19.これ嫌だ
孤島で過ごした空間はキャリーにとっては夢のような時間だった。
「ハァ……」
これで何度目だろう? 自分のため息をカウントしている物好きがいたら教えて欲しいな、と馬鹿なことを考えながら、また小さく息を吐いた。
宮殿に戻ってきてからのキャリーは、一つの問題にぶつかっていた。
それは当初考えていた〝グレンとは結婚しない〟という目標が迷子になりつつあったからだ。
――好きになった?
――どっち?
自分の心は相変わらず何も答えてはくれない。彼と一緒にいるとドキドキするのに、この沸き出る罪悪感と不安は何なのだろうか。
グレンによって凝り固まっていたアルファに対する疑念や雑念は解け、彼自身のことも随分と分かってきたし、一緒の時間を過ごすことに違和感もない。
寧ろこれが自分の求めている相手なのでは? と思うたびに急ブレーキがかかる。
部屋であれこれ考えながら窓辺に視線を向けた時、中庭でグレンとレーナが何かを言い合っているのが目に留まった。
――そうだ、僕はレーナと約束したんだった。
約束したからと言って必ず守らなくてはいけないことでもないとは思う。ただ、しっかりと彼女に、『結婚をする気はないのでお断りすると思います』と言った。
そう、自分で呪縛をかけたことが仇となり、それが今、罪悪感となり襲い掛かっているのだと知る。
――あれ……。
ぼんやり、二人の様子を眺めていた時だった。泣いているレーナを抱き寄せたグレンを見て、心臓が奇妙な音を立てはじめる。
早く、早く、この場から去らなくてはいけないと思うのに、キャリーの足は動かず、そのまま石像にでもなったかのように二人を見つめていると、レーナがグレンにキスをしたように見えた。
「……っ」
別にキスくらい友人同士でもするのだから、と一歩後ろに下がった瞬間、体勢を崩してしまい床に腰を打ち付けた。
痛みはあるものの、先ほど見た場面の方が自分には衝撃で、気持ちを落ち着ける方が重要だった。
状況的に見てレーナが彼に何かを求めたのだと分かるし、だからと言って彼が彼女を選ぶはずはない。
――だって、僕と結婚……。
ああ、そうか、自分は結婚しないんだった、と急に冷静になる。
最初からそのつもりだったし、ここには旅行に来ただけで、もう十分に楽しんだじゃないかと、きゅっと唇を結ぶ。
寝室に置いてある携帯を取りに行くと、キャリーは祖母に電話をした。
「おばあちゃん、僕やっぱりグレンとは結婚できない」
「あら、どうして……?」
「やっぱり僕には不釣り合いかなって……」
彼の横に立つのは自分ではないのだと言い聞かせるように祖母に伝える。
「キャリー、それはあなたが決めることではないでしょう? それに、あなたの気持ちはどうなの?」
「僕は……、だから、無理だよ。結婚なんてしたいなんて思わない……」
キャリーがそう言った途端、困った子ね、とでも言いたげに祖母のため息が聞こえてくる。
「思えないじゃなくて、『思わない』なのはどうして? それは誰が聞いても自己暗示にしか聞こえないわよ」
痛いところを突いてくる祖母に、何もかも見透かされている気がしたが、とにかくもう国に戻ると伝える。
「そう、好きになさい」
「うん……」
携帯を切り、部屋の中を見回す。薄暗くなってきた部屋は、キャリーの心を空虚にさせるには十分だった。
ぼんやりと、手あたり次第に自分の小物を整理してまとめる。目に付くものを次から次へと入れてから、バッグの中を見て呆然となる。
まるで夜逃げをするみたいにぐちゃぐちゃに入れられた衣服を眺め、「あーあー、シワシワだ」と、全てを外に出した。
カタンとリビングから音が聞こえて、取りあえず寝室から出ると、グレンがダイニングテーブルの上に何かをセットしているのが見える。
「おかえりなさい……」
キャリーがそう声をかけると、グレンは微笑みながら、「ただいま」と言って抱きすくめてくる。
――これ嫌だ……。
さっき見たレーナと抱き合っている光景とまるで一緒のことをされて嫌悪感が増す。
明らかに嫉妬していることに自分で気が付き、大きなため息を吐いた。
「僕、そろそろ国に帰ろうと思います」
「……まだ夏休み期間だろう?」
「そうなんですが、さっき祖母に電話したら、何だか会いたくなってしまって……」
ホームシックになったのだと訴える。
本当は、一番重要な話をしなくてはいけないのに、どうしても彼に伝えることが出来なかった。
〝結婚はしない〟だから、これ以上は一緒にいても意味がないことを言えないまま押し黙っていると、彼はいつもと変わらない表情を見せ話を進めた。
「分かった。明日手配をする」
「ありがとうございます」
「もし……」
何かを言いかけた彼の唇は、それ以上を奏でることはなく、しっかりと閉じられた。
ふと、テーブルの上を見れば、明らかにキャリーへのプレゼントだと分かる物が置かれており、キンと胸の奥を何かで刺されたように痛み出す。
こんなに良くしてくれているのに、自分が幼稚で臆病なせいで……、とそこまで考えてから、違う〝ビジネス結婚〟だと彼は言ってたじゃないか、フロベール社が欲しいから自分に優しく接しているのだと思い直す。
――レーナが医者じゃなく、どこかの大きな会社の娘だったら、間違いなく彼女に求婚してるよね……。
そう考えたら、あっさりと言葉が出た。
「グレン、色々考えた結果、僕はあなたと結婚は出来ません」
それを聞いた彼は、眉の溝を深く作り、「そうか仕方ないな」と言って部屋を出て行った。
その途端、目の前がくらむような感覚に襲われる。それだけではなくキリキリと痛む胸と喉の奥から、まるで血の塊が抜け落ちていくような喪失感に心が悲鳴をあげている。
――これでいい……。
何度も、何度も言い聞かせながらキャリーは荷物を片付ける。衣服を畳んでいる最中にポタッと丸いシミが布地に現れると、それは次から次へと零れ落ちる無数のシミによって汚染されていく。
頬を拭っても、拭っても、それは止まることはなく、あっという間に衣服に広がった。
「……っう……っ」
泣くぐらいなら、どうして彼のあとを追いかけて、さっきの言葉は間違いだったと言いに行かないのか。
あなたと向き合う自信がなくて、それが怖いと正直に言えばいいじゃないか、とぐずぐずと泣きながら、キャリーは後悔の気持ちに押しつぶされそうになる。
それでも、彼の優しさを勘違いした間抜けな人間にはなりたくないと、必死に自分を立ち上がらせた。
大丈夫、彼のことなんてすぐに忘れるはず……だから何も心配することはない。そんな呪文を繰り返しながら荷物をまとめた――。




