第十五話(最終話):白いエプロンと、もう一つの背中
その朝、ミレーユのベッドの上に、見覚えのない包みが置かれていた。
白い布に包まれた、薄く平たいもの。誰が置いたのか、部屋には誰もいない。同室のメイドはすでに点呼の準備に出ている。ミレーユは包みを手に取り、布を開いた。
エプロンだった。
白い、新品のエプロン。だが、ミレーユが研修初日に受け取ったものとは違う。あのときのエプロンは候補生用の既製品で、胸元に刺繍はなかった。今、手の中にあるエプロンの左胸には、小さな紋章が縫い込まれている。
竜王宮の紋章。王室メイド隊の正規隊員だけが身につけることを許される、銀糸の紋章。
包みの中に、紙が1枚入っていた。
「本日付で候補生期間の終了を認め、王室メイド隊正規隊員に任命する。配属:生活部門付き情報部門兼務。——王室メイド隊長官 リリア・シャイニング」
日付の下に、小さく一文が添えられていた。リリアの筆跡だが、公式の辞令書に書く文ではない。私的な、短い一文だった。
「——ようこそ」
ミレーユの視界が滲んだ。エプロンを胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
点呼の広間に、白いエプロンが並んでいた。
ミレーユが広間に入ったとき、全員がすでに整列していた。ドーラが腕を組んで左端に立ち、セレナが静かに背筋を伸ばし、ラシェルが長い尾を揺らし、リィナが無表情に前を向き、ネルが壁に寄りかかっている。内衛班の6人は最後列に並び、フェンリアの赤い髪が朝日を受けて光っていた。
オーリアが検査室から上がってきて列に加わり、ファルーシェが地下から静かに姿を現した。いつもの光景だ。
だが、今日は1つだけ違った。
広間の正面、いつもリリアが立つ場所——その隣に、もう1つの場所が空けられていた。
「ミレーユ・ハートフィールド。前へ」
リリアの声が広間に響いた。いつもと同じ声だった。静かで、正確で、一切の動揺がない。でも、ミレーユには気づいた。ほんのわずかに——本当にわずかに——声の温度が高い。
ミレーユは列を離れ、リリアの前に立った。新しいエプロンは、すでに身につけている。左胸の紋章が、朝日を受けて銀色に光った。
「本日をもって、ミレーユ・ハートフィールドの候補生期間を終了とします」
リリアはミレーユを見た。あの灰色がかった翠の瞳。初めて会った日と同じ目だ。だが、40日前のあの目が「見定める目」だったとすれば、今日の目は違う。
「正規隊員として、王室メイド隊への正式な着任を認めます」
広間が静まり返った。だが、それは緊張の静寂ではなかった。全員が、この瞬間を知っていた。
「配属は、生活部門付き情報部門兼務。ドーラ班長、ネル班長、それぞれの部門で指導を継続してください」
「「了解」」
ドーラの太い声と、ネルの軽い声が同時に返った。
リリアはミレーユに向き直った。
「ミレーユ。1つだけ訊きます」
「はい」
「あなたは40日前、私に言いました。——10歳のとき、式典でメイド長が毒針を弾く姿を見て、この場所に来たいと思った、と」
ミレーユは頷いた。
「今も同じ気持ちですか?」
ミレーユは一瞬、言葉を探した。だが、探す必要はなかった。答えは、この40日間の中にすでにあった。
「いいえ」
広間にわずかなざわめきが走った。だが、リリアの表情は変わらなかった。
「40日前の私は、リリア長官に憧れてここに来ました。でも今は——」
ミレーユは背筋を伸ばした。
「——憧れだけではありません。ドーラ班長の厨房で、5分で卵を割ることの意味を知りました。ネル班長の部屋で、見たものを口にしない重さを学びました。ラシェル班長の交渉で、言葉にならない言葉を読むことを教わりました。セレナ班長の編み棒から、愛情に休日がないことを知りました。リィナ班長の油で汚れた手から、8秒を0秒にする執念を見ました」
ミレーユの声は震えていなかった。
「オーリア先輩の舌が、毎日の食卓を命懸けで守っていることを知りました。ファルーシェ先輩が地下で、誰にも見えない盾を支えていることを知りました。内衛班の6人が、12年間同じ場所に立ち続けていることを知りました」
ミレーユは、リリアの目を真っ直ぐに見た。
「そして、レヴィア様から——紅茶の合格は味の合格ではなく、覚悟の合格だと教わりました」
広間が、完全に静まった。
「私は今、憧れではなく、覚悟でここに立っています。この白いエプロンを結ぶことが、王と王家を守る盾になることだと——40日かけて、やっと身体でわかりました」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
リリアは、何も言わなかった。
ただ、1つだけ。
頷いた。
深く、静かに、1度だけ。
それがリリア・シャイニングの、最大の賛辞だった。
「——本日の点呼を行います」
リリアの声が、いつもの調子に戻った。
「生活部門」
「異常なし」
ドーラの太い声が響いた。
「情報部門」
「異常なし」
ネルの軽い声が続いた。
「養育部門」
「異常なし」
セレナの穏やかな声。
「渉外部門」
「異常なし」
ラシェルの声。
「技術部門」
「異常なし」
リィナの淡々とした声。
「結界制御室」
「異常なし」
ファルーシェの静かな声が、伝声管から届いた。
「内衛班」
「異常なし」
フェンリアの低い声が、最後列から返った。
リリアは全員の報告を受け、手元の名簿に視線を落とした。今期の候補生は5名。40日間の研修を経て、最後まで残ったのは1人だけだった。厳しすぎると言われることは知っている。だが、この白いエプロンに紋章を縫い付ける以上、基準を下げるつもりはない。
名簿の末尾に、今日、1つの名前が加わった。
リリアの視線が、広間の全員を見渡した。竜族、人間、エルフ、ドワーフ、獣人、混血。それぞれの種族、それぞれの才能、それぞれの過去を持つ女性たちが、同じ白いエプロンを身につけて立っている。
「——何事もなく、参りましょう」
声が、朝の広間に響いた。
「「「「はい、長官!!!」」」」
点呼が終わり、全員がそれぞれの持ち場へ散っていく。ドーラが厨房へ、セレナが養育棟へ、ラシェルが渉外室へ、リィナが北棟へ、ネルが東棟2階へ。内衛班の6人が、音もなく王族区画へ消えていった。ファルーシェは地下3層へ降り、オーリアは検査室へ戻った。
ミレーユは厨房へ向かった。今日の最初の仕事は、朝食の皿洗いだ。40日前と同じ仕事。でも、今日のミレーユの左胸には銀糸の紋章がある。
広間に残ったのは、リリアだけだった。
リリアは、誰もいなくなった広間で立ち尽くしていた。
朝日が窓から差し込み、石畳の床に長い光の帯を引いている。足音が遠ざかり、広間には静寂が戻った。
リリアは手元の名簿を閉じ、窓辺に歩いた。中庭が見える。いつもの中庭だ。石畳と花壇と、風に揺れる木の葉。13年前、ヒカルがまだ若い王だった頃と、同じ景色。
ふと、リリアは自分の手を見た。
35年の人生で、この手は何をしてきたのだろう。幼い頃、ヒカルと同じ野原を走った手。メイドとして銀の盆を運んだ手。暗殺者の毒針を弾いた手。マニュアルの初版を書いた手。そして今、名簿に新しい名前を書き加えた手。
リリアは、自分が笑っていることに気づいた。
誰も見ていない場所で、リリア・シャイニングは笑っていた。大きな笑みではない。口元がわずかに緩んだだけの、誰にも気づかれないような笑顔だ。でも、それはリリアにとっての——精一杯の感情だった。
呟きは、誰にも届かなかった。
リリアは襟元を正し、表情を戻した。今日の巡回は9時から。その前に、先週の結界データの確認と、来月の外交行事の人員配置表を作成しなければならない。マニュアルの改訂案も2件溜まっている。ネルから上がった情報報告書の精査も残っている。
いつもと同じ朝だ。
何事もない、いつもと同じ朝。
リリアは広間を出た。廊下の魔導照明が青白く灯り、足音が石壁に静かに反響する。その背中を見送る者は、誰もいない。
だが——もし誰かが見ていたなら、気づいただろう。
リリア・シャイニングの背中は、今日もまっすぐだった。13年前から変わらず、まっすぐだった。
その日の夜、ミレーユはいつも通り日記を開いた。
でも、ちょっと特別だ。
新しい日記帳の2ページ目。正規隊員として迎える最初の夜だから。
何を書こうか迷った。この40日間の出来事を全部書こうとすれば、日記帳がもう1冊必要になる。でも、書くべきことは1つだけだとわかっていた。
『今日、私は正規隊員になった』
『左胸の銀糸は、たぶん一生の紋章の重さだ』
『帳簿の読み方で人を読み、紅茶の温度で覚悟を知り、15秒の暗闇で灯火の意味を学んだ。私にできることは、見ることと、覚えることと、数えること。それは変わらない。でも、今日からはそれを——この紋章にかけてやる』
ペンが止まった。最後に、1行だけ書き足した。
『リリア長官が、笑った気がした。きっと気のせいだ。——でも、気のせいじゃなかったらいいな』
日記を閉じた。窓の外に月が出ていた。穏やかな月だった。
明日も5時半に起きる。点呼に並び、エプロンを結び、厨房に走る。何事もない日常。誰にも語られない物語。
でも——その物語を、ミレーユは誇りに思う。
白いエプロンの紐を、明日もまた、結ぶために。
〈竜の姫と絆のユニゾン外伝 〜新人メイドの裏執務日誌〜 了〉
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