12.グレンのいない朝
翌日、目が覚めるとグレンの姿はなかった。
戻って来てないのだと思ったが、起き上がる時に彼の残り香がして、一瞬でも帰って来たことに気付いた。
いつもならキャリーが起きるまで寝ているのに変だなと思いながら、携帯に何かメッセージが入っていないかチェックした。
――入ってない……。
急に疎外感がキャリーを襲う。見捨てられたような気分になるのは、それだけ彼に心を動かされたという証拠だ。
だったら、今ここで彼が距離を取ってくれたことを幸運と思わなくてはいけない。
自分の気持ちにブレーキがかかるのを感じながら、暗示をかけるように〝結婚なんてしない〟を呪文のように頭の中で唱える。
「よし!」と寝室を出て洗面台へ向かうと、不思議な物を目にした。
――これって抑制剤じゃ……。
アルファ用の即効性が高いポンプ式の抑制剤ケースが置いてあり、昨晩キャリーの知らない間に何かあったのだと思った。
もしかしてオメガの誘惑香を吸い込んだの? と思ったと同時に、まさかと瞬時に自分の身体を調べた。そっと秘部を触り、何事もないことを確認する。
最新型の抑制剤リングを使用しているし、新規で付け替えたばかりだから大丈夫なはず――、と薬の残量をスマホで確認する。やはり、まだ十分な量が残っている。
――誰のフェロモンを吸ったの……?
考えたくないことを考えてしまう自分がいる。
確かにグレンは不義理はしないと言ってたけど、それは結婚してからの話であって、今の状態は互いに何の縛りもないのだから、何をしても自由なはず。それなのに、どうしてなのかモヤモヤと嫌な感情が渦巻いた。
すっきりしない気分のまま洗面所を出れば、いつもならコーヒーの香りで充満しているダイニングがひっそりとしており、朝食すら置かれていないテーブルに気分が沈んだ。
子供じゃないんだから、こんなことで拗ねるなんて幼稚だ、と思いながらダイニングに置かれているタブレットを開く。
写真付きの朝食メニューが数点並んでいるのを眺め、指先が液晶画面の前を彷徨う。
高級ホテルさながらのシステムは、気を遣わなくて済むのでありがたいと思うのに味気ない気がするのは、いつもグレンが頼んでくれるからだった。
放っておかれていることに、どうしてこんなに腹が立っているのか、自分でも理解出来ない苛立ちに翻弄され、朝食も食べる気が失せてしまった――。
昼過ぎ、リビングで映画を見ていると、不意にインターフォンが鳴った。
グレンかと思って画面を確認すると、見知らぬ女性が立っており、嫌な予感を覚えながら対応に出た。
「すみません、Mr・グレンは留守にしてます」
「そんなこと知ってるわよ。そんなことより部屋を開けなさい」
ああ、この感じはアルファだと察した。取りあえず、キャリーに拒否権はないので、素直にロックを解除した。
「へぇ、随分と可愛い子……」
「初めまして、僕は――」
「グレンから聞いてるから、いちいち紹介は不要。私はレーナ」
本当に典型的なアルファだなと目を細めた。背はキャリーと同じくらいだろうか、170センチあるかないかで華奢と言うよりは女性らしいボリュームのある身体付きをしている。
顔は好みの問題なので人によって印象は変わりそうだけど、中性的な顔立ちで美人の部類に入る。そんな彼女が部屋に入るなり、迷うことなくグレンの書斎へと向かう。
「あ、あの勝手に触ると……」
「ん? ああ、いいのよ、本人に許可をもらってるわ」
どういう関係なのかは聞かなくても何となく分かるため、そこは触れないようにした。
元恋人か現在進行形のどちらかだろうなぁ、とキャリーは落ち着かない気分になりながら、リビングのソファに腰を下ろしたが、その瞬間、「ねぇー?」とレーナに呼ばれた。
黄色いファイルを幾つか漁りながら彼女は、「フェルナンドのファイルってこれかしら?」と聞いてくるが、キャリーにはさっぱり分からない。
「すみません、僕は知らないんです」
「え、だって、あなた……」
女性の眉間がぎゅっと狭くなると、口角がくっと上にあがった。
「そういうことね……」
彼女のその表情はキャリーのことが〝可哀想な人〟と見えているようだった。
確かに、グレンのことも含めて、この国の内情など知らないし、知らされてないキャリーは完全な部外者だ。
彼女が自分をどういう立場で迎えられているか知っていて、その表情を作ったのだろう。
――何だか居心地が悪い。
外に出ようかどうしようか悩んでいると、キャリーの携帯が鳴った。きっと彼女のことを伝えるために連絡を寄こしたのだと思った。
レーナがこちらを見ながら、「もしかしてグレン?」と聞いてくる。
「そうです」
「貸してちょうだい」
他人の物をまるで私物のように扱う態度に、若干の戸惑いが生まれる。
「何してるの?」
「はい……」
仕方なく彼女に携帯を手渡した。彼女はグレンにファイルの話をしているが、急に中東の言葉に変わった瞬間、荒々しい声になった。
何か言い合いをしているのだけは分かったが、どうせならキャリーのいない所でやってもらいたかった。
「はい、返すわ」
彼女から手渡された携帯を見れば既に通話は切れており、出したくもない溜息が出た。
借りた物を返す時は感謝くらいするのが普通だけど? と彼女の態度に軽く嫌悪しながら、グレンに電話を掛けようとした時、お目当ての人物が部屋に入って来た。
「いくら君でも言っていい事と悪いことがあるぞ」
グレンが突然入ってきたかと思えば、レーナに向かって飛び掛かりそうな勢いで言葉を発した。
意外な一面というより、アルファ同士の言い合いなど頻繁に見てきた自分からすると、特に珍しい光景ではない。
けれど、普段あんなに冷静なグレンが、こんな風に感情のまま言葉を吐き出すなんて余程だと思ったし、それだけ彼女と親密な関係だということが窺えた。
キャリーはぼんやり二人の様子を見ているしか出来ず、ここに居てもいいのか躊躇う。
しばらくして怒りの表情を見せるレーナが、中東の言葉で何かを叫び、部屋から出て行った。
ぽつんと残されたグレンが何だか子供のように見えてしまい、キャリーはどう声をかけていいのか分からないままだった。
「あー、すまない、彼女は――」
言いかけた唇はそのまま閉じられた。
「気にしないでください。僕はなんとも思ってませんし、慣れてます」
ぴくっと彼の眉が動く。どういう意味で言ったのか、彼には伝わってないようだったのでキャリーは付け加えて言った。
「祖母の家に引っ越す前は、家族全員アルファの家庭で過ごしてきました。兄達は歳も近いので喧嘩も数多く見て来ましたし、巻きこまれることも多かったんです」
それだけ言うと、キャリーはリビングのソファに腰掛けた。
まあ、兄弟喧嘩とは明らかに違う痴情のもつれのように感じたけど、そこはあえて言うまでもないことだった。
彼は大きな溜息を吐くと、床に散らばったファイルを手に取り、書斎へそれを戻しに行った。
――何だか、疲れているみたいだ……。
いつもの彼なら、キャリーの言葉に反論か、彼女に関しての説明をすると思っていた。少なくとも彼女がどういう人間なのかの説明くらいして欲しいところだった。
けれど、それがないということは、キャリーがグレンにとって説明も不要などうでもいい存在ということなのだろう。
書斎から出て来たグレンは、「夕食は一緒に過ごそう」とだけ言い残し部屋を出て行った――――。




