視線を巡らせ、最後にヴィアナへと定めた。
「シン君がアギラドス家の正統な当主として玉座に就けば、それは国と国、すなわちヒスパニアとフランクの戦争になります。国家の論理に巻き込まれれば、軍隊の動向一つとっても王室や元老院の決裁が必要になる。彼は、自らの復讐がそのような権力闘争の道具に成り下がることを良しとしていないのです」
オットーは一歩前へ出た。その眼光は、一介の傭兵団の会計職のものとは思えぬほど鋭い。
「ヴィアナ騎士団長。あなた方アギラドス騎士団は、このヒスパニア王国南部を領有する公爵家に仕える刃だ。違いますか?」
「その通りだ」
「では、お訊きしたい。もしあなた方がアギラドス家という“軛”から完全に外れた場合、どうされるおつもりか?」
ヴィアナは不審げに眉をひそめた。
「……どういう意味だ?」
「あなた方の忠誠は、どこに、誰に向かっているのか、ということです。ヒスパニア王国ですか? それともアギラドスという血脈そのものですか? もし仮に、アギラドス家の当主が南部の領有権をすべて王室に返上すると宣言した場合、あなた方は誰のために剣を振るうのです?」
「な……ッ!」
ヴィアナの後背に控える若き騎士が息を呑むが、オットーは容赦なく言葉を重ねる。
「シン君は君主ではありません。ましてや領地を貪る貴族でもない。彼の精神は徹頭徹尾、傭兵です。そして彼と仲間たちの目的はただ一つ――フランク王国のオルレアン伯爵を討ち果たすこと。それだけです」
「……それは大局を見失った、あまりに私的な復讐ではないか」
ヴィアナの低い声に、オットーは冷徹に微笑んだ。
「その通り、極めて私的な怨恨です。ですが、それはあなた方騎士とて同じではないですか? 先代当主が暗殺されたあの夜から、あなた方の胸にくすぶり続けている炎は何だ? もし後継者が完全に途絶えていたら、あなた方は復讐の旗を掲げて王都へ攻め上る覚悟すらあったはずだ」
「それは……」
「だが、奇跡的にシンシオ殿が生きておられた。だからあなた方は歓喜し、彼を神輿に担ぎ上げようとしている。しかし、シン君はあなた方の望む『シンシオ様』ではない。彼はアギラドス家の主としての精神など持ち合わせてはいない。彼をこの地に縛り付けることは諦めていただきたい」
「しかし…、しかし! ならば我らの忠誠はどこへ行けばいいのだ!」
ヴィアナの悲痛な叫びを受け止め、オットーは一拍の間を置いた。そして、声音を一段下げて囁いた。
「……ヒスパニア南方地域領主としてではなく、一人の『盟主』として、彼に自由な立場のまま忠誠を誓えばいい。ただの一人の男、傭兵『シン・アギラドス』の名を名乗らせるのです」
「何だと? 南部地域を捨てろと言うのか!」
「ええ。ヒスパニア南部という舞台は、シン君と『緋色の傭兵団』にとっては狭すぎる。彼はもっと広い世界で羽ばたくべき器だ。我が団の名目上の団長はこのガーブさんですが、進むべき路、戦うべき敵のすべてを定めているのはシン君です」
話を振られたガーブは、我が意を得たりと深く頷いた。
「そうだよ。俺はシンの言う通りに刃を振るうだけ。シンが前に行けって言ったら、そこが戦場だ」
「もし」と、オットーはヴィアナを凝視した。「もし、あなた方が彼を盟主と仰ぎ、我らの目的のために共に血を流すと誓ってくれるのなら……ここからは、私が弾いた最高の『試算』を披露いたしましょう」
「……聞こう」
オットーが語る冷徹かつ完璧な筋書きに、室内の空気は凍りついた。
「それは……」ヴィアナは呻くように言った。「確かに、すべてが丸く収まるやもしれん。だが、我が騎士団は……間違いなく二分されるな」
「私は反対です!」
沈黙を守っていた若き騎士が、ついに声を荒らげた。
「そのような欺瞞、断じて許されるべきではない! この南部に平定と安寧をもたらすことこそが、我がアギラドス騎士団の絶対の使命であるはずだ!」
ヴィアナはゆっくりと振り返り、その若き騎士を見つめた。
「そうだな。それもまた、我が団の正義だ。南部の安寧を担保するか、アギラドスの血脈に殉じるか……。全騎士を集め、シンシオ様の存命と御意思を包み隠さず説明しよう。各自の路は、各自に選ばせる。追う者、残る者、どちらの選択も無理からぬことだ」
「団長! それは騎士団の自死を意味します! あのような『騙り』の傭兵など、今すぐここで討ち取るべきだ!」
――金属擦過音が室内に響いた。
ヴィアナの抜いた長剣の切っ先が、寸の狂いもなく若き騎士の喉元に突きつけられていた。
「団長……何を!?」
「今の発言、我が主君に対する大逆であり、不敬。本来ならばこの場で首を刎ねるに値する」
ヴィアナの瞳には、一切の揺らぎがなかった。
「混乱ゆえの乱心と見なし、一度だけ許す。二度目はないぞ」
「くっ……!」
剣を鞘に収め、ヴィアナはオットーに向き直った。
「オットー殿。お前の策、しかと理解した。その方向でシンシオ様を説得していただきたい。私は騎士団の意識を統一する。彼のように、血脈よりも土地の平定に意義を見出す者も相応に出るだろうが、それもまた良し。私は各自の決断を尊重する」
「承知いたしました。では、今の内容をシン君に伝えてきます。ガーブさん、行きましょう」
オットーとガーブが退室し、部屋にはヴィアナと二人の騎士――若き騎士と、もう一人の壮年の騎士だけが残された。
「すまぬな」ヴィアナは若き騎士に言った。
「私はアギラドス家に命を捧げた男だ。南部平定は、当主の命令であったから遂行していたに過ぎん。だが、お前たちの世代は違う。南部を救うために騎士団があると考えている。それもまた、一つの真実だ。だからこそ、己の意志で決めよ。残る者をまとめる役は、お前に任せる。だが、他者への強制は一切許さん」
「団長、……御意。各自の判断に委ねます」
若き騎士は一礼し、苦渋に満ちた表情で部屋を去った。
後に残った壮年の騎士が、ヴィアナに問いかける。
「団長、本当によろしいのですか?」
「構わんさ。オットー殿の策が成れば、いずれ王家から大規模な増援が来る。それまでは、緋色の傭兵団と共にこの南部の治安維持に全力を尽くし、受け入れの土壌を整えるだけだ」
「分かりました。若造どもの手綱は私が引きましょう。当面の差配はお任せを」
頼もしい背中を見送り、一人になったヴィアナは、壁に掛けられた王弟の肖像画を見上げた。
「元より、我らはアギラドスという存在の影として生まれた。主の向かう先が奈落であれ、我らはただ従うのみ……。本音を言えば、シン様にはこの地の正統なる領主として君臨していただきたかったがな」
10年前、主君の危機に遅れを取り、進むべき道を失った騎士団。せめてもの贖罪として「南部の治安維持」を続けていくうちに、いつしか彼らはアギラドスではなく『ヴィアナ騎士団』と呼ばれる独自の組織に変質しつつあった。
「独立すべきか、と悩んだこともあった。だが、この期に及んで忘れ形見が現れるとはな。神々の悪戯か、あるいは真精霊の実験の残滓か……。我らの忠誠の行き先、ここで見定めさせてもらおう」




