第五話:鉄の匙と黄金の舌
生活部門の1日は、夜明け前に始まる。
ミレーユが厨房棟に入った時、ドーラは既にかまどの前に立っていた。赤銅色の巻き毛をお団子にまとめ、エプロンの紐をきつく結び直している。
「遅いよ、新入り。火はもう起こしてある」
「すみません、ドーラ班長。あと3分早く起きます」
「3分じゃ足りないね。5分だ」
ドーラの基準は常に厳しい。だが、理不尽ではない。5分あれば卵を15個割れる。15個あれば王の朝食のオムレツが3皿余分に作れる。彼女の厳しさは全て、合理的な数字に裏打ちされていた。
今日のメニューは、王家の朝食だ。
王——ヒカルと、6人の竜妃、盟約側妃のレオーネ、そして子供たち。総勢20名を超える大所帯の食卓を、ドーラ率いる生活部門の7名が支えている。
「いいかい、ミレーユ。王家の食事は、ただ腹を満たすもんじゃない。政治だよ」
「政治ですか?」
ドーラが大鍋をかまどに据えながら言った。
「レヴィア様は辛いもの。炎竜の体質で、辛味が魔力の循環を助ける。アクア様は薄味。水竜は味覚が繊細で、濃い味は舌が痺れる。テラ様は量が多い。土竜は基礎代謝が高くて、人間の3倍は食べないと午前中もたない」
ドーラの太い指が、棚から次々と調味料の瓶を取り出していく。
「セフィラ様は甘いもの好き。朝から蜂蜜パンを出さないと機嫌が悪くなる。ルーナ様は素材の味を重視するから、余計な味付けはしない。ヴァルキリア様は——」
ドーラが一瞬だけ言葉を切った。
「あの方は、何でも召し上がる。好き嫌いは一切ない。……ただ、温かいものを出すと、ほんの少しだけ表情が緩むんだよ」
ミレーユは息を呑んだ。好き嫌いがないのではない。好みを口にしないだけだ。闇の竜姫として孤高を貫いてきた方の小さな本音を、ドーラは料理という手段だけで読み取っていた。
「レオーネ様は帝国仕込みの繊細な味覚をお持ちだ。あの方には、出汁の引き方ひとつで手抜きがバレる。7人の妃に、それぞれ違う味。子供たちにも個別の対応。間違えれば朝から食卓の空気が凍る。——だから、政治なんだよ」
ドーラは鍋の蓋を開け、湯気の匂いを確かめた。
「鉄の匙で味を決め、黄金の舌で仕上げる。それがあたしらの仕事だ」
朝食の準備が佳境に入った頃、厨房に来客があった。
「ドーラ班長。今朝の薬草サラダの件で相談が……」
穏やかな、しかし芯のある声。入ってきたのは、白いヘッドドレスで髪を覆い、修道女だった名残で姿勢のよい女性だった。
セレナ・グレイスフィールド。養育部門班長。聖女クラリスの教会から派遣された元修道女。
「またサラダの話かい?」
ドーラが鼻を鳴らした。
この2人の間には、長年にわたる「食事哲学の衝突」がある。
テラが養育部門を通じて提案した「子供たちの食事に薬草サラダを取り入れる」という方針を、セレナが推進している。テラは土竜として薬草の効能に詳しく、子供たちの健康を食事から支えたいと考えていた。
一方、ドーラの信条は「薬より旨い飯が最高の薬」だ。
「ライオス皇子は、薬草の苦味が苦手です。でも、成長期の今こそ、この薬草の栄養が必要なのです」
セレナが差し出したのは、鮮やかな緑の葉と紫色の根を刻んだサラダだった。
「う~ん、見た目が悪い。色が暗いし、盛り付けに華がない。これじゃ食べてもらえないよ」
「見た目より効能です。この紫根には成長促進の——」
「効能がどうだろうと、食べてもらえなきゃ意味がないだろう……」
2人の視線がぶつかる。厨房の空気がピリッと張り詰めた。
しばらくの沈黙の後、ドーラはかまどの横に手を伸ばした。
ミレーユは、ふと違和感を覚えた。
ドーラが取り出したナッツの瓶は、朝の仕込みで使う棚ではなく、ドーラの私物を置く引き出しの上にあった。しかも、ナッツは既に細かく砕かれている。蜂蜜の瓶も、封が切ってあった。
(まるで、今日使うことを分かっていたみたいだ)
「……貸しな」
ドーラはセレナのサラダを受け取ると、まな板の上で手早く作業を始めた。薬草の葉を細かく刻み、苦味のある紫根は薄くスライスして蜂蜜に漬ける。砕いたナッツを振りかけ、柑橘の絞り汁をひと回し。
その手つきは、初めて試す人間のそれではなかった。迷いがない。分量も、手順も、既に答えを知っている者の動きだった。
ものの3分で、暗い色だったサラダが、緑と琥珀色のグラデーションに変わった。
「食べてみな」
セレナが口に運び、目を丸くした。
「……苦くない。薬草の風味は残っているのに、蜂蜜とナッツで和らいでいます!」
「これなら、ライオス皇子でも食べるだろう。あの腕白坊主は意外なほど甘いものに弱いからね」
ドーラは鼻を鳴らし、それから小声で付け加えた。
「昨日の夜から3パターン試してたんだよ。蜂蜜だけだと甘すぎる。ナッツだけだと食感が邪魔になる。柑橘を足したのが一番マシだった。——あんたが持ってくるのを待ってたのさ」
セレナの目が、大きく見開かれた。
「待って……いてくれたんですか?」
「勘違いするなよ。あたしは料理人だ。テラ様とあんたが推す薬草サラダを、ただ突っ返すだけなんて、料理人の沽券に関わるんだよ。どうにかして旨いものに仕立て上げるのが、あたしの仕事だ」
ドーラはそっぽを向いた。だが、その耳の端がわずかに赤い。
セレナは修道女らしい端正な笑顔を浮かべた。今度の笑みには、驚きと、そして深い感謝が混じっていた。
「……負けました。ドーラ班長」
「勝ち負けじゃないよ。あんたの薬草がなきゃ、あたしのナッツだけじゃただのおやつだ。——次からは、素材を持ってきな。味付けはあたしがやる」
2人は、ぎこちないが確かな握手を交わした。
朝食の配膳が始まった。
ミレーユは料理を銀のトレーに載せて運ぶ。レヴィア様の唐辛子ペースト付きオムレツ、アクア様の薄味の出汁巻き、テラ様の大盛り粥。セフィラ様の蜂蜜パン、ルーナ様の蒸し野菜、ヴァルキリア様の温かいスープ。レオーネ様には帝国風の繊細な前菜。
そして、子供たちのテーブルには——ドーラとセレナの合作である薬草サラダが並んだ。
「うまい! おかわり!」
ライオス皇子が匙を振り回すのを、隣のシズクが冷ややかに見つめる。
「食べながら叫ばないでください、ライオス兄さん。行儀が悪いです」
「うるせーな、うまいもんはうまいんだよ!」
その向かいで、マリンが姉とは違う角度で皿を観察していた。
「蜂蜜の浸透時間から逆算すると、紫根は食前30分に漬け込んだはず。苦味成分の分解率を考えると、最適解に近い処理ね」
「……マリン、それ朝食の会話じゃないわ」
シズクが呆れたように呟く。双子でありながら、分析の矛先がまるで違う。
テーブルの端では、ユリウスが静かにサラダを口に運び、小さく頷いていた。彼は感想を口にしない代わりに、皿を綺麗に空にすることで料理人への敬意を示す。母レオーネ譲りの礼儀だった。
その声を聞いたドーラが、厨房の奥で小さくガッツポーズをしたのを、ミレーユは見逃さなかった。
セレナも配膳口から子供たちの様子を覗いていた。その目は少し潤んでいる。
「食べてくれましたね……」
「当たり前だろ。あたしの味付けだからね」
ドーラは素っ気なく答えたが、その太い指が、セレナの肩をぽんと叩いた。
その頃、厨房のさらに奥の検査室では、オーリアがいつも通り王家の食事の毒見をこなしていた。
今朝は品目が多い。妃と子供たちの分を合わせれば30皿を超える。その全てを、味覚だけで確認していく。
ドーラとセレナの合作サラダも、王家の食卓に並ぶ前に、オーリアの舌が先に触れている。誰よりも先に。
配膳を終えたミレーユが検査室に顔を出した。
「オーリア様。今朝もご苦労様でした」
「……いえ。私の仕事です。新しいメニューでしたので、念入りに確認しました。異常はありません」
ドーラとセレナの共闘で生まれた一皿。その裏で、オーリアが自分の命を賭けて安全を保証していた。
ミレーユは、小さく頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
オーリアが一瞬だけ目を見開き、それからいつもの無表情に戻った。
「……どういたしまして」
夕刻。厨房の片付けを終えたミレーユは、リリアの長官室の前を通りかかった。
扉が少しだけ開いている。中から、ネルの声が聞こえた。
「——あの子、情報部門にも使えますよ。リリア長官」
「ええ。私もそう思います。生活部門での仮配属を延長しつつ、情報部門との兼務を検討しましょう」
ミレーユは、足音を殺してその場を離れた。
これ、もしかして私のこと!?
心臓が跳ねていた。兼務。自分の居場所がもう1つ増える。嬉しさと、それ以上の不安が押し寄せる。
だが、ドーラの鉄の匙と、セレナの薬草。オーリアの毒見と、ネルの観察眼。魔力に頼らず、それぞれの技術だけで王を支えるプロフェッショナルたちの姿が、目に焼きついていた。
自分にも、自分だけの武器がある。それを磨き続ければ——
日記帳を開く。今日は2行書いた。
『ドーラ班長の匙は鉄より硬い。でも、セレナ班長の薬草と混ざると、子供が笑う味になる。』
『人と人が混ざると、1人では作れないものが生まれる。サラダボウルのドレッシングは、そうやってできるのかもしれない。』
【第六話:子守歌と火の粉 につづく】
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