第六話:子守歌と火の粉
養育部門の朝は、厨房よりもさらに早い。
子供たちが目を覚ます前に、寝室の温度を確認し、着替えを用意し、体調の変化がないかを寝顔から読み取る。それが、セレナ・グレイスフィールドの朝の仕事だった。
「おはようございます、セレナ班長」
ミレーユが養育棟に足を踏み入れると、セレナは既に廊下の窓を拭き終えていた。白いヘッドドレスの下の穏やかな緑の瞳が、ミレーユを捉える。
「あら、ミレーユさん。今日は養育部門のお手伝いですか?」
「はい。リリア長官から、各部門の業務を順番に体験するように、と」
着任から3週間。生活部門と情報部門の兼務が決まったミレーユだが、リリアはさらに他の部門も見せるつもりらしい。王宮メイド隊の全体像を、自分の足で歩いて理解させるという方針だった。
「それでは、今日は子供たちの朝の世話から始めましょう。——ただし、覚悟してくださいね」
「か、覚悟、ですか……」
セレナの微笑みに、わずかな苦笑が混じった。
王族の子供たちの居住区画は、王宮の西棟にある。
廊下を進むと、最初に聞こえてきたのは、怒号だった。
「ライオス皇子! 訓練場への直行は許可していません! まず靴を揃えてください!」
セレナの部下である養育部門のメイドが、廊下を全力で走るライオスを追いかけている。
13歳のライオスは、母レヴィア譲りの燃えるような赤髪を振り乱し、木剣を片手に脱兎のごとく駆けていく。
「うるせー! フレア叔父貴との朝稽古に遅れるんだよ! 靴なんか後で揃えるって!」
「後ではダメです! 今です! 規律は——」
ドガンッ!
ライオスが廊下の角を曲がった瞬間、正面から来た人物と激突した。
「いってぇ! ……あ」
ぶつかった相手は、セレナだった。
彼女は微動だにしていない。ライオスの方が尻餅をついている。修道女としての体幹の強さか、あるいは長年の養育経験が生んだ「子供衝突耐性」か。
「ライオス皇子。おはようございます」
セレナは穏やかに微笑んだまま、ライオスを見下ろした。
「靴を揃えてから、訓練場へどうぞ」
「で、でも、フレア叔父貴が——」
「フレア将軍には、私から伝えておきます。『皇子は靴を揃えてから参ります』と」
セレナの声は柔らかい。だが、その奥にある「絶対に譲らない線」を、ライオスは本能的に感じ取ったらしい。
「……わかったよ」
ライオスは渋々立ち上がり、自室に戻っていった。
ミレーユは呆気にとられていた。あの暴れん坊のライオス皇子を、声1つで従わせた。レヴィア妃の激情を受け継いだ少年を御するのは、並大抵のことではないはずだ。
「セレナ班長。どうして、怒鳴らないんですか?」
「怒鳴っても、炎の子には火に油ですから」
セレナはくすりと笑った。
「ライオス皇子には、まず靴を揃えることから教えています。それができれば、剣を握る前に心を整える習慣がつく。レヴィア様には『宗教を押し付けるな』と釘を刺されましたが、靴を揃えることは宗教ではなく、礼儀ですので」
次の部屋では、別の種類の「火の粉」が待っていた。いや、水か。
シズクとマリン。アクアの双子の娘たち、11歳。
シズクは机に向かい、分厚い魔導工学の教科書を広げていた。その隣で、マリンは同じ本の別の章を開き、ノートに数式を書き連ねている。
一見、模範的な勉強風景だ。
だが、セレナの部下のメイドが困り果てた顔で立っている。
「セレナ班長。シズク皇女が、今朝の教科の変更を要求されています」
「何に変えたいと?」
「『今日の歴史の授業は非効率です。同じ時間で魔導工学の演習を3章分進められます』と……」
「私も姉の意見に同意します。歴史の授業の情報密度は、1分あたり0.3ページ相当。魔導工学なら1.2ページです」
マリンが姉を援護するように、ノートの数字を示した。
双子による論理的な挟み撃ち。養育部門のメイドは完全にたじろいでいた。
セレナが2人の前に腰を下ろした。
「シズク皇女、マリン皇女。論理的な主張ですね。数字の上では、おっしゃる通りかもしれません」
「でしょう? ならば——」
「ただ、歴史を学ぶ目的は、情報量ではありません」
セレナの声は穏やかだが、目線は双子の瞳を真っ直ぐに捉えている。
「歴史は、人がなぜ誤りを犯し、それでも立ち上がったかを知るための学問です。お母様——アクア様も、理性だけでは辿り着けない答えを、歴史の中に見出されたことがあるはずですよ」
シズクが口を開きかけ、閉じた。母の名前を出されると弱い。
マリンもペンを止め、少し考え込む表情を見せた。
「……論理的な反証が見つかりません。今回は、班長の提案を受け入れます」
「ありがとうございます。では、歴史の授業の後に、魔導工学の自習時間を30分追加しましょう。それが妥協案です」
双子は顔を見合わせ、小さく頷いた。
ミレーユは感心した。理屈で押す子供には、理屈で応じつつ、最終的には「人の心」の領域に引き戻す。力業ではなく、対話で着地点を見つける技術だ。
午後。
養育棟の庭で、もう1つの場面に出会った。
テラの息子グラウンド、10歳。体格の良い少年だが、性格はのんびりしていて、いつも眠そうだ。
彼が、庭の隅でこっそりとおやつを隠し持っているのを、セレナの部下が発見した。
「グラウンド皇子。おやつの時間は3時です。今はまだ2時ですよ」
「えー。お腹すいたんだもん……」
グラウンドが頬を膨らませる。手には、ドーラの厨房からくすねてきたらしいクッキーの包み。
セレナが歩み寄り、グラウンドの隣にしゃがみ込んだ。
「グラウンド皇子。そのクッキー、ドーラ班長に許可をもらいましたか?」
「……もらってない」
「では、お返ししましょう。3時になったら、ちゃんとしたおやつを用意しますから」
「でもー……」
「我慢できたら、3時のおやつを少し増やしてもらえるよう、ドーラ班長にお願いしてあげます。約束ですよ」
グラウンドの目が輝いた。
「ほんと!? じゃあ我慢する!」
クッキーの包みを素直に差し出し、嬉しそうに庭を駆けていった。
「ふふ。テラ様のお子さんは、食べ物の交渉には弱いですね」
セレナが微笑む。
「子供たち一人ひとりに、響く言葉が違います。ライオス皇子には規律を。シズク皇女とマリン皇女には論理を。グラウンド皇子には約束と報酬を。……それぞれの心の鍵を見つけるのが、養育の仕事です」
夕刻が過ぎ夜になった。
子供たちが就寝準備に入る時間帯。養育棟は、朝の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
廊下の奥から、かすかに歌声が聞こえる。
ミレーユが足音を殺して近づくと、薄暗い寝室の中で、セレナが幼いアルテミスの寝台の傍らに座っていた。
ルーナとヒカルの末娘、アルテミス。6歳。まだ小さな彼女は、セレナの膝に頭を預け、とろとろと眠りに落ちかけている。
セレナが口ずさんでいたのは、古い子守歌だった。教会で孤児たちに歌っていた歌だろうか。旋律は素朴で、歌詞は祈りに近い。
「……おやすみなさい、アルテミス皇女」
セレナが銀色の髪をそっと撫で、毛布をかけ直す。その手つきには、職業的な丁寧さとは別の、もっと根源的な温もりがあった。
寝室を出たセレナは、廊下で待っていたミレーユに気づき、少し照れたように微笑んだ。
「見られてしまいましたね」
「いえ……きれいな歌でした」
「孤児院で10年、子供たちに歌ってきた歌です。王族のお子様でも、孤児の子供でも、眠る前に必要なものは同じですから」
無条件の安心。
それが、セレナの養育の根幹にある哲学だった。
その時、廊下の向こうから、圧のある気配が近づいてきた。
「セレナ」
低く、鋭い声。
振り返ると、そこには紅蓮の髪を靡かせたレヴィアが立っていた。竜妃の威圧感が、薄暗い廊下に満ちる。
「ライオスが訓練場で怪我をして帰ってきたわ。額に切り傷。大したことはないけど——」
レヴィアの目が、セレナを真っ直ぐに射抜いた。
「うちの子に宗教を押し付けるな、とは前にも言ったわね」
セレナは一歩も引かなかった。
「押し付けてはおりません、レヴィア様。ライオス皇子にはまず、靴を揃えることから教えております」
「靴?」
「はい。靴を揃えてから外に出る。帰ったら傷を報告する。嘘をついたら正直に謝る。——信仰ではなく、人としての礼儀です」
レヴィアの金色の瞳が、数秒間セレナを見据えた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「……まあ、靴くらいなら許してやるわ。あの子が自分から靴を揃えるようになったのは、確かにあんたのおかげだからね」
それだけ言って、レヴィアは踵を返した。
去り際に、小さな声が聞こえた。
「……額の傷、手当てを頼むわ」
セレナは深く一礼した。その背中は、竜妃の圧を受けてなお、揺らぎもしなかった。
レヴィアが去った後、ミレーユはセレナに尋ねた。
「怖くないんですか。レヴィア様に、あんなふうに言い返して」
セレナは少し考えてから答えた。
「怖いですよ。あの方の炎は、本気で出されたら私など灰になります。でも、子供たちの前では、怖くても正しいことを言わなければなりません。それが、養育者の義務ですから」
セレナは窓の外を見た。庭の向こうに、訓練場の灯りが見える。ライオスが怪我をした場所だ。
「レヴィア様は、厳しいけれど、本当は誰よりもライオス皇子のことを心配しておられます。『宗教を押し付けるな』という言葉の裏には、『息子を守りたい』という母の愛があるのです。——だから、私は負けません。愛の形が違うだけで、目指す場所は同じですから」
その夜。日記帳を開く。
『セレナ班長は、子守歌を歌う人だ。でも、竜妃の前では一歩も引かない人でもある。優しさと強さは、矛盾しない。』
もう1行。
『靴を揃えること。嘘をつかないこと。当たり前のことを当たり前にやること。それが、信仰よりも大切な「礼儀」なのだと、セレナ班長は教えている。——私にも、まだ揃えられていない靴がある気がする。』
【第七話:翻訳できない言葉 につづく】
ぜひご感想をお寄せください。
また評価とブックマークもしていただけると嬉しいです!!




