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第三話:六つの言葉、一つの食卓

 昼の鐘が鳴ると、王宮の空気が変わる。


 朝の緊張感が緩み、廊下を行き交う足音に余裕が混じる。メイド隊にとって、昼食の時間は1日のうちで唯一、「持ち場」から離れることを許される貴重な30分だった。


 メイド隊専用の食堂は、厨房棟の裏手にある。かつては資材倉庫だった石造りの部屋を改装したもので、天井は低く、窓は小さい。華やかさとは無縁の空間だ。


 だが、昼時のここには、王宮のどこよりも濃密な「生活」の匂いが満ちていた。


 ミレーユが食堂に足を踏み入れたのは、着任3日目の昼だった。


「あ、新入りだ。こっちこっち、空いてるよ」


 声をかけてきたのは、赤銅色のショートボブに、耳の上から覗く小さな尖った耳を持つ女性だった。獣人混血のラシェル・コッパーファング。渉外部門班長。


 日焼けした肌に刺青、犬歯がやや長い。笑うと牙が見える。だが、その笑顔には警戒心を解かせる不思議な温かさがあった。


「ラシェル班長、ですよね。渉外部門の……」

「班長はやめてよ、食堂じゃ堅苦しい。ラシェルでいいよ」


 促されるまま席に着くと、ミレーユは食堂の光景に目を丸くした。


 長テーブルが3列。そこに、竜族、人間、エルフ、ドワーフ、そして混血のメイドたちが、種族の区別なく入り混じって座っている。


 そして、その全員の前に——ドーラの作った昼食が並んでいた。



 問題は、すぐに起きた。


「ドーラ班長。これ、肉です」


 静かに、しかし確固たる声でそう言ったのは、長テーブルの端に座るファルーシェだった。銀緑色の超ロングヘアが椅子の背もたれから流れ落ち、前髪の奥から翠緑色の瞳が皿を見下ろしている。


「結界制御室の定時交代で上がってきたら、今日の主菜が鹿肉のシチューだったのですが……」

「そうだよ。今朝仕入れた辺境産の鹿だ。脂の乗りが最高でね」


 ドーラが胸を張る。


「エルフ族は基本的に肉を食べません」


 ファルーシェの声には感情がほとんど乗っていない。だが、その無表情さがかえって「譲れない一線」を際立たせている。


 ドーラは鼻を鳴らした。


「知ってるよ。だからあんたの分は、野菜とキノコの煮込みを別に用意してある。ほら」


 ドーラが差し出したのは、色とりどりの根菜とキノコを香草で煮込んだ一皿だった。湯気が立ち、食欲をそそる匂いが漂う。


 ファルーシェはそれを一瞥し、小さく頷いた。


「……ありがとうございます」

「た、だ、し」


 ドーラが太い指をファルーシェに突きつけた。


「あんたがその煮込みを『これで十分です』って顔で食べるのは気に入らないね。『美味い』って言いな。作った者への礼儀だよ」


 ファルーシェの瞳の中で、光の粒子がかすかに揺れた。エルフ特有の、感情が動いた証だ。


「……美味しいです」

「よろしい」


 ドーラは満足げに鼻を鳴らし、自分の席に戻った。


 ドーラが自分の席に着き、鹿肉を頬張りながら、ファルーシェの皿をちらりと見た。色とりどりの野菜とキノコだけが盛られた一皿。


「うん、見た目は悪くない出来だね。……まあ、あたしはあれだけじゃ力が出ないけど。飼料みたいなもんだ」


 悪気はなかった。ドワーフ特有の、思ったことがそのまま口から出る気質だ。隣の同僚に向けた軽口のつもりだったのだろう。


 だが、ドワーフの声量は軽口に向いていない。


 食堂の半分に、その言葉は届いてしまった。


 ファルーシェの箸が、止まった。


 反論はしなかった。怒りも見せなかった。ただ、静かに目を伏せ、手元の煮込みを見つめている。その沈黙が、どんな反論よりも重かった。


 さっき「美味しい」と言ったばかりの料理を、作った本人が「飼料」と呼んだ。ファルーシェの中で、何かが閉じたのだ。


 食堂の空気が、目に見えて冷えた。


 周囲のメイドたちは箸を止め、居心地悪そうに視線を泳がせている。誰もが気づいていた。だが、班長同士の問題に口を挟める者はいない。


 ドーラ自身も、数秒遅れで気がついた。ファルーシェの動きが止まったこと。周囲の沈黙。自分の言葉が、意図しない方向に刺さってしまったこと。


「あ——いや、あんたの煮込みが飼料って意味じゃなくて——」


 弁明しようとするが、言葉が続かない。取り繕えば取り繕うほど、傷口が広がることくらい、料理人の直感で分かっていた。


 ミレーユは固まっていた。自分が何か言うべきなのか。でも、何を?


 その時、テーブルの向こうから、場違いなほど明るい声が割り込んだ。


「あーっ、ドーラの鹿肉シチュー! 最っ高! おかわりある?」


 ラシェルだった。


 彼女は空になった皿を高々と掲げ、満面の笑みでドーラに向かって振っている。


「あるに決まってるだろ。大鍋で作ってあるんだから」

「やった! ……あ、ファルーシェ。そのキノコの煮込み、一口もらっていい? 私、雑食だからさ。肉も野菜も、美味いものは全部好きなんだ」


 ラシェルはファルーシェの隣に滑り込み、断りもなく匙を伸ばした。


「……どうぞ」


 ファルーシェが戸惑い気味に皿をずらすと、ラシェルは煮込みを一口含み、大げさに目を見開いた。


「うっま! ドーラ、この煮込みすごいよ。キノコの出汁が深くて、肉が入ってないのに満足感がある。エルフの食文化、見直したわ」

「ま、まあね。あたしだって、野菜の扱いくらいできるさ」


 ドーラが照れくさそうに顎を撫でる。さっきの「飼料」発言の気まずさが、ラシェルの明るさで薄まっていく。


「ファルーシェも、ドーラのシチューの匂い、嫌じゃないでしょ? 美味しそうって思ったりしない?」

「……匂いは、不快ではありません。ただ、食べることはできません」

「うんうん、それでいいの。美味しそうって思えるなら、同じテーブルで食べられる。それって、結構すごいことだと思わない?」


 ラシェルの言葉は、論理的でも説教じみてもいなかった。ただ、「一緒に食べること」の価値を、体温のある言葉で伝えている。


 ファルーシェは何も答えなかった。だが、その箸が再び動き始めたことを、ミレーユは見逃さなかった。



 食堂の空気が緩んだところで、もう1つの小さな騒ぎが起きた。


 テーブルの隅で、生肉の塊にかぶりついている女性がいた。

 ラシェル——ではない。ラシェルの部下の、獣人混血の若いメイドだった。


「あ、すみません。私、火を通した肉がちょっと苦手で……」

「気にしないでいいよ。獣人の血が入ってると、生の方が栄養吸収がいいんだ」


 ラシェルが庇うように言う。


 しかし、隣の人間のメイドが、明らかに目を逸らしていた。不快感というより、戸惑い。見慣れない食文化への、素朴な違和感だ。


「——あんたたち」


 ドーラが、ドスンと自分の皿を置いた。


「食堂ってのはね、誰かの食い方を評価する場所じゃない。腹を満たす場所だ。肉を食う奴、野菜だけの奴、生肉を齧る奴。全員が同じテーブルで飯を食えるってことが、この王宮の一番の自慢なんだよ」


 ドーラの声は怒鳴りではなかった。厨房で振るう怒号とは違う、静かな誇りを込めた声だった。


「あたしの作る飯は、全員の腹を満たす。それが料理人の仕事だ。文句があるなら、自分で作りな」


 食堂が、しん、と静まった。


 そして——ファルーシェが、極めて小さな声で言った。


「……同感です」


 ドーラが目を丸くした。まさか、このエルフから同意の言葉が出るとは思っていなかったのだろう。


「な、なんだい、急に?」

「料理人の矜持は、種族を問わず尊敬に値します。……煮込み、本当に美味しかったです。ドーラ班長」


 今度は、「美味しい」に力が込められていた。


 ドーラは一瞬だけ口を開閉させ、それから大きく鼻を鳴らした。


「フン。当たり前だろ」



 昼食後、食堂を出たミレーユは、ラシェルに呼び止められた。


「ねえ、ミレーユ。今日の食堂、どう思った?」

「えっと……文化の違いって、大変だなって」

「まあ、そうだね。でもさ」


 ラシェルは窓の外を見た。中庭では、竜族のメイドと人間のメイドが並んで洗濯物を干している。


「ここの食堂、仕切りがないんだ。竜族用のテーブル、エルフ用のテーブル、って分けたら楽なのに、リリア長官はそうしなかった。わざと混ぜてる」

「わざと?」

「うん。摩擦が起きるのを分かった上で、それでも同じテーブルで食べさせてる。長官は言ってたよ。『不便でも、隣にいることに意味がある』って」


 ミレーユは、昼食の光景を思い返した。


 肉を食べないエルフ。生肉を齧る獣人。野菜を飼料と呼びかけたドワーフ。それをさらりと仲裁した混血の班長。


 ぶつかって、戸惑って、それでも同じ皿の湯気を分け合った30分。


「あと、もう一つ」


 ラシェルが、いたずらっぽく笑った。


「リリア長官は、食堂の外から毎日見てるんだよ。誰が誰の隣に座ったか、どこで摩擦が起きたか、全部」

「……見ていらっしゃるんですか!?」

「そう。あの人は、戦場じゃなくて食卓の方が、組織の本当の姿が出るって知ってるんだ」



 その夜。


 ミレーユは日記帳を開き、今日の出来事を書き留めた。


 1行では足りなかった。ドーラの「飼料」発言、ファルーシェの静かな反論、ラシェルのさりげない仲裁。そして、ドーラとファルーシェが最後に交わした、ほんの小さな和解。


 全部を書き終えてから、最後にもう1行だけ付け加えた。


『ここは種族のサラダボウルだ。ドレッシングは、まだかかっていない。』


 前回の日記では「切られてもいないレタス」だった。少しだけ、進歩した気がする。


 窓の外から、食堂の方角で誰かが笑う声が聞こえた。夜食の時間だろう。ドーラが当直組のために、何かを温め直しているに違いない。


 明日も、あの食卓に座る。


 肉の匂いと、キノコの出汁と、生肉の鉄の香り。全部が混ざった、この王宮だけの匂いの中で。


【第四話:帳簿の裏、商人の目 につづく】


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