第十四話:誰も知らない休日
月に2度の休日。
王室メイド隊の休日は、全員が同時に休むわけではない。20人ずつ2組に分け、交代で取得する。王宮の警護と日常業務を止めるわけにはいかないからだ。内衛班の6人は3人ずつ交代制で、彼女たちが全員揃って休むことは、12年間で1度もない。
その日は、ミレーユの組が休日だった。
朝5時半。
いつもなら点呼の準備に走り出す時間に、ミレーユは寝台の上で目を開けたまま天井を見ていた。起きなくていい朝というものが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。配属から40日。身体が、勝手に王宮のリズムを刻んでいる。
6時を過ぎて、ようやく寝台から出た。制服ではなく、私服に袖を通す。辺境の商家から持ってきた、飾り気のない麻のワンピースだ。鏡の前に立つと、1ヶ月半前にこの王宮に来た日の自分が映っているようで、少しだけ不思議な気持ちになった。
白いエプロンがない自分は、なんだか頼りない。
食堂に降りると、休日組のメイドたちが三々五々集まっていた。平日の食堂は種族も部門も混ざった長テーブルでいただくのが常だが、休日組の朝は少し遅く、食堂脇の小さな庭に小さな丸テーブルがいくつか出され、好きな場所に座っていい。
ドーラが休日の朝食当番を務めていた。休日なのに、とミレーユは思ったが、すぐに気づいた。ドーラは当番ではない。好きでここにいるのだ。
「あんたも早いね。休みなんだから寝てりゃいいのに」
「ドーラ班長こそ——」
「あたしは料理が休日なんだよ」
ドーラは普段より薄い味付けのスープを出した。仕事の料理ではなく、自分が食べたい味を作っている。ミレーユはスープを一口飲んで、少し驚いた。いつもの力強い味ではなく、素朴で、どこか懐かしい味だ。
「これ、美味しいです。でも、いつもと違って——」
「故郷の味だよ。ドワーフの里で母親が作ってた味。ここじゃ出せないけどね。王族の舌には合わない」
ドーラはそれだけ言って、自分の皿に大盛りのスープを注いだ。
食堂の隅のテーブルに、ラシェルが座っていた。
普段の渉外部門長とは別人のような格好だった。髪を下ろし、柔らかい毛皮のショールを肩にかけ、手元には分厚い本が1冊。表紙を覗くと、『大陸南方民話集——獣人族の語り部たちの記録』と書かれていた。
「ラシェル班長、読書ですか」
「ん? ああ、ミレーユ。座る?」
ラシェルは本から顔を上げ、向かいの椅子を足で引いた。狼族の血が混じった彼女の仕草には、制服を着ているときにはない野性的な気安さがあった。
「この本、面白いんだよ。南方の獣人族の昔話を集めたもの。外交の参考になるかと思って読み始めたんだけど、普通に物語として好きになっちゃって」
ラシェルはページをめくりながら、1つの話を指さした。
「これ。『月を飲んだ狼』っていう話。満月の夜に、群れからはぐれた子狼が月を飲み込んで、体の中に光を持つようになるの。でも、その光のせいで夜に隠れられなくなって、ますます群れから離れてしまう。最後に、同じように光を持った別の動物たちと出会って、新しい群れを作る」
ラシェルは本を閉じ、窓の外を見た。
「なんか、ここに似てるなと思って」
ミレーユは何も言わなかった。ラシェルの横顔が、少しだけ寂しそうに見えたからだ。人間でも狼族でもない半端者。どこにも属せなかった自分が、王宮で新しい群れを見つけた——そういう話だった。
中庭に出ると、思いがけない光景があった。
セレナ・グレイスフィールドが、ベンチに座って編み物をしていた。
養育部門の班長は普段、子どもたちに囲まれて常に動き回っている。だが、今日は1人だ。膝の上には淡い水色の毛糸と、編みかけの小さな靴下が載っている。
「セレナ班長。それは——」
「アルテミス皇女の靴下よ。最近、少し足が大きくなったみたいだから」
セレナは穏やかに笑った。制服ではなく、修道院時代を思わせる質素な白い服を着ている。
「休日にも仕事を——」
「これは仕事じゃないわ」
編み棒が規則正しく動く。
「孤児院にいた頃、子どもたちに靴下を編むのが好きだったの。足元が温かいと、子どもは安心するから。仕事とか義務とかじゃなくて、ただ——そうしたいから、しているだけ」
セレナの手元を見つめながら、ミレーユは気づいた。セレナ班長は休日にも子どもたちのことを考えている。でも、それは義務感ではない。この人の日常と愛情の境界線は、最初からないのだ。
北棟の工房を覗くと、リィナがいた。
休日だというのに、作業台に向かっている。ただし、普段の修理作業とは様子が違った。作業台の上に並んでいるのは、王宮の設備ではなく——小さな、手のひらに収まるほどの魔導器具だった。
「リィナ班長、それは何ですか?」
「個人的な研究。里にいた頃から続けている」
リィナは顔を上げずに答えた。手元のレンズ越しに、微細な結晶配列を組み替えている。
「魔導照明の結晶管を、現行の3分の1の大きさで同じ出力にできないか。小型化が実現すれば、携帯型の照明が作れる。巡回中のメイドが常時光源を持てるようになる」
「それは——嵐の夜の、あの15秒のためですか?」
リィナの手が、一瞬止まった。
「……あの15秒で、私は照明の復旧に8秒かかった。8秒間、王宮の廊下が闇に沈んだ。携帯型の光源があれば、各メイドが自分の持ち場を即座に照らせる。8秒を、0秒にできる」
リィナの藤色の瞳が、レンズ越しにミレーユを見た。
「休日だから研究しているんじゃない。毎日やりたいが、平日は時間が足りないだけ」
午後になって、ミレーユは城下町に出た。
月に2度の休日、城下町への外出は許可されている。ただし、王宮の制服は着用せず、メイド隊であることを明かさないのが規則だ。私服のミレーユは、辺境から出てきたばかりの商家の娘にしか見えない。
石畳の商店街を歩き、市場で果物を買い、露店で焼き菓子をつまんだ。辺境の町とは比べものにならない賑わいだが、1ヶ月半前に初めてこの街に来たときほどの圧倒感はもうない。
本屋の前で足が止まった。店頭に並んだ新刊の中に、1冊の本が目に入った。
『竜の姫と絆のユニゾン——竜王ヒカルと六龍姫の物語』
大陸中で読まれている英雄譚だ。ミレーユも辺境の実家で読んだことがある。10歳のとき、この本を読んで——そして、王都の式典でリリアが毒針を弾く姿を見て——メイド隊に憧れた。
手に取って、ぱらぱらとめくった。
華やかな冒険譚。壮大な戦い。竜王と六龍姫の絆。読者が熱狂する物語。
でも、そこに書かれていないものを、ミレーユは今、知っている。
紅茶の温度を5度上げること。薬草サラダに蜂蜜を30分漬け込むこと。照明管の交換周期を1600時間に短縮すること。嵐の夜の15秒間に、40人がそれぞれの持ち場で灯りを守ったこと。
本に書かれない物語。誰にも語られない日常。それを支えている40の白いエプロン。
ミレーユは本を棚に戻し、代わりに新しい日記帳を1冊買った。前の日記帳が、もうすぐ埋まる。
夕方、王宮に戻った。
正門をくぐると、当直のメイドたちが平常通りに業務をこなしていた。休日組が城下町で果物を買っている間も、王宮は止まらない。止まったことは、1度もない。
寮の廊下で、思いがけない人物とすれ違った。
リリアだった。
長官は制服姿で、巡回の途中らしかった。休日のはずだが——いや、リリアに休日はあるのだろうか。ミレーユはこの40日間で、リリアが休んでいる姿を1度も見たことがない。
「ミレーユ。休日はどうでしたか?」
「城下町に出ました。——長官は、お休みでは」
「ふふ、私は当直です」
嘘ではないだろう。だが、当直でなくても、リリアはここにいるのだろうとミレーユは思った。この人は、王宮を離れない。離れられないのではなく、離れないことを選んでいる。
「長官」
「なんですか?」
「長官の休日は、いつですか」
リリアは一瞬、不思議そうな顔をした。それから、微かに口元を緩めた。この人が笑うのを、ミレーユは初めて見たかもしれない。
「私の休日は——ヒカル様が安全で、隊員が笑っている日です。つまり、毎日が半分休日ですよ」
冗談には聞こえなかった。本気でそう思っているのだと、ミレーユにはわかった。
リリアは軽く頷いて、巡回に戻っていった。その背中は制服に包まれていて、白いエプロンの紐がきちんと結ばれていた。休日にも、同じ結び方で。
夜、新しい日記帳の最初のページを開いた。
前の日記帳の最後のページには、こう書いた。
『この日記帳は、40日間の記録でいっぱいになった。皿洗いから始まって、嵐の夜まで。帳簿の読み方で人を読み、紅茶の温度で覚悟を知り、15秒の暗闇で灯火の意味を学んだ』
新しい日記帳の1ページ目には、こう書いた。
『城下町で、あの本を見た。私が知っている物語は、あの本には書かれていない。でも、それでいい。書かれない物語を、私はここで生きている』
『明日から、またエプロンを結ぶ。白い布の重さは変わらない。でも、結ぶ手が変わった。それだけで、充分だ』
ペンを置いて、窓の外を見た。月が出ていた。嵐の夜とは違う、穏やかな月だった。城下町の灯りが遠くに見え、その手前に王宮の窓の明かりが点々と並んでいる。
明日は、また5時半に起きる。点呼に並び、エプロンを結び、厨房に走る。それが日常だ。何事もない日常。
でも、その日常を——ミレーユはもう、退屈だとは思わない。
【第十五話(最終話):白いエプロンと、もう一つの背中 につづく】
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