第十一話:私にできること
研修開始から30日が過ぎていた。
ミレーユは朝の点呼に並びながら、自分の手を見た。皿洗いで荒れた指先、包丁の練習でできた小さな切り傷、結界制御室の冷気で乾いた甲。どれも、この1ヶ月で刻まれたものだ。
辺境の商家にいた頃の手とは、もう違う。
点呼が終わると、ドーラが厨房へ向かう一団を手招きし、セレナが養育棟への階段を上がっていく。ラシェルは渉外部門の執務室へ足早に消え、リィナは工具箱を肩に北棟へ歩いていった。40の白いエプロンが、それぞれの持ち場へ散っていく。その流れの中で、ミレーユだけが廊下に立ち止まっていた。
今日は、どの部門にも配属指示が出ていない。
「ミレーユ・ハートフィールド」
背後からリリアの声がかかった。振り向くと、長官は廊下の壁に背を預け、いつものように腕を組んでいた。表情は穏やかだが、目だけが違う。観察している目。この1ヶ月、各部門を巡回するたびにリリアが見せていた、あの静かな目だった。
「長官室へ。正式な配属面談を行います」
長官室は、王宮の規模からすれば驚くほど狭い部屋だった。
机が1つ、椅子が3つ、壁に掛けられた王室メイド隊の編成表、そして窓から見える中庭の景色。それだけだ。机の上にはミレーユの研修記録が綴じられたファイルが置かれており、表紙には各部門の班長の署名が並んでいた。
リリアは机の向こう側に座り、ファイルを開いた。
「生活部門、10日間。ドーラ班長の評価——『根性はある。手は遅いが覚えは早い。数字に強い』」
ミレーユは背筋を伸ばした。
「情報部門、5日間。ネル班長の評価——『観察力と記憶力は部門水準を超えている。口が堅い。使える』」
ネルらしい簡潔な言葉だった。ミレーユは思わず唇を引き結んだ。
「渉外部門、3日間。ラシェル班長の評価——『異種族への偏見がない。ただし非言語の読みはまだ浅い。経験で伸びる』」
「養育部門、5日間。セレナ班長の評価——『子どもに好かれる素直さがある。ただし、叱る覚悟がまだ足りない』」
「技術部門、3日間。リィナ班長の評価——『魔導適性は低いが、記録作業の正確さは評価に値する。数値管理に向いている』」
リリアはファイルを閉じた。5人の班長が、それぞれの言葉でミレーユを評価している。褒められた部分もあれば、足りないと指摘された部分もある。どちらも、本気で見てくれた証拠だった。
「あなた自身は、どう感じていますか?」
リリアの問いは静かだった。正解を求める質問ではない。ミレーユはそれを、この1ヶ月で学んでいた。リリアが本当に見ているのは、答えの中身ではなく、答えを探すときの目の動きだ。
ミレーユは少し黙った。考えを整理しているのではなく、正直に言うかどうかを決めている沈黙だった。
「——正直に申し上げます」
「どうぞ」
「私には、突出した才能がありません」
リリアの表情は変わらなかった。
「ドーラ班長のように力強く厨房を仕切ることはできません。ネル班長のように人の裏を瞬時に読むこともできません。ラシェル班長のように言葉のない会話を理解することも、セレナ班長のように子どもの心に寄り添うことも、リィナ班長のように魔導機器を直すこともできません」
言葉が止まった。ミレーユの手が、膝の上で小さく握られている。
「でも」
声が、少しだけ強くなった。
「帳簿を読むように、人を読むことはできます。数字の裏にある意図を探すことはできます。商家の三女として学んだことは、たったそれだけです。でも、この1ヶ月で——それが、ここでは無意味じゃないと知りました」
ミレーユは顔を上げた。
「ネル班長の下で、使節団の荷物から北部鉱山の鉱石試料を見つけました。ドーラ班長の厨房で、食材の在庫表の数字が合わないことに気づきました。リィナ班長の記録台帳で、照明管の劣化パターンに季節性があることを読み取りました。どれも、帳簿の読み方と同じでした」
リリアは黙って聞いていた。
「私にできることは、見ることと、覚えることと、数えることです。それだけです。でも、それだけを——全力でやりたいと思います」
沈黙が落ちた。窓の外で、中庭の風が木の葉を揺らす音だけが聞こえた。
リリアはゆっくりとファイルを机の脇に寄せた。
「ミレーユ。あなたの研修中、私は毎日巡回の中であなたを見ていました」
知っていた。いや、薄々感じていた。廊下の角で、厨房の入口で、技術部門の工房の窓から——リリアの視線が、どこかに必ずあった。
「ドーラの厨房で皿を割らなかったことは評価していません。ネルの部屋でシェイドに怯えなかったことも、本当の評価点ではありません」
リリアは立ち上がり、窓際に歩いた。夕方の光が長官の横顔を照らす。
「私が見ていたのは、あなたが何を見ているか、です」
「……何を見ているか、ですか?」
振り返ったリリアの目は、穏やかだった。この1ヶ月、巡回のたびに見せていた観察者の目ではなく、答えを出した人の目だった。
「ええ。あなたは、どの部門でも同じことをしていました。数字を見て、人を見て、その間にある矛盾を探していた。帳簿と人は同じ読み方ができると、日記に書いたそうですね」
ミレーユの目が見開かれた。
「——読んだのですか!?」
「ごめんなさいね。でも、ネルに報告させました。情報部門の班長が、新人の日記を読まないわけがないでしょう」
リリアの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。ミレーユは一瞬言葉を失い、それからゆっくりと息を吐いた。そうだ。ネル班長なら、やる。間違いなくやる。
「正式な配属を伝えます」
リリアが机に戻り、1枚の辞令書を取り出した。
「生活部門付き、情報部門兼務。ドーラ班長の下で日常業務を行いながら、ネル班長の指示があった場合は情報部門の任務を優先すること」
ミレーユの予想通りだった。いや、予想というよりも、この1ヶ月で自分の足が自然と向かった場所が、そのまま答えになっていた。
「身分は候補生のまま。正規隊員への昇格は、3ヶ月後の査定で判断します」
「はい!」
「それから……」
リリアの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。巡回の夜、廊下で隊員に声をかけるときと同じ——「ちゃんと見ていますよ」という声だった。
「あなたが自分で言った通り、突出した才能はないかもしれません。でも、全部を少しずつできる人間は、この隊では珍しい。各部門の言葉を翻訳できる人材は、40人の中にほとんどいません」
ミレーユは辞令書を受け取った。紙の重さは、1ヶ月前に受け取った合格通知と同じだった。でも、手の中の重みが違う。あの日は不安で震えていた指が、今は——まだ少し震えていたが、理由が違った。
「ありがとうございます」
「感謝は不要です。結果で返しなさい」
リリアはそれだけ言って、次の書類に目を落とした。面談は終わりだった。
廊下に出たミレーユは、辞令書を胸に抱え、しばらく歩けなかった。
壁にもたれて天井を見上げる。夕方の魔導照明が、リィナの手で交換されたばかりの結晶管から青白い光を落としている。1600時間後に、また新しい管に替わる。その繰り返しが、廊下の安全を守っている。
自分もそうなれるだろうか。
特別な光ではなく、毎日同じ場所で同じ明るさを保つ、交換可能な照明のような存在。それでも、消えれば暗闇になる。暗闇は、誰かにとっての道になる。
ミレーユは辞令書をエプロンのポケットにしまい、歩き出した。
今夜の日記に書くことは、もう決まっている。
『私にできることは、見ることと、覚えることと、数えること。それを、明日からも』
廊下の先で、ドーラの太い声が厨房から響いていた。夕食の準備が始まっている。ミレーユは足を速めた。自分の持ち場へ——まだ新しい、けれどもう迷わない場所へ。
【第十二話:竜の姫の紅茶 につづく】
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