第十二話:竜の姫の紅茶
配属から3日目の朝、ミレーユは厨房で茶葉の在庫確認をしていた。
ドーラ班長が管理する茶葉の棚には、産地と等級ごとに分けられた缶が27種類並んでいる。辺境の山岳茶から南方港の発酵茶、エルフの里から取り寄せる花茶まで。ミレーユは帳簿に残量を記録しながら、それぞれの缶に貼られた小さな札を読んでいた。
「レヴィア様——辛口の紅茶、砂糖なし、茶葉は山岳第二等級、蒸らし時間4分」
「アクア様——薄めの白茶、蜂蜜を半匙、温度はやや低め」
「テラ様——濃い麦茶、大杯、量は通常の2倍」
「セフィラ様——甘い果実茶、角砂糖2つ、花弁を1枚浮かべる」
「ルーナ様——無味の湯冷まし、温度は体温と同じ」
「ヴァルキリア様——何でも可。ただし、出されたものは必ず飲む」
「レオーネ様——帝国式の紅茶、ミルク先入れ、カップは白磁」
7人分の好みが、ドーラの手書きで細かく記されている。ミレーユは商家の帳簿を覚える要領でそれを頭に入れていた。数字と条件の羅列なら、得意な領域だ。
「ミレーユ」
ドーラの声が厨房に響いた。
「レヴィア様の午後の紅茶、今日はあんたが持っていきな」
手が止まった。
「——私が、ですか!?」
「リリア長官の指示だ。候補生は3ヶ月の間に、王族への直接給仕を最低1回経験すること。『王の安全マニュアル』Ver.20.3、第7章に書いてある」
ドーラは鉄の匙で茶葉を量りながら、ミレーユをちらりと見た。
「びびるな。茶を淹れて、運んで、下がる。それだけだ。ただし——」
匙が止まった。
「相手は竜妃の筆頭だ。あたしらとは格が違う。気配だけで空気が変わる。それを覚悟しておきな」
午後2時。
ミレーユは銀の盆に紅茶のセットを載せ、東棟3階の回廊を歩いていた。山岳第二等級の茶葉、砂糖なし、蒸らし時間4分。すべてドーラの指示通りに準備した。カップの取っ手の向き、ソーサーの位置、スプーンの角度まで確認した。
それでも、手が震えている。
回廊の窓から午後の光が差し込み、石畳に長い影を落としていた。この棟の3階は六龍姫の私室が並ぶ区画で、内衛班の警護が最も厳重な場所だ。廊下の角を曲がると、壁際にフェンリアが立っていた。赤い髪が窓の光を受けて燃えるように輝いている。
「レヴィア様のお茶?」
フェンリアは内衛班の炎の竜。メイド隊の初期メンバーで、凄腕に戦士でもある。
そんな彼女の声は低く、素っ気なかった。
「はい。ドーラ班長の指示で」
「ふうん」
フェンリアの視線がミレーユの盆を一瞥した。茶葉の種類、カップの選び方、湯気の立ち方——おそらく、それだけで合格か不合格かを判断している。内衛班は王族の身辺を12年間守り続けてきた精鋭だ。給仕の作法すら、彼女たちの監視下にある。
「行きな。ノックは3回、間隔は均等に」
フェンリアがわずかに顎を引いた。それが通行許可だった。
ノックを3回。間隔を均等に。
「入りなさい」
声が扉越しに届いた瞬間、ミレーユは空気が変わるのを感じた。ドーラが言った通りだった。気配だけで、廊下と室内の温度が違う。
扉を開けると、陽光が部屋を満たしていた。広い私室の中央に置かれた丸テーブル、窓辺に並ぶ鉢植えの花、壁に掛けられた家族の肖像画。そして——窓際の長椅子に座る女性。
レヴィア。竜妃の筆頭。火の血統を継ぐ竜族の姫にして、ヒカル王の最初の妃。ライオス皇子とノア皇女の母。
赤い瞳がミレーユを捉えた。
その瞬間、ミレーユの足が止まった。怖いのではない。圧倒されたのだ。レヴィアは微笑んでいた。穏やかに、優雅に、どこから見ても王妃にふさわしい笑みだった。だが、その笑みの奥にある気配は——ミレーユが今まで感じたことのないものだった。リリアの静かな威圧とも、シェイドの冷たい視線とも違う。もっと根源的な、種族そのものの重さ。
「新しい子ね。座りなさい」
レヴィアの声は柔らかかった。
「は、はい。生活部門のミレーユ・ハートフィールドです。本日、レヴィア様の午後のお茶を——」
「ここに置いて」
テーブルを示す仕草は自然で、ミレーユは銀の盆をテーブルに置き、カップにポットから紅茶を注いだ。山岳第二等級の茶葉が、澄んだ琥珀色の液体になって白磁のカップを満たす。砂糖なし。蒸らし4分。
レヴィアはカップを手に取り、香りを確かめ、一口含んだ。
沈黙が、3秒ほど続いた。ミレーユにとっては永遠に近い3秒だった。
「——悪くないわ」
ミレーユの肩から力が抜けた。
「ドーラが淹れたのではないわね。手つきが違ったもの」
見抜かれている。たった一連の給仕の動作で、淹れた人間が違うことを察知している。レヴィアはカップをソーサーに戻し、ミレーユの顔を真っ直ぐに見た。
「名前は聞いたわ。ライオスが食卓で話していた。面白い新人が入った、と」
「——こ、光栄です」
「ライオスが人に興味を持つのは珍しいのよ。あの子は火の気質だから、退屈なものにはすぐ背を向ける。ノアも、珍しそうにあなたの話を聞いていたわ」
レヴィアの問いかけに、ミレーユは答えを探した。ライオス皇子と直接会話をしたことはない。ただ、養育部門の研修中に訓練場の脇を通ったとき、木剣を振っていたライオスと目が合ったことがある。それだけだ。
「まあ、いいわ」
レヴィアはもう一口、紅茶を飲んだ。そして、何気ない口調で言った。
「ところで、あなた、アクアの部屋にもいずれお茶を運ぶことになるでしょう?」
「は、はい。いずれは——」
「あの人はね、お茶の味にはあまりこだわらないの。ただ、部屋に入ったときの足音をよく聞いている。水の竜妃は音に敏感だから。足音が硬いと、緊張しているとすぐに見抜かれる。扉を開ける前に、1つ深呼吸しなさい。そうすれば足が柔らかくなるわ」
ミレーユは目を瞬いた。それは、ドーラの札には書かれていない情報だった。
「それから、セフィラのところへ行くときは——」
レヴィアはカップを軽く回しながら続けた。
「あの子は角砂糖を2つ入れるでしょう。でも、本当は甘いものがそこまで好きなわけじゃないの。甘い紅茶を飲む時間が好きなのよ。だから、急かさないこと。カップを下げるタイミングを間違えないで。セフィラが自分からカップを置くまで、絶対に手を出さないこと」
それは命令ではなかった。筆頭妃がほかの妃たちのことを、長い年月をかけて理解し、その上でメイドに伝えている——助言だった。
ミレーユは、かつて本で読んだレヴィアの姿を思い出した。火の竜妃。激情の姫。魔王との戦いでは最前線に立ち、炎で敵を焼き尽くした苛烈な戦士。その人物が今、後輩の妃たちの紅茶の好みを、新入りメイドに穏やかに教えている。
13年という時間が、この人をここまで変えたのだ。いや、変えたのではない。もともと持っていたものが、表に出てきたのかもしれない。
「——レヴィア様」
「何?」
「ありがとうございます。必ず、覚えます!」
レヴィアはほんの一瞬、不思議そうな顔をした。それから、小さく笑った。
「大げさね。覚えなくていいのよ、そんなに真剣に。ただの雑談だもの」
ただの雑談ではないことを、ミレーユは知っていた。そしておそらく、レヴィアもそれを知っていた。
「下がっていいわ。——ああ、それと」
扉に向かったミレーユの背中に、レヴィアの声が追いかけてきた。
「次はもう少し温度を高くして。私は火の竜妃よ。猫舌じゃないの」
振り返ると、レヴィアは笑っていた。先ほどの王妃の威厳ではなく、もっと人間的な——どこか茶目っ気のある笑顔だった。
「——はい。次回は5度上げます」
「ふふ、数字で返すのね。ドーラに似てきたんじゃない?」
廊下に出ると、フェンリアがまだ同じ場所に立っていた。
「生きてたか?」
素っ気ない一言だったが、口元がわずかに緩んでいた。
「フェンリアさん。レヴィア様は——」
「怖かった?」
ミレーユは首を横に振った。
「いいえ。——優しい方でした」
フェンリアの赤い瞳がわずかに見開かれた。それから、腕を組んだまま天井を見上げた。
「……そうだな。あの方は昔、もっと——まあ、いいか。今の話だ」
フェンリアは言葉を切り、視線をミレーユに戻した。
「竜の姫に嘘は通じない。だから、正直にやれ。それだけでいい。あんたがさっき感じたものが本物なら——あの方はちゃんと見てくれる」
ミレーユは頷き、東棟の階段を降りた。銀の盆を胸に抱え、午後の光が差す回廊を歩く。手は、もう震えていなかった。
その夜、ミレーユは日記を開いた。
『レヴィア様の紅茶は、山岳第二等級、砂糖なし、蒸らし4分。ただし温度は5度高く。次は間違えない。』
『アクア様には、足音を柔らかく。セフィラ様には、カップを急いで下げない。』
ペンが止まった。もう1行、書き足した。
『紅茶の合格は、味の合格ではなかった。覚悟の合格だった。——そして、竜の姫は、思っていたよりずっと温かかった。』
日記を閉じ、ミレーユは白いエプロンを明日の分に掛け替えた。洗い立てのエプロンは、1ヶ月前と同じ白さだった。でも、それを結ぶ手の意味が、もう違う。
【第十三話:嵐の夜、四十の灯火 につづく】
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