14.あなたに用がある
翌日、目を開ける前に隣にグレンがいるかを確かめる。そっと手を伸ばすと、肌触りの良いコットン生地が手に触れた。
片目を開けて見ると、彼の真っ黒な瞳は既に開かれており、キャリーの額にかかった髪を指で押し上げてくる。
「お、はようございます……」
「まだ寝ててもいい……」
なんだろう。この甘ったるい雰囲気は……、すでに新婚気分になりつつあるキャリーは、え、ちょっと待って、負けてない? と何の勝負か分からない自分との戦いを再確認する。
負けるわけにはいかない戦いのためにキャリーは、「もう起きます」と言って、ベッドから降りて洗面所へ向かった。
――このまま流されるわけには……。
歯ブラシを口に咥えて鏡を覗き込めば、そんなに意地にならなくてもいいのでは? と鏡の向こうにいるキャリーが言う。
確かに、アルファ嫌いを宣言しているから、そのせいで意地を張っているだけだと自分でも思う。
グレンはキャリーに対して結婚してもらえるように努力すると言っていた通り、少しでも親睦を深めようと時間を作ったりしている。
本当は忙しい人だし、一緒に過ごす時間を作るのも大変なのだということは十分に分かっている。
――分かってるんだけど……。
自分に素直になれないキャリーは何だかむしゃくしゃする。
ガシガシと歯を磨いていると、気怠そうに色気を駄々洩れにしたグレンが洗面所にやってくる。
鏡越しに並ぶ姿を見つめ、意外といいかも……、と先ほど掲げたはずの負けるわけにはいかない闘いは、あっさりと何処かへ消し飛ぶ。
「どうした? 歯磨き粉が口から溢れてるぞ」
「う……っ」
キャリーは思わず歯磨き粉を飲み込みそうになり、ぺっと慌てて吐き出した。
こちらの様子を見つめながら、くっと肩を揺らすグレンは、キャリーの背中に手をあてて擦ってくる。
「気を付けろ」
誰のせいで……、と言い出しそうになる言葉を呑み込むと、ささっと洗面所から出た。
ダイニングへ向かえば、見計ったかのようにインターフォンが鳴り、画面を確認すると使用人が朝食を運んで来たようだった。
並べられた料理を見つめていると、グレンがキャリーの背後に立ち、「俺は準備をしてくるから一人で食べててくれ」と言う。
「準備ですか?」
「島に行く約束だったろ?」
彼の発言を聞き、そうだった過酷な島の旅が始まることを忘れていたキャリーは、一体どれだけの危険(甘い罠)が潜んでいるか分からないのだから、と気を引き締める。
「あとで迎えに来る」
それだけ言い残すと彼は部屋を出て行った。その後ろ姿を見て、キャリーだって手伝えることくらいあるのでは? と急いで朝食を口の中へと入れていると、またもやインターフォンが鳴る。
誰だろうと思いながら画面を見ればレーナが映し出されており、グレンに用事なら出掛ける準備をしに行ったと伝えた。
「彼じゃなくてあなたに用があるの」
その言葉に嫌な予感がしたが、無視することも出来ず扉を開けた。
早朝のせいか化粧などしておらず、昨日より三歳ほど若く見えたが、見た目が変わっても彼女の高圧的な態度は変わらない。
室内にキャリー以外の人間がいないのを確認した彼女は、「単刀直入に言うわ」と言ったのにも関わらず、なかなか言葉を言い出さない。
「あの?」
「……グレンのことだけど」
それはそうだろうと思った。その先の言葉を待つようにキャリーが彼女の顔をじっと見ていると、ほんのり頬が色づいていくのが分かり、鈍いキャリーでも彼女がグレンに好意を抱いていることが分かった。
過去、恋人同士だったのだろうか? という疑念は昨日の段階で持っている。
だから、どうということはないと思っていたのに、自分の心が重みを増したような感覚がして彼女の存在が疎ましく感じる。
不可解極まりない心の揺れを感じていると、彼女の唇が動き出した。
「あなた、彼のこと好きじゃないのよね?」
どうしてそんなことを聞くのか分からないキャリーは小首を傾げる。
「グレンが言ってたわ、まったく振り向いてくれてない相手を口説いてる最中だって」
「そうですか」
「……なんなのその返事は、もしかして彼が必死に自分を追いかけてるからって優越感に浸ってる?」
どうしてそんな思考回路になるのだろうか。そもそも、自分達はビジネスで結婚をすることが前提にあり、愛のある結婚をするわけじゃない。
いや、そもそも結婚はしないのだけど、とキャリーは言い訳を自分にしながら彼女にも伝える。
「今は結婚してもいい相手か見極める期間なんです。けど、僕はその気はないのでお断りすると思います……」
「それ、信じても良いの?」
急に彼女がしおらしくなったのを見て、やっぱりグレンのことが好きなのだと思った。その事実を知ったからといってキャリーが出来ることはないけど、頷くことくらいは出来るので小さく顎を引いた。
「お付き合い……してたんですか?」
そんなこと聞く気はさらさら無かったのに、キャリーは二人の過去を探るような質問をした。
「付き合い……ってほどじゃないわ……、それに、あなたに言う必要はないでしょう」
口ごもる彼女の唇が真実を言うのを躊躇っているようで、あまりいい関係とはいえなかったのかもしれないと勝手に解釈した。
グレンが以前言っていた『付き合う時は契約をし、別れる時は身体検査をさせる』の言葉が瞬時に脳裏を掠め、確かに彼女のような地位のある人間からすれば、屈辱的なことだろうなと思った。
「あなたの真意は分かったわ……気が変わるなんてことないわよね?」
彼女から念を押されて、頷いたものの、何故か戸惑う気持ちも湧いてしまう。
確かに結婚をしたくないと思っていたのに、ふと昨晩の光景が脳内を過ぎる。ナイトライトに照らされたグレンの横顔を見ながら安心感に包まれたことや、優雅に本のページをめくる紙の音が耳に心地よかったことを思い出し、それを必死に頭から追い出した。
「私の話は以上よ……」
彼女のもう用事はないという言葉を聞き、何ともアルファらしいと思った。けれど、自分の要求さえ通れば満足だといって立ち去る姿に、どうしてか憐みを抱く。
――きっと、グレンのことが凄く好きなんだろうな。
プライドの高そうな彼女が恥を忍んでキャリーとグレンの親密度を聞きに来たのだから、よっぽどだと思った。
食べかけだった朝食に手を伸ばしたが、結局は食べるのを断念し、炭酸水を口に含んだ。
しばらくしてグレンが部屋に戻って来ると、テーブルに残されている料理に目を落とし、「食欲がないのか」と言って額に手が伸びてくる。
「熱なんかありません。ただ食欲がないだけで」
「土地が身体に馴染まないうちは注意した方がいい」
乾燥地帯ということもあり、風邪を引きやすいと忠告された。
グレンが自分を子供扱いしているわけじゃなく、単に心配してくれていると知り、胸の奥がくすぐったくなった。
「では荷物をまとめようか」
彼に促されるように自分の必要なものを簡単にまとめると、宮殿をあとにした――――。




