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第四話:帳簿の裏、商人の目

 着任から10日が過ぎた頃、ミレーユの日常は皿洗いと配膳のリズムに馴染み始めていた。


 手のふやけは引いた。腰の痛みにも慣れた。ドーラの怒鳴り声が「おはよう」と同じ意味だということも理解した。


 だが、この日の朝礼で、リリアの口から予想外の指示が飛んだ。


「ミレーユさん。今日は生活部門を離れて、情報部門の接遇補助に入ってください。他国の使節団が明日到着します」


 着任10日の新人が、いきなり別部門に出向する。しかも、表向きは来賓の接遇を担う穏やかな部署だが、その裏では王宮内外の動向監視を行う——情報部門だ。


 情報部門の執務室は、東棟の2階にある。

 ミレーユが扉の前に立った時、内側から微かに声が漏れていた。


 2人分の声。1つはまだ聞いたことのない、飄々とした女性の声。もう1つは——低く、静かで、感情の温度が極端に低い声。


「——南回りの密輸ルートは先月潰したけど、北の方に新しい動きが出てる。通商連合の使節団が来るタイミングと、偶然にしては出来すぎてるね」

「偶然ではないでしょう。使節団の荷物に何か紛れている可能性は?」

「五分五分。だから明日の接遇で裏を取りたいんだ。リリア長官が面白い新人を回してくれたから、使ってみる」


(……自分のことを、話している?)


 意を決して、扉を叩いた。


「入りな」


 扉を開けると、2人の女性が向かい合って座っていた。


 1人は——くすんだ蜂蜜色のショートカットに灰色の瞳。右耳の後ろに小さな傷痕がある。群衆に紛れたら2度と見つけられないような平凡な顔立ち。ネル・クロフォード。情報部門班長。


 そしてもう1人。


 ミレーユは息を呑んだ。


 その顔は知っている。名前も知っている。王国の子供でさえ知っている。


 シェイド。闇の特務機関長。六天将の1人。ヴァルキリア王妃の姪にして、王国の暗部を統べる最高幹部だ。


 青みがかった黒髪のボブに、金色の瞳。なぜ、そんな人が、メイド隊の執務室にいるのか。


 ミレーユの足が、無意識に半歩後ずさった。


「まあ、知ってるよね。紹介するまでもないか。——シェイドのところは、うちの部門の、お得意先みたいなものだよ」


 六天将を、お得意先と呼ぶ。ネルという人の肝の太さが、その一言に凝縮されていた。


「……よろしく」


 シェイドが立ち上がり、ミレーユの前を通り過ぎる。金色の瞳が一瞬だけこちらを捉えた。仕事道具の性能を確認するような、徹底的に実務的な視線。


「……期待しています」


 それだけ言って、シェイドは音もなく廊下へ消えた。足音も気配も残らない。


 ミレーユは、自分の心臓が激しく鳴っているのを感じた。六天将に「期待している」と言われた。それが褒め言葉なのか、それとも「使えなければ不要」という意味なのか、判断がつかない。


「怖がらなくていいよ。特務機関は王宮の外を監視して、うちは内側の情報を拾う。外と内で分担してるわけ。……まあ、あの人が何をしてるか、詳しく知らない方があんたのためだけどね」


 メイド隊の「見えない盾」は、王宮の中だけを守っているのではない。外側にはもっと深い闇を泳ぐ存在がいて、その2つの領域を繋ぐのが、この平凡な顔をした班長なのだ。


「さ、仕事の話をしようか」


 ネルは何事もなかったかのように笑い、使節団の名簿を手渡した。

 その瞬間、ネルの灰色の瞳が一瞬だけ鋭く光ったのを、ミレーユは見逃さなかった。


「ハートフィールド商会の三女。算盤が得意で、帳簿の記憶力に優れる。右利き。緊張すると早口になる癖がある」

「え、あの——」

「リリア長官から聞いた情報と、今あんたの足音と視線の動きから読み取った情報。半々ってところかな」


 ミレーユは言葉を失った。


 たった数秒の間に、ここまで見抜かれている。足音の重心で利き手を、視線の動きで性格を。平凡な顔の裏に、どれほどの観察力が潜んでいるのか。


 これが、情報部門の班長か。通称連合の裏社会出身だという噂は聞いていたが、噂以上だった。



「今回来るのは、通商連合の商務使節団。表向きは貿易条件の見直し交渉だけど、裏の目的がある。それを探るのが、うちの仕事」


 ネルは名簿の上に指を走らせた。


「あんたの仕事は接遇補助。お茶を出して、荷物を預かって、部屋に案内する。普通のメイド仕事だ。ただし、その間に見たもの、聞いたもの、匂ったものを全部覚えてもらう」


 ネルの声のトーンが下がった。


「荷物の数と大きさ。服の仕立ての産地。靴底の泥の色。会話の端に出る地名。お茶を出した時の利き手。全部だ」

「全部、ですか?」

「そう、全部。でも、紙に残すと漏洩する。あんたの記憶だけが、一番安全な金庫だよ。商家の娘なら、数字と帳簿の記憶には慣れてるだろう。それと同じことを、人間相手にやるだけだ」




 翌日。使節団が到着した。


 総勢8名。商務官3名、護衛2名、書記1名、通訳1名、団長。


 ミレーユは接遇メイドとして正門で出迎えた。にっこり笑いながら、目は動いていた。


(荷物は14個。革鞄が9、木箱が3、布包みが2。木箱の1つだけ他より重い。護衛の腕に力が入っている)


 お茶を客間に運ぶ。


(団長は左利き。カップの取っ手を左に回した。書記官は茶を口にしなかった。匂いを嗅いだだけ)


 廊下で、商務官同士の小声の会話が耳に入る。


「——北の鉱山の件は、今回は出さない方が——」

「——あの商会が噛んでいるなら、値崩れ——」


(北の鉱山。商会。値崩れ。表の議題にはない)


 頭の中の帳簿に、人間の挙動と言葉を次々と記入していく。不思議な感覚だった。父の商会で帳簿を見ていた時と、使う筋肉が同じなのだ。読み取る対象が「数字」から「人」に変わっただけで。




 夕刻。ネルの執務室。


「で、何が見えた?」


 ミレーユは深呼吸してから話し始めた。


「木箱の1つだけ重量が違いました。通商連合の正規品ではなく、北部の工房製だと思います。父の商会で扱っていた鍛造品の木箱と、金具の様式が同じでした」


 ネルの眉がぴくりと動いた。


「団長は左利き。書記官はお茶を飲みませんでした。あと、商務官の会話で『北の鉱山』『商会が噛んでいる』『値崩れ』という言葉が。表の議題にはなかった話題です」


 ネルはしばらく黙り、それから灰色の瞳を光らせた。


「……木箱の金具の産地まで見分けるとは思わなかった。あんた、帳簿屋の目ってだけじゃないね。品物の真贋を見抜く、商人の目だ」


 ネルは壁の組織図に視線を移した。


「北の鉱山の件は、シェイドが追ってた筋と一致する。あんたが拾った断片で、裏の目的がほぼ絞れた。満点以上だよ、ミレーユ」


 皿洗いでは「及第点」がやっとだった。だが、ここでは——自分の生まれ持った目が、役に立った。


「ただし」


 ネルの笑顔の裏に、鋭利な刃が覗いた。


「今日見聞きしたことは誰にも話すな。シェイドさんのことも。この部屋を出たら、あんたはただの新人メイドだ。皿を洗い、ドーラ班長に怒鳴られる。それだけの存在でいなさい」

「……はい」

「情報は金庫に入れて鍵をかけるもんだ。あんたの頭が金庫。鍵は、あんた自身の口」



 ミレーユが退室した後、ネルは天井を見上げた。


 あの記憶力。あの観察眼。商家育ちだからこそ持つ「物と金の流れを読む勘」。魔力で瞬時にこなす竜族にはない、人間だからこその武器だ。


 かつて自分もそうだった。通商連合の裏社会で、魔力もない人間の身で、目と耳と記憶だけを頼りに情報を売っていた。贖罪のつもりでメイド隊に入ったが、結局やっていることは同じだ。ただ、誰のために使うかが変わっただけ。


 ネルはリリアへの報告書にペンを走らせた。


『あの子、情報部門にも使えますよ』




 廊下を歩きながら、ミレーユは自分の手のひらを見つめた。


 皿洗いでふやけた指先。この手で、今日は皿ではなく「人間」を読んだ。


 だが、それ以上に心に残ったのは、執務室に入った時に見た光景だった。


 ネル班長と、六天将シェイド。王宮の内側で情報を拾う者と、外側の闇を統べる者。その2人が、メイド隊の小さな執務室で、当たり前のように向かい合っていた。


(リリア長官が、あの式典で暗殺者の毒針を弾いた時と同じだ。誰にも気づかれず、何事もなかったように微笑んでいた。あの人も——見えないところで、こういう世界と繋がっていたのだ)


 生活部門に戻れば、また山のような皿が待っている。


 だが、その皿の向こう側に、もう1つの世界があることを、ミレーユは知ってしまった。


 その夜、日記帳に書いた言葉は短かった。


『帳簿と人は、読み方が同じだ。数字の裏に意図がある。笑顔の裏にも、意図がある。』


 そしてもう1行。


『今日見たことは、ここにも書かない。』



【第五話:鉄の匙と黄金の舌 につづく】


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