03.今から帰るところです
特に何をするでもなく、人の動きをぼんやり見ていると、エレベーターから降りてきた人物と視線がぶつかった。
すでに着替えを済ませているグレンが、こちらへ歩みを進めて来る。
「こんな所でどうかしたのか?」
「今から帰るところです」
立ち上がったキャリーは、彼の新しいスーツに視線を落とし、「先程は助けていただいて、ありがとうございました」とお礼を伝えた。
気にすることはないと彼は言うが、彼の背後にいる女性の顔はそうは言ってない。時間と手間を取らせたのは間違いなくキャリーなので、彼女の迷惑そうな顔も理解出来るし、これ以上邪魔したくなかった。
「それでは、失礼します」
キャリーは頭を下げてその場から立ち去ろうとしたが、彼の腕がそれを制止させた。
「送ろう」
「え、でも……」
「この間はまんまと逃げられたが、今日は簡単に逃げられるとは思わない方がいい」
そうは言うけど、あなたの背後にいる女性が信じられないほど恐ろしい顔してますよ? とキャリーはグレンに視線で知らせる。
こちらの視線に気が付いてくれた彼は、「すまないが、会場には一人で戻ってくれ」と冷淡な言葉を吐き出すと、女性ではなくこちらの腕を掴み、ホテルの外へ向かった。
「ちょ、ちょっと……」
「大人しく言うことを聞いた方が身のためだと思うが、ああ、それとも抱き上げられる方がいいか?」
口でこの人に勝つのは無理だ。もちろん口だけではなく、全てにおいて彼に敵わないだろうと悟ったキャリーは、素直について行くことにした。
ホテルの外へ出る際、取り残された女性のことが気になり、ロビーへ視線を向けたが、既に彼女の姿はなかった。
グレンが用意した車に押し込まれてから、「良かったのでしょうか」とキャリーは訊ねた。
「何がだ?」
「だって、さっきの女性……」
一緒にいた女性のことをこれっぽちも気にしていない様子を見て、何故かキャリーの方が女性を気の毒に思う。それを察したのか彼の唇が柔らかく解れる。
「君があの会場に出向くと聞いたから、彼女に取り持ってもらっただけだ」
「え……?」
「普段、君が父親に何を言われているのかは知っているし、パーティー会場で大概のオメガが何をするのかも分かってる」
そう言われてカァと身体と顔が熱くなった。
「僕は、皆のような……」
「それも分かってる。だから護衛がいるんだろう」
護衛? ああ、兄のことかと思ったが、あれは護衛というより、ただの見張り役のようなものだ。
フロベール家の名が傷つかないように見張っているだけで、護衛なんて格好良いものじゃない。
それに、先ほど兄に何を言われたかを知れば、キャリーが家庭内でどんな扱いを受けてきたか彼にも分かるはずだ。もちろん伝える気はないけど……、と唇を軽く濡らしたキャリーは、どうでもいい話を続けた。
「兄はフロベール家のために動いてるだけです」
「そうか、だったら、あんな風に誰にでも牙を剥くのは頂けないと思うが」
一体、何の話をしているのかと、キャリーは首を傾げながら、綺麗なラインを描くグレンの横顔を見つめた。
この人は仕事であの会場に来たわけではないのだろうか。一緒にいた女性だって怒っていたと思うし、こんな風に自分に時間を割いている暇などないのでは? と指摘しようかと思っていると、厳しい視線がキャリーに向かってくる。
「それで、どうして私の連絡を無視するのか聞きたいのだが?」
それを切り出されて、一気に気まずくなった。
確かに知らない番号から何度も連絡が入っているのをずっと無視してきたし、それが、グレンなのも見当はついていた。
つんと横を向き、きゅっと閉じていた口を開いたキャリーは、子供のような言い訳をした。
「知らない番号には出れません!」
「では、教えよう。携帯を出すんだ」
逃げ道を完全に断たれたキャリーは仕方なく携帯を取り出した。
彼に手渡す時、くすっと笑われてしまい、頑なに携帯に出なかったくせに素直だなと思われていそうで、急に体温が上昇した。
ああ、もう馬鹿だな、正直に出さなくても忘れたと言えば良かったのに……、と額に手をやりながら悔やむ。
「俺からの電話は今後出るように」
そう言って手渡された携帯のアドレス表示には、婚約者と表示されており、「な、何ですかコレ」と彼に画面を見せる。
「分かりやすくていいだろ?」
くっと肩を揺らす彼を睨みつけた。こんな子供みたいな悪戯をしてくるなんて、完全に面白がってるだけじゃないか、と携帯番号の上に表示されている『婚約者』を指で弾く。
「『愛しの』と付け加えてくれてもいいんだぞ」
「だ、誰が!」
おそらく、あとで表示名を変えると分かっていて、そう言っているのだと気が付いたキャリーは、「あなたの携帯にも同じように表示されているんですよね?」と嫌味を伝える。
「ああ、ちゃんと表示されるようになってる」
「……う、嘘ばっかり……」
彼の言葉に動揺して、声が上擦ってしまう自分が情けない。グレンがキャリーを『婚約者』だと登録するはずがないのに、そんなことを言われて、ぼわっと頬が熱くなる。
「く……くだらない冗談を言うのは止めて早く仕事に戻られたらどうですか?」
何もかも見透かすような視線を送って来る彼に、つい強がりな発言をしてしまうが、それすらも、彼にとっては想定内なのかもしれない。
唇を薄っすら開け、その隙間から見える舌先が動き出すと、「仕事などない」そう言ってグレンは正面を向いて言葉を続けた。
「言っただろう? 君に会いに来たと」
そう言われて、急に車内の温度が上がったような気がしたキャリーは、慌てて車の窓をあけると、止めていた息を吐き出した。
――なんだろう、息苦しい。
まるで、ずっと呼吸が出来なかったかのように、何度も深呼吸を繰り返した。
そのうち、自分の周りの空気がグレンの香りで濃厚になっていく感覚にキャリーは戸惑った。他の誰とも共有したことのない不安定な気持ちになるのは何故だろう。
その後も、彼に翻弄されるままに、くだらない会話を続けながら、ようやく自宅へと辿り着く。家の前まで送ってくれたグレンにお礼を伝え、急いで自分の部屋へと戻った。
――ハァ……、やっと気が楽になった。
車で交わした会話の大半は覚えてない。なぜなら自分に会いに来たと言われた言葉が頭の中の半分を占めてしまい、他の話はあまり重要じゃなかったからだ。
キャリーが携帯に出ないからといって、わざわざ、携帯の番号を教えに来たの? と冷静に彼の行動の意味を考えて、そんな馬鹿なことがあるはずがないのに、けれど、もし、そうならと考えると変な気分になる。
――だって彼はアルファじゃないか、オメガにそこまで執着するなんてことあるわけがない。
自分でも分かっていることを再確認する。携帯を取り出し、グレンの番号を表示させると『婚約者』の文字が浮かび、ハァ、と深い吐息が出るが、それが、どんな意味で吐き出されたのか自分でも分からなかった――――。




